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無鳥島の蝙蝠(コウモリ)は誰だ?四国の長宗我部元親、中国の毛利元就、『九州三強』龍造寺隆信、島津義久

『毛利元就、長宗我部元親、龍造寺隆信、島津義久』

畿内・東海で信長が倒せなかったのは誰だ!?浅井政長、朝倉義景、斎藤道三・義龍、足利義昭、松永久秀の奮闘

 

上記の記事の続きだ。

 

  • 東北
  • 信濃
  • 関東
  • 東海
  • 畿内

 

この次は、中国(地方)と四国だ。中国地方のいたのが毛利元就だ。毛利氏は単なる一地方の国人領主だったが、この元就がその名を全国に轟かせた。彼が家督を継いだ時、

 

  1. 出雲の尼子氏
  2. 周防の大内氏

 

という二大勢力がいたが、元就は彼らの隙を見ながら着々と勢力拡大の戦略を立てていた。そして長男と次男を使って他の家系の跡を継がせ、相続問題にも介入させ、水面下からじわじわと確実に勢力を毛利勢力を浸透させていった。そして、

 

  1. 安芸
  2. 備後(びんご)
  3. 石見

 

の3国を支配下に収めるようになった。

 

[紙本著色毛利元就像(毛利博物館蔵)]

 

そんな最中の1551年、元就が従属していたが大内義隆が家臣の末晴賢(すえはるかた)に殺害されてしまった。彼がやったことは謀反であり、それを打ち破るのは『正義の成敗』だった。

 

もし末晴賢を打ち破れば毛利の名も上がる!

 

そう考えた元就は、厳島(いつくしま)にて彼を襲う計画を立てた。戦上手の末晴賢にはよほどの計画がなければ勝てない。元就はただただ入念に準備して計画し、厳島に末晴賢を誘い込むことに成功した。そして、夜明け前の闇に紛れて急襲。簡単な話だが、ただこれだけのことで末晴軍は混乱し、結局元就の完勝になった。

 

[厳島(宮島) 筆者撮影]

 

ただ、『ただこれだけ』とテキストを読むと感じるだろうが、まず、『人を殺す』ことを計画すること自体が普通ではない。しかも、一歩間違えれば自分が死ぬわけだ。そういう様々な人間の人生がかかっているその時、戦上手の敵を相手にして、ミスなく戦略を立て、冷静にそれを遂行すること自体がすでに普通ではないのだ。元就だけではない。彼の部下にもミスは許されない。そういう『部隊の統率』、人間心理の掌握といった様々な部分にも目を配らなければならない。

 

事実、元就の軍においては内部からの反乱がほとんどなく、家中から信頼されていたという。彼にどれだけ人望があり、統率力に長けていたかということがわかるワンシーンである。『当たり前のことを当たり前のようにできる人間が強い』のであり、それを当たり前のように行うことは、当たり前ではないのである。

 

とにかくこれで強敵、末晴賢は倒した。彼は自害し、元就の目前の敵は尼子氏のみであった。彼は中国11か国を領有する実力者で、大内氏、毛利氏とは激闘を繰り返していた。奪われては奪い、という一進一退を繰り返し、石見銀山を毛利から奪回したり、大内義永を討って周防、長門を併呑した元就の軍勢と戦い、激闘を繰り返した。

 

[島根県 石見銀山 筆者撮影]

 

だが、元就にとってすぐに好機は訪れた。1560年に尼子晴久が亡くなり、その跡を義久が継ぐと、一時的に弱体化したその隙を狙って攻撃し、降伏させたのだ。これでついに中国地方に元就の敵はいなくなった。そして彼は13か国を領有する一大勢力を持つようになったのである。

 

 

四国には長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)がいた。『土佐の出来人(できびと)』と呼ばれた元親は、幼少の頃は『姫若子(ひめわかご)』と言われるほど女性的ないで立ちをしていたが、それは幼少期までだ。家督を継いだ後は土佐の有力諸氏を次々と降し、1575年には土佐を統一し、四国を制覇するため織田信長、豊臣秀吉にも立ち向かった。

 

[絹本著色長宗我部元親像]

 

四国にはまだ、

 

  • 讃岐
  • 阿波

 

といった他の勢力があった。そしてそこと手を組み、元親に圧力をかけたのが信長だ。信長は元親に自分に屈するように申し出るが、それを断固として拒否。あわや一触即発の緊張感が走った。だが、信長自体は『本能寺の変』でその直後に死亡。跡を継いだのは豊臣秀吉だった。

 

その間に元親は四国で勢力を拡大していた。1585年、それは東北地方で『遅れてきた名将、伊達政宗』が家督を継いだ翌年のことだったが、ちょうどその頃、四国ではこの元親によって統一が果たされていた。戦国時代の当時はこのように、全国の至る所に猛者たちがいたのだ。近隣のエリアを支配するほどの力を持った実力者が沸き上がり、日本中が悪い意味で大いに盛り上がった。

 

だが、彼らは本当に『猛者』だったのか、我々は歴史をひも解くと首をかしげざるを得ない事実に直面することになる。そこへやってきたのが秀吉だ。

 

豊臣秀吉

讃岐、伊予を引き渡せ!

