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キリスト『この世には確かに、闇がある。だが、光は、闇をも凌駕する。』(超訳)

キリスト教の礎 イエス・キリスト

内省

今回のヨハネによる福音書の第1章をどう『超訳』すればいいかいつもより時間はかかったが、それでも、数分多いくらいだ。曇りなき眼で見れば、言葉の真意は必ず理解る。

『この世に最初に存在したものは、言葉であった』

『この言葉が神で、この言葉によっていっさいのものが創造された』

 

そしてこう続く。

『この言葉には生命があった。人の光となる生命である。この光は闇の中で輝いていた。』

 

これをストレートに解釈してしまうと、

 

(宇宙創造の前の、ビッグバンよりも前に、『言葉』があった?どういう意味?)

 

となる。 この『謎解きのような言い回し』こそが、私が聖書を嫌っていた理由の一つだ。救うために存在するはずの聖書が、なぜ人を『混乱』させるのだ。そしてその聖書を『バイブル』などと称して常に所持する連中が、まるで聖人にでもなったかのように振る舞い、それ以外の人間を揶揄する。こういう排他的な『エセ』クリスチャンがいなければ、私はもっと早くから、聖書に向き合っていたことだろう。

 

20年前に感じたこの『違和感』は、今も尚間違いだと思わない。それどころか、強化された。『言い負かした』のだ。最近。すると一人の『自称』クリスチャンはこう言った。

確かにクリスチャンは、自分たちの信仰だけが正しいと思いがちなところがある。

 

最初はいつも通り歯向かってきた。だがとうとうそう言ったのだ。

 

私の親である。

 

それまでは全ての責任を私に押し付けていた。自分はキリストを信仰しているのだから自分に間違いはない。他の兄弟だってちゃんとやっている。だから原因は、責任は『お前』にある。そういう姿勢を頑なに崩すことがなかった親を、私はついに、論破したのである。

 

私が言う『本物のクリスチャン』というのは、『レ・ミゼラブル』に出てくる、銀の食器を盗まれた牧師だ。盗んだ者に対し、温かな愛で赦した。罪の意識を心底に抱えていた盗人は、その愛の大きさによって、本物の愛を知り、こんな自分でも生まれ変わることが出来るという、『光』を、生きる希望を見出したのだ。

 

そんな中、私の周りの『エセ』クリスチャンはどうだ。皆、自分の外聞や体裁のことしか考えない。『あなたのためだ』と言って『強要』し、自分が責任を取ることになると、それが嫌だから更に『強要』して悪循環に自らも陥る。本当は『自分の為』じゃないのか?本当に相手の為を思っていれば、思いは必ず伝わるはずなのだから。『バイブル』を持っているなら、解決できたはずだ。問題を解決できない書物など、『バイブル』ではない。人生におけるあらゆる問題を解決する。それこそが『バイブル』なのだ。

 

私は言った。

『真理こそが正しいんだ。仏教だろうがキリスト教だろうがイスラム教だろうが、真理を説いているならみんな正しい。そして真理を説いていないなら、みんな間違いだ。問題に直面したら、真理に則ってそれを解決する。それが書いてあるのが、聖書であり、仏典であり、クルアーンじゃないのか。

 

それとも、自分たちだけが正しいのか。自分がいるコミュニティだけがこの世で最も崇高なのか。真理以上に重きを置くものがあってはならない。ソクラテスもそう言っているぞ。 では、真理よりも大事なものがある。それは、家族だ、子供だ。そういう人がいたとしよう。

 

だが、あるときその子供が、罪を犯した。だがその親は、『何よりも大事なその子供』を『かばい』、嘘をついてかくまった。

『私の息子がそんなことするわけありません!』

 

本当にそれが、『愛』か? それとも、『そういう事態にならないように尽くす』ことが、『愛』か?真理よりも、『子供』に重きを置くとそうなる。そういうことなのだ。自分の思想が、自分たちの信仰だけが正しいと思っているのであれば、それは『偏っている』。この世で絶対不変の真実は、『真理』以外に存在しない。』

 

そして親はこの後に、あの言葉を言ったのだ。まるで、そう言うしかなかったかのように。

 

