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『暴れん坊将軍』徳川吉宗は実際には暴れる暇もないほど『米将軍』として微調整を強いられた?

『暴れん坊将軍』

松尾芭蕉が『忍者』で、近松門左衛門が『北野武』に影響を与え、市川團十郎が舞台の上で刺殺される?

 

上記の記事の続きだ。さて、そうして七代将軍家継の時代が到来したが、なんとその家継もわずか7歳で死去。すると、家康・秀忠・家光の3人の血を引く者がいなくなったので、分家である『三家』の紀伊家から、徳川家康のひ孫であった徳川吉宗を将軍に迎え入れる。本来であればここで徳川政権が終わったと言っても過言ではないが、そうなったら困るわけだ。だからそうならないように、ここから特に『分家』を意識し、血が絶えないように工夫した。

 

[徳川吉宗像(徳川記念財団蔵)]

 

この吉宗は、現代の世では『暴れん坊将軍』のモデルとしても有名だ。「将軍徳川吉宗が江戸市中を徘徊し大立ち回りを演じる」という斬新なテーマで始まったこのドラマは、当初の不安を押しのけて、一躍人気番組となった。その少し前にいた徳川光圀が『水戸黄門』であり、その少し後の話だ。

 

徳川光圀(水戸藩主) 『水戸黄門』 1628~1700年
徳川吉宗(八代将軍) 『暴れん坊将軍』 1684~1751年

 

下記の記事に、

獲れる米の量が増えれば別だが、土地にも限りがある。この時、鉱山の資源枯渇問題もそうだが、色々と『物事には限界がある』ということを感じ始めた時期だと言えるだろう。

忍者?侍?我々を忘れてるようだ。我こそは『浪人』!世界が驚嘆した『赤穂浪士討ち入り事件』の主役だ!

 

と書いたが、その限界を更に強く感じ始めたのは、吉宗の時代だった。家康が幕府を開いてからすでに100年の時が過ぎていた江戸幕府は、時代の流れによる権威の薄らぎと共に、貨幣経済が発達して出費が増え、新田の開発が限界に達していた。

 

600年代に中大兄皇子が『農地(口分田)』を与えて、そこから班田収授として年貢を納めさせるというシステムを構築してから1000年の時が過ぎていたのだ。金や銀の発掘よりも確かに限界は長いが、この世は有限。土地の開拓ももう限界に達していたのである。

 

中大兄皇子が蘇我入鹿を倒して『大化の改新』が始まる!天皇を中心とした中央集権国家を作るのだ!

 

財政難の原因

  1. 貨幣経済の発達による出費の増加
  2. 新田開発の限界による租税の停滞
  3. 社寺の造営
  4. 大奥の華美
  5. 多数の旗本の登用

 

これを打破するためには、改革が必要だった。吉宗は徳川主流の華やかな血筋ではなかったため、『傾きかけた企業の再建を担う再建人』ように立ち振る舞い、無駄を削減して、少しでも売り上げを上げるように『従業員』を締め上げ、この財政難を乗り越えた。

 

具体的には、まず先代の新井白石らを退け、庶民らには年貢の増徴を課し、吉宗自身も贅沢をせずに、一日二食の質素倹約を務めた。町奉行の大岡忠相(ただすけ)や儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)など、優秀な人材を採用。『足高の制(たしだかのせい)』を制定し、人材の石高が役に対して不足したときには、臨時的に石高を足して、家柄の上下にかかわらず、優秀な人材を採用した。

 

[荻生徂徠(『先哲像伝』より)]

 

足高の制

役職ごとに給料を決め、石高がそれに満たないような家柄が低い者には差額を窮する制度。

 

また、公事方御定書(くじがたおさだめがき)という裁判の判例集を作り、相対済し令(あいたいすましれい)という法令で、金銭の貸し借りの訴訟を当事者間で解決するように定め、目安箱を設置して民衆の声を拾い上げ、町火消を儲け、貧民の救済施設を作った。

 

また、『上げ米(あげまい)の制』として大名たちに年貢として納める米の量を増やさせ、その代わりに参勤交代を半減し、江戸の滞在期間を半年間にした。下記の記事に書いたように、三代将軍家光がやった参勤交代。これによって、大名の妻や子が江戸の屋敷に住み、大名自身は1年間江戸で暮らし、4月に領地に戻り、翌年4月に再び江戸に向かうというサイクルができる。自国と江戸の往復を義務付けるということ。

 

  1. 妻や子=人質
  2. 大名=監視下に置く

 

こういった目的がこの制度の根幹にあるわけだ。秀吉がかつて行った、

 

  1. 安定した税収の確保
  2. 領主の中間搾取の排除
  3. 刀狩り令
  4. 兵農分離

 

も、二代将軍秀忠がやった、

 

  1. 一国一城令
  2. 武家諸法度(ぶけしょはっと)
  3. 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

 

も、すべて根幹にある目的は『自分の政権の安定化』だ。今までの歴史を考えて、同じ轍を踏まないように、あらゆる方向から脅威となる存在を前始末的に排除し、戦国時代の二の舞にならないことはもちろん、徳川政権が末永く続くように考えたシナリオである。大名たちは、参勤交代の経費を自腹で払う必要があったため、藩財政を慢性的に圧迫した。

 

徳川家光が『武断政治』の総仕上げとして『幕藩体制』を築き、この世界に『対人恐怖症』が生まれた!