 

では元親はどうしたか。かつて、織田信長にも逆らった彼が、そう簡単に引き下がるわけはなかった。伊予の一国だけ返上し、それで何とか手を打つように画策。しかし、豊臣秀吉という男は何枚も上手だったのだ。秀吉は12万もの大軍を率いて四国に侵入し、元親を討ち取りにやってきたのだ。元親は抵抗するが、結局2か月で降伏。こうして四国は秀吉の手に落ちた。

 

信長は長宗我部元親を、

 

あんなのは無鳥島の蝙蝠(こうもり)だ。

織田信長

 

と揶揄したという。『鳥のいない島で飛ぶ蝙蝠』。つまり、有力な大名がいない四国でどれだけ幅を利かせても、たかが知れているということだったのだ。そして結果はその通りになった。信長の跡を継いだ秀吉が、元親が苦労をして統一した四国をあっという間に制圧したからだ。

 

 

これは現在の暴力団や暴走族の話で考えてもそうだが、都会で暴走行為をし、都会を治めるのと、地方で暴走たり、そこを治めるのとではわけが違う。例えば暴走行為一つにおいても、都会の23区で暴走するのは困難を極める。世界でも圧倒的に機動性のある東京の警察がいて、歌舞伎町にはアジア一の繁華街があり、六本木には様々な権力やエネルギーが集まる。

 

しかし地方ではいくら暴走行為をしても、山奥で薬物を乱用しても、そこまで警察は追ってこない。新潟のあるアウトローが言っていたが、彼曰く、やることがないので『強姦』が多いという。それくらい周囲には何もなく、そしてそうした犯罪も簡単にまかり通る。それは都会では考えにくいことなのである。

 

自然豊かな穏やかな町を制圧することは容易であり、難易度は低いのだ。つまり、この世には激戦区とそうじゃない場所があり、いくら後者がそのエリアで勢力を誇ったとしても、信長の言うように激戦区を勝ち上がった人間には到底かなわないのだ。『くぐった修羅場』が違うのである。

 

地方には豊かな自然がある。それが最大のメリットだ。例えば小笠原諸島だ。私も行ったが、まるでパラダイスである。それが何よりのメリットだ。だが最大のデメリットはその利便性のなさだ。とりわけ、この勢力を競い合う戦国時代においては、こうした地方のデメリットは、大きな弱点となった。いやもちろん、信長勢力の実力が半端ではなかったのも大きな理由なのだが。

 

[小笠原諸島 筆者撮影]

 

さて、次に見るのは九州だ。九州には『九州三強』と言われる勢力、

 

  1. 大友氏
  2. 龍造寺氏
  3. 島津氏

 

があった。そのうち北九州で圧倒的な勢力を誇った大友宗麟(おおともそうりん)に関しては、次の記事で書こう。それには理由があるのである。さて、龍造寺だが、龍造寺隆信(たかのぶ)という人物は、見た目も頭脳も、いかにも戦国時代で活躍するだけのポテンシャルを持った人物だった。彼は肥満体であり、馬に乗れず、『輿(こし)』に乗って移動したので、すぐに標的にされるというデメリットがあったが、『平家物語』の壇の浦の戦いのくだりを暗記して語るほど頭脳は明晰だったという。

 

[龍造寺隆信像(宗龍寺蔵、佳山宗勗賛)享保4(1719)年、佐賀県重要文化財]

 

隆信は、1559年にかつて主君だった少弐氏(しょうにうじ)を討ち、東肥前を平定し、その後、西肥前の有力国人、有馬・大村連合を破り、確実に勢力を伸ばしていった。1570年、そうした龍造寺の勢いに危機感を感じた先ほどの豊後(ぶんご)にいた大友宗麟は、龍造寺の芽を摘む為に6万の大軍で肥前にやってきた。龍造寺はあわや落城寸前の危機に陥る。

 

だが、そこで登場するのが家臣の鍋島直茂である。彼はその危機的状況で冷静に戦略を立て、隆信に進言。

 

鍋島直茂

隆信様、きゃつらが油断している隙に夜襲をかけるのです!
よーし、やってやろうじゃねえか!

