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『私が『神』という言葉を抵抗なく使えるようになったのは、その言葉自体に何の意味も無いことを理解したからだ。』

意味

『神』という言葉は、『言葉』であり、『日本語』である。そして、それを作ったのは人間であり、日本人である。だが、人間というものは、恒久的に未熟な存在である。だからたったの数百年足らずの時間の中で、既成概念や固定観念、常識や法律といったものがみるみる変わってしまい、跡形もなくなってしまうものさえあるわけだ。

 

つまり、同じようにこの『神』という言葉の信憑性も怪しい。怪しいということは、『神そのもの』について言っているのではなく、『神と名付けた人間』のことを言っているのである。その人間が怪しいという理由は、たった今書いたとおりだ。人間は恒久的に未熟なのである。

 

私は『神』が嫌いだった。両親からクリスチャンになることを強要されて育ったからだ。29歳の頃実家に戻ると、

『この家はクリスチャンの家だから従えないなら出ていってもらうしかない。』

 

と言われた。我が家の中で、宗教問題についての激動の時代は、10代の頃に終わっていたと思っていたが、勘違いだったのだ。これは、一生続くのだ。

 

そうした『精神的虐待』にも似た窮屈な経験をした私にとって、無理矢理させられる『祈り』や、無理矢理聞かされる『イエス様』という言葉、無理矢理見させられる『聖書』に、無理矢理歌わされる『聖歌』というものは、拒絶の対象でしかなかった。

 

何が神だよクソ野郎。何で神がいるんだったら俺だけが強要されて疲弊し、親だけが恩恵を得ているんだ。神に従えば恩恵を得られるのか?そういう風に誘導しているんだな?

俺は屈しない。絶対に屈しない。何が神だよクソ野郎。もし神がいるなら俺を止めてみろや。

 

私は日に日に、そういう煮えたぎる思いを燃やしていったのだ。

 

私は神と親をセットで考えていた。神を信じることは、親を信じることも意味していた。だが、私はこの親が信じられなかったのだ。どう考えても越権的で、歪んでいる部分があり、都合の悪い部分を隠蔽する醜い一面を持っていた。例えば、私が子供だからとか、集音マイクや監視カメラがついていないからという事実を利用し、自分たちのエゴの堂々と正当化してみせたのだ。

 

私は、超鈍感、鈍感、敏感、超敏感、でいうのなら、超敏感な人間だった。従って、私は子供の時代から、彼らに対する『不信感』を、微妙に感じる『違和感』を通して、察知していたのだ。

 

嘘だ。今、絶対に嘘をついた!…これは俺が子供だから、わからないと思って嘘ついてるのかな…証拠も残らないよな…でも、神様がなんとかっていう人が、そういうことをするのかな…ずるいよな…反抗すると力づくで抑えられるし、例えば家を出て行けと脅される…。そのくせ自分たちには非はないと思ってるんだ…

でも、今、間違いなく嘘をついた…もう、誰を信じればいいのかな。これで『神様を信じます』ということには、ならないよ…

 

私は子供の頃からそう思っていて、そしてそれが積もり積もって『何が神だよクソ野郎。』という人間になっていったのだ。

 

だが、私はこの波乱に満ちた半生の中で、ようやくたどり着いたのだ。

 

『神』。それは言葉である。

 

そしてその言葉を作ったのは、人間である。人間は、恒久的に未熟である。従って、私がこの言葉に対して不信感を抱くのは当たり前である。なぜなら、神という言葉を通して、私は『人間を見ている』のだ。だからこそそこに不完全さがあり、不信感があるのだ。

 

 

しかし、この冷静な分析をした後に、もう一度『神』と名付けられた『対象のもの』を曇りなき眼で見てみると、そこにあるのはなんと神々しい人智を超えたエネルギーなのだ。この神々しいエネルギーを様々な人間の思想というフィルターを通せば、現存する『神』の概念が存在する理由もうなづけるというものである。

 

…『8,000の名言から浮かび上がった54の言葉-53 『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ』に続く。

 

 

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