 

しかしそれでいいわけだ。徳川政権の脅威となる可能性がある地方の大名は、財政難に陥ってもいい。そして参勤交代で監視し、よりその脅威の増幅を抑制することができるわけだ。だからこの参勤交代が半減するということは、彼らが『脅威』として勃興する可能性の増幅を意味していたが、それよりも目の前の財政難を何とかするべきだったのだ。それほど追い込まれていたというわけだ。苦肉の策だった。

 

こうした吉宗の財政再建は『享保の改革』と言われた。だた、これだけでは足りず、商人に資金を出してもらって、結局新田開発にも着手。更に、年貢の徴収方法を、『収穫量に応じて年貢率を決める方法』から、『一定率の年貢を納めさせる』ようにした。しかし、冒頭の記事にも書いたように、

 

  1. 寛永・元禄文化の発展
  2. 道路の整備
  3. 金・銀・銭貨の流通

 

といった要因によって活性化した日本と国民は、『欲しいもの』が増えていた。江戸時代中期は江の島や弁才天が人気だったが、後期になると『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』の主人公、弥次さん喜多さんの目的地である伊勢神宮を目指す『御蔭参り(おかげまいり)』が流行し全国的に寺社詣や、旅がブームになった。

 

下記の記事でも、『ただ生きていくために生きていた時代は、『満足』を追い求め、それが満たされると人々は『贅沢』を追い求めるようになった』と書いたが、文化や文明が発達するということは、その背景に『贅沢を追い求める欲深い人間』がいるわけだ。別の言い方をすると『別にする必要がないことに夢中になる人間』が増えるのである。

 

生きるために『水』が必要だった。だが、『満足』した人々は『贅沢』を求めた。

 

するとこういう現象が起こる。

 

STEP.1
国が栄える
STEP.2
満足から『贅沢』に目が行く
STEP.3
欲しいものが増える→物価が上がる
STEP.4
米を売ってお金に換える
STEP.5
米が市場にあふれる
STEP.6
米の値段が下がる
STEP.7
米を支給される人々は困窮する

 

国が繁栄し、様々な娯楽が活発化して人々の生活が豊かになるのはいいが、その一方で彼らの欲は強まることになる。欲とは『人間味』と表現することもできる。かつて、世界で奴隷が当たり前のように浸透していたことを考えると、奴隷のような欲を制限された人々には逆にこの人間味がない。こうした問題は人が人間味ある生活を送り始めた証拠でもあり、同時に社会問題ともなった。

 

アフリカ大陸の持つ『異色』の歴史は『肌の色が異色』という重いキーワードをこの世に生み出した

 

したがって、吉宗は常にこの米相場を調整しなければならず、『米将軍』と言われることもあった。『享保の大飢饉』という凶作があった年には米相場が急上昇し、米問屋が襲撃される『打ちこわし』が起きるなどのパニックもあり、米が社会を左右する現実を目の当たりにする時代となった。

 

そこからほとんど変わらない時期、フランスでは『フランス革命』という世界を揺るがす大事件が起きていた。ルイ16世(在位:1774年5月10日 – 1792年8月10日)の時代にあったそれは、ルイ14世の『ヴェルサイユ宮殿』等の浪費から始まり、王妃、マリー・アントワネットの浪費と、彼ら中央にいる要人と、民衆にあまりにも距離が開きすぎたことが原因で巻き起こった革命だった。

 

[マリー・アントワネット(エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画、1783年)]

 

当時のフランスは、絶対王政の時代。度重なる対外戦争や宮廷の浪費がフランスの財政を大きく圧迫し、そのしわ寄せが国民の多数を占める第三身分の『平民』に来ていた。

 

国王
第一身分 聖職者 約12万人
第二身分 貴族 約40万人
第三身分 平民(市民、農民) 約2450万人

 

『フランス革命』の原因はルイ14世?ルイ16世?それともマリー・アントワネット?

 

『上(中央)を重んじて、下(民衆)をないがしろにする』と、こういうことが起こってもおかしくはないわけだ。しかしそうならなかったのは国民性もあるが、庶民の気持ちをよく理解していて寄り添い、自身も質素倹約に徹したことが大きかっただろう。彼の生活ぶりがどれだけ民衆に伝わったかはさておき、『気持ちは伝わる』ものだ。

 

だが確かに政策によってシビアな境地に立たされたのは確かであって、そういうことも『打ちこわし』に影響していると言えるだろう。だが、フランス革命のような大惨事にならなかっただけマシだった。もっとも、織田信長が戦国時代で全国に恐怖の爪痕を残し、それを豊臣秀吉が受け継いで圧倒的に全国を統一し、更にそれを引き継いだ徳川家康・秀忠・家光が武断政治によって『力づく』で脅威を抑え込み、江戸幕府の権威を作り上げたことも革命が起こらなかった要因と言えるだろう。

 