実に、30年で初めて、良くも悪くも下に見ていた息子に、『論破』された瞬間である。30年以上もクリスチャンを名乗っていた親が、たった1人の青年に、それも責任を押し付けていた不良息子に、白旗を振ったのだ。

 

それはいったいなぜだろうか?私が賢くなったから? いや、違う。話しを戻そう。 この話は、聖書だけに留まる話ではない。ブッダが生まれる前に、占い師のアシタが、ブッダの父親にこう言った。

『シッダールタの人生にはふたとおりの可能性がある。ひとつは、今まででもっとも偉大な王、すべての国を支配する皇帝になるだろう。もうひとつは、偉大な聖人となり人類を救うだろう。そのために宮殿での快適な生活を離れ、世捨て人となるだろう。』

 

次の言葉が重要である。

『彼は国王の地位を捨て、感情を抑え、真実を知る。彼の知恵の光を前にすると、日の光の前で夜が逃げ出すように、この世から過ちは消える。彼は、邪悪な海の中で、とげのように突き刺してくる病や、押し寄せる老い、怒り狂う死の波に苦しむ人々を救い、知恵という偉大な船に乗って、ともに漕ぎ出す。彼はどこへ向かうべきかを知っている。それは、流れが速く、すばらしく、恵み深い川。務めをなすべき川だ。

 

川

 

彼は道筋を明らかにする。渇きに苦しむものはそこへ来て、水を飲む。悲しみに苦しむ者、感情に囚われている者、道に迷った旅人のように存在の森をさまよっている者には、救済への道を指し示す。感情の炎に身を焦がす者には、みずからが洗い流す雨をもたらす雲になる。真理で武装した彼は、生きるもの全てが疲れ果てている欲望の牢獄へ行き、邪悪の門を破壊する。すべてを理解している彼は、世界を解き放つのだ。』

出典:『幸福の計算式』

 

さて、どういう意味かわかっただろうか。キリスト、ブッダ、そして30年も敬虔なクリスチャンを名乗っていた私の親と、それを論破した私の話、そして、盗人を赦した牧師の話。何かが見えてこないだろうか。そう、それこそが『真理』である。親を論破したのは、私ではない。『真理』だったのだ。

 

簡単なことだ。『1+1=2』。それを言う人は、『それを知らない人』を、『論破』出来る。答えを教えて説く、つまり『説教』が出来る。それと同じことだ。コロコロと変わるような答えでは、『真理』ではない。真理とは、いつどんなときも変わることのない、絶対不変の真実のことを指す。

 

『赤い花の方が青い花より綺麗』とか『あの人より私の方が魅力的』とか、こういうことは『真理』には当てはまらない。相対的だからだ。つまり、『絶対不変の真実』ではない。見る人によって変わってしまう事実は、真理とは呼ばない。聖書にある『この光は闇の中で輝いていた』ということと、アシタが言った『日の光の前で夜が逃げ出すように、 この世から過ちは消える。』というのは、どこか似ていないだろうか。

 

また、ミゼラブルで牧師がみせた、あの愛の形はどうだろうか。盗人であるジャン・バルジャンの固く閉ざされた心の闇に、光を照らしたのではないだろうか。私の親を私が論破したことがどれだけ大きなことかということは、私にしかわからないだろう。だがそれもまた、『真理』が成し遂げたことなのである。決して私の力ではない。

 

真理は、ときに『神』となり、『光』となって、道を拓き、問題を解決し、そして人の心を救うのだ。聖書やこの世にあるあらゆる神聖な書物や信仰が、そういう『光』であるならば、その存在価値は大いにある。それどころか、永遠に『バイブル』や『神聖なもの』として、尊ぶべきである。

 

 

参照:『ヨハネによる福音書 第1章』

 

 

注意
※これらの言葉は参考文献や史実に基づき、運営者が独自の見解で超訳し、自らの生きる糧、自らを戒めるため、内省の為に日々書き留めたものです。史実を正確に把握したい方は正当な書物をご覧ください。

参照文献

聖書
ヨハネによる福音書 第1章。

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