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『大王(おおきみ)』から『天皇』へ!『倭国』から『日本』へ変わった天武天皇の時代!

『天皇と日本』

中大兄皇子が蘇我入鹿を倒して『大化の改新』が始まる!天皇を中心とした中央集権国家を作るのだ!

 

上記の記事の続きだ。こうして中大兄皇子が亡くなった翌年の672年、古代朝廷における最大の継承争い『壬申の乱(じんしんのらん)』が起こった。そして、有力な地方豪族の後ろ盾があった大海人皇子が勝利し、『天武天皇』として即位したのである。賊軍だった大海人皇子が勝った理由は、朝廷内が動揺したからだという。奇襲のようなイメージで行われたこの反乱に、大友側が結束できずに敗北し、そして大友皇子は自害してしまった。

 

こうして大海人皇子が『天武天皇』となり、彼の時代が始まった。彼は有力な豪族たちと一緒に反乱し、更に大友側についた豪族を一掃したので、敵なしの状態だった。例えば中大兄皇子は豪族であった蘇我入鹿を殺害し、そして豪族たちから権力を奪って『天皇を中心とした中央集権国家を作る』ことを念頭に置いてやってきた。

 

だが、やはりそのやり方から地方の豪族たちを敵に回してしまい、彼が遷都した大津宮も、『反対派の豪族が少ない』ということでこの場所を選んでいた。

 

 

そのようにして、兼ねてから豪族に対して頭を抱えていた天皇側だったわけだが、天武天皇のときにこうして豪族たちを束ねることに成功し、ついに天皇を中心とした中央集権国家を作ることに大きく前進したのである。

 

天武天皇

はっはっは!結果、壬申の乱は有意義な反乱だったな!

 

きっと天武天皇もこう考えたことだろう。その証拠に、彼は大臣を置かずに皇后や皇子たちを重く用いる『皇親政治』というものを行う。天皇側が有利になるように固め始めたのだ。彼がやったことをまとめてみよう。

 

天武天皇がやったこと

  1. 統治者の称号が『大王(おおきみ)』から『天皇』へ
  2. 国の名前が『倭国』から『日本』へ
  3. 飛鳥浄御原礼(あすかきよみはられい)の編纂
  4. 八色の姓(やくさのかばね)の制定
  5. 藤原京の造営
  6. 富本銭(ふほんせん)の作製

 

 

『大王(おおきみ)』から『天皇』へ

 

蘇我氏と聖徳太子(厩戸王)が仏教を取り入れ、中国に初めて『対等な立場』を主張!そして『忍者』が動き出す!

 

上記の記事に書いたのはこうだ。

『天皇』という称号が使われたのがこの7世紀頃が初めてであった。古代中国の最高神『天皇大帝』という言葉があり、そこから影響を受けたのだ。中国は隋の後、『唐』の時代に送った遣唐使を通じ、日本にも『天皇』という言葉が出てくるようになったと言われている。

 

確かにこの通り7世紀頃に『天皇』という名前が使われた。だが、厳密にはこの天武天皇の時(673年3月20日 – 686年10月1日)に『大王(おおきみ)』から『天皇』へと統治者の称号が正式に変わったのである。

 

MEMO
701年に施工された大宝律令に『日本の天皇』という記述がある。

 

『倭国』から『日本』へ

 

そう、国号が『倭国』から『日本』へと変わったのも、この天武天皇の時という説が有力である。『日本』は、この名前の由来の一節は、中国大陸から見て東(太陽が昇る方向)にあったため、『日の本(ひのもと)』と名付けられたとされている。いわゆる『ひいずるくに【日出ずる国】』とは、太陽が昇る国という意味の日本の美称だが、どちらにせよ太陽が関係している可能性が高いと見られている。

 

また、天皇の称号もそうだし、中国に冊封される国だったことを考えても、当時の中国を意識しないことは考えにくいため、この説が有力となっている。

 

冊封(さくほう)
古く中国で、天子が臣下や諸侯に冊をもって爵位を授けたこと。漢代に始まる。

 