1978年(昭和53年)から2002年(平成14年)にかけて放送したテレビ朝日系『暴れん坊将軍』では、文字通り吉宗が大暴れする時代劇だが、実際の吉宗将軍には『暴れる暇』はなかったと言えるだろう。あの番組が25年間も続いたのは、奇策を打ち出したからだ。当時、

 

  • TBS『8時だョ!全員集合』
  • 日本テレビ『全日本プロレス中継』
  • フジテレビ『オレたちひょうきん族』

 

といった他局の番組が人気を博していた。その中で生き残っていくためには、差別化を図り、そしてそのなかで独自性も打ち出す必要がある。そこで唐番組は、当時流行していた要素を取り入れ、深夜の娯楽番組『トゥナイト』から山本晋也監督がサングラス姿で登場したり、『アルマゲドン』が流行すれば彗星を近づけてみたり、あるいは『仮面ライダー』と将軍が一緒に並走するシーンなど、江戸時代にはあり得ない娯楽要素を取り入れ、盛り上げた。

 

結局あの番組は『テレビ番組』であり、その背景には『永続繁栄』と『視聴率争い』のためのあらゆる戦略が詰められていて、本家本筋をなぞるだけの物語にしては、あそこまで長い間人々の注目を浴びることはできなかったということなのである。

 

 

だが、九代将軍家重(いえしげ)(在任:延享2年(1745年) – 宝暦10年(1760年))になったときに、吉宗時代の年貢の増額によってやはり百姓一揆の件数が増加してしまった。

 

[徳川家治像(狩野典信画、徳川記念財団蔵)]

 

15年経ち、すぐにその子供である、10代将軍徳川家治(いえはる)の時代(在職:宝暦10年(1760年) – 天明6年(1786年))になる。老中の田沼意次(おきつぐ)が実権を握る『田沼時代』と言われたこの時代には、吉宗、家重が持ち直した財政状況は悪化してしまっていた。徳川家康・秀忠・家光が作った徳川の権威も、弱体化してしまっていた。

 

そこで田沼は貨幣経済が流通したことに目をつけ、米ではなく『金』を使ってこの財政残を切り抜けようと考えた。商人にお金を稼がせ、そこから税をとることで財源を確保しようとしたのだ。

 

吉宗、家重 米を使った社会の立て直し
家治、田沼 金を使った社会の立て直し

 

  • 株仲間の公認
  • 輸入中心の貿易に輸出要素を取り入れる(金銀の回収)
  • 南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)の発行
  • 蝦夷地開発(ロシア交易)

 

といった政策によって、経済的に豊かになるように画策した。南鐐二朱銀は、8枚で小判1両に換算でき、重さをその都度図らなくてもよくなり、経済の活性化を手伝った。下記の記事に書いたように、ロシアは18世紀後半に『不凍港』を求めて南下政策を取る。しかし、ヨーロッパが壁となり、方向転換を余儀なくされる。

 

地中海に出ると、ヨーロッパが敵になるか…。

 

そう考えたロシアは、方向転換して東アジア方面の不凍港を見つけようとする。しかし今度はそこで、日本と満州や朝鮮半島の主導権を取り合うことになり、『日露戦争』へとつながっていくわけだ。

 

[ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている]

 

ヨーロッパの列強が『ロシア』の潜在能力を恐れた!東方問題とクリミア戦争下で活躍した偉人たち

 

だがそれはまだここから100年後の話。まずロシアは1792年に使節ラクスマンが根室に、そして1804年には使節レザノフが通称を求めて長崎に来航。鎖国を死守していた日本は、これを機に千島列島を調査して蝦夷地を直轄化し、1809年には間宮林蔵が海峡を発見。彼はアイヌも根を上げる極寒の中、樺太が陸続きの半島ではなく『島』であることを確認した。その後、伊能忠敬とその弟子たちが全国の測量を行い、1821年には日本初の科学的実測に基づく日本地図が完成する。

 

[伊能忠敬が使用したとされる大・中方位盤。大谷亮吉著『伊能忠敬』(1919) p.322 より]

 

ちょうどこのあたりの時代から海外を意識するようになり、鎖国的な考え方の限界を少しずつ感じるようになった。そして、蝦夷地や琉球王国はこのあたりから『海外対策』も兼ねて、徐々に日本の内部に取り込まれ、下記の表にある年代の時に、『北海道、沖縄』となっていくのである。

 

蝦夷地が北海道に代わった年 1869年
琉球王国が沖縄になった年 1879年

 

蝦夷地、琉球王国が日本に組み込まれる以前の話。世界の小規模で独特な文明の運命とは

 

ただ、こうした政策は一部の豪商と幕府の結託による賄賂政治を助長し、田沼政治は『金に汚い』という悪評をつけられてしまう。しかし実際には彼一人が『賄賂政治』の悪名を負っただけで、この時代は賄賂政治は当たり前のように行われていたという。

 

しかし、

 

  • 浅間山の噴火
  • 天明の大飢饉

 

が重なり、凶作によって米相場が高騰し、一揆、打ちこわしが頻発。田沼は、10代将軍家治が死去するとともに辞職することになった。

 

 

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