龍造寺隆信

 

この中心人物の戦略・奮闘によって龍造寺は危機を脱することに成功。つまり、大友軍の敗走に繋げたのである。その勢いに乗って、隆信は有馬・大村氏を下して肥前を統一。大友宗麟が日向で島津義久に負けたと聞くやいなや、宣孝は大友氏の領域に侵入し、

 

  1. 筑前
  2. 筑後
  3. 肥後
  4. 豊前

 

を勢力下に置くことに成功したのである。ところが、島津氏の北上とともに、島原の有馬氏が島津氏に寝返り、島原半島の国人が龍造寺に謀反を起こした。1584年、隆信は沖田畷(おきたなわて)で島津軍と合戦し、そこで死亡してしまった。

 

その島津義久だが、結果的に彼は大友、龍造寺を破って九州最強の戦国大名となった人物である。島津氏で有名なのは彼の弟『島津義弘』だが、兄である彼もまた、九州制覇直前まで島津氏の勢力を拡大させた立役者だった。

 

  1. 島津貴久(父)
  2. 島津義久
  3. 島津義弘(弟)

 

義久の時代は島津氏は単なる一国の守護大名…でもなかった。薩摩一国すらまとめきれていない状況で、大した勢力ではなかった。しかし義久は、父と弟と力を合わせ、

 

  1. 薩摩・大隅の統一
  2. 日向南部の統一

 

を果たし、南九州を制圧した。北九州には大友氏であり、南九州にはこの島津がいたのだ。更に義久は、

 

  1. 大友宗麟(耳川の戦い)
  2. 龍造寺隆信(沖田畷の戦い)

 

を撃退し、豊後へと兵を進める。しかし、そこへ豊臣秀吉が介入し、大友宗麟との和平を命じるが、島津軍はこの秀吉軍を撃破し、豊後を制圧してしまった。九州統一まであと一歩のところまで攻めあがった義久は、

 

秀吉政権が安定するまでに九州を掌握するぞ!

島津義久

 

と鼻息を荒くするが、すぐに家康を臣従させて態勢を整えた秀吉は、九州に攻め入った。そして、圧倒的な秀吉軍になす術がなかった義久は、降伏するしかなかった。

 

臣従

臣下として主君につき従うこと

 

しかし義久は交渉によって

 

  1. 薩摩
  2. 大隅
  3. 日向

 

を本領として保持することに成功。かつて伊達政宗における対応においても、秀吉は会津領などは没収したが、本領は維持することを許可し、次に仕えた家康、秀忠、家光の三代からは政宗は常に敬われたが、この島津義久の評価も高かったという。ある時家康に自分の手柄話を話すよう言われ、義久と家康はこうやり取りしたという。

 

島津義久

弟や家臣らの力によるもので、自分の力ではありません。
自ら動くことなく勝利を得ることこそ一流の大将である。

徳川家康

 

織田信長の、

『鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス』

 

豊臣秀吉の、

『鳴かぬなら 鳴かせて見せよう ホトトギス』

 

徳川家康の、

『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス』

 

これは彼らの性格を表した言葉だというが、長宗我部元親を、

 

あんなのは無鳥島の蝙蝠(こうもり)だ。

織田信長

 

と揶揄した信長だったら、この九州の島津義久にも同じことを言ったかもしれない。事実、秀吉軍が本気を出して九州に攻め入れば、四国の長宗我部元親同様、義久は降伏するしかなかったのだ。四国も九州も、秀吉軍には到底かなわなかった。

 

では、彼らは本当に弱かったのだろうか。それは、下記の記事で駿河の今川義元が『凡将』になった理由と同じだ。そういうことではない。ただただ、信長、秀吉、家康勢力が、群を抜く力を持ち合わせていただけなのである。

 

『甲斐の虎』武田信玄の家臣団が『戦国最強』と言われた理由と、駿河の今川義元が『凡将』になった理由とは

 

 

 

戦国時代の中心人物

北条早雲 関東 1432~1519年
北条氏康 関東(相模国) 1515~1571年
織田信長 東海(尾張国) 1534~1582年
佐竹義重 関東(常陸国) 1547~1612年
武田信玄 甲信越(甲斐) 1521~1573年
上杉謙信 甲信越(越後) 1530~1578年
浅井長政 畿内(近江国) 1545~1573年
三好長慶 畿内(阿波国) 1522~1564年
毛利元就 中国(安芸) 1497~1571年
大友宗麟 九州(豊後国) 1530~1587年
龍造寺隆信 九州(肥前国) 1529~1584年
豊臣秀吉 東海(尾張国) 1537~1598年
徳川家康 東海(三河国) 1542~1616年
長宗我部元親 四国(土佐国) 1538~1599年
島津義久 九州(薩摩国) 1533~1611年
伊達政宗 奥州(出羽国) 1567~1636年

 

[元亀元年頃の戦国大名版図(推定)]

 

 

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