 

飛鳥浄御原礼

 

飛鳥浄御原礼は、律令の編成であり、豪族の再編成だった。豪族の官僚化が推し進められ、その根幹にあったのは『天皇を中心とした中央集権国家を作ること』だった。

 

八色の姓

 

それはこの八色の姓制度でもそうだった。これにより、天皇を中心とする身分秩序を作ったのだ。やはりその根幹にあったのは『天皇を中心とした中央集権国家を作ること』だった。

 

藤原京の造営

 

これまでの天皇は、天皇が変わるごとに都を変えていたのだが、天武天皇は藤原京を造営し、天皇が変わっても政治の中心を動かさないようにした。

 

富本銭の作製

 

[富本銭(複製品)]

 

富本銭は、683年(天武天皇12年)頃に日本でつくられたと推定される銭貨で、この貨幣が実際に流通したのか、厭勝銭(ようしょうせん:まじない用に使われる銭)として使われたに留まったかについては学説が分かれている。だが、日本で最初の流通貨幣と言われるのちの『和同開珎(わどうかいちん)』のモデルになったのはこの富本銭で、和同開珎以前にあった通貨は、

 

  1. 無文銀銭(667年-672年)
  2. 富本銭(683年頃)

 

の2つである。とにかく、中大兄皇子が強く望んだ『天皇を中心とした中央集権国家』は、この天武天皇とその妻の持統天皇の治世においてであった。

 

天武天皇が亡くなると、その妻であり皇后の『持統天皇』の時代に入った。飛鳥時代というのは『継体天皇(あるいは推古天皇)~持統天皇』の時代であり、奈良県中部の飛鳥の地に皇居があったためそう呼ばれているわけだが、この持統天皇の時代を持って飛鳥時代は終わりを迎えることになる。

 

彼女がやったことは、基本『天武天皇』のやり残した仕事の残務処理だ。跡を受け継ぎ、彼のやり残した仕事を成し遂げた。それは先に挙げたようなものである。また、天武天皇と彼女は愛し合っていて、彼女が病気になったとき『薬師寺』が建てられ、病気の治癒を祈った。つまり、奈良の薬師寺は、この持統天皇の為に作られた寺なのである。

 

[薬師寺と26歳の頃の私。。]

 

例えば、1600年代のインドにおいて、ムガル帝国5代目皇帝のシャー・ジャハーンは、タージ・マハルを作った。これは、彼の愛妃ムムターズ・マハルの墓だった。ここにあるのはもちろん夫の妻に対する愛情だが、『それらを作った(作らされた)人々』がどう思ったかは定かではない。

 

ムガル帝国があり得たのはアクバルが宗教の多様性を尊重したからだった!そして『インド帝国』へ!

 

13歳で皇后になり、夫天武天皇と愛し合い、彼の死後も見事に残務処理をした『愛あるできる女』だが、実は彼女は天皇の座に即位する予定はなかった。天武天皇が後継に考えていたのは、持統との子『草壁皇子(くさかべのみこ)』だったのだ。だが、実は彼には有力なライバルである『大津皇子(おおつのみこ』がいて、持統は我が子を後継者にするために、ライバルを無実の罪で自害に追い込んだのだ。

 

しかし、その思いもむなしく草壁は天武天皇が崩御した翌年に29歳の若さで亡くなった。そしてやむを得ず彼女が天皇に即位することになったのだ。やはり、このあたりの真実を直視しなければ実態は正確に把握できない。いつの世も、どこの地域も、自分とその身の回りの『利益』を優先し、それを固守することに躍起になり、時には無実の人をも殺してしまうのであった。

 

 

だが、自分たちの利益を優先する人間だからこそ大きく利益を得て発展させることができることは事実。例えば、世界の偉人として歴史に名を刻む大人物は往々にしてお金がない場合があるが、彼らはこの世界の人々の精神に莫大な影響を与えはしても、何か大きな建造物を造ったり、自宅を豪邸にしたり、一家を大金持ちにして末永く繁栄することに貢献はしなかった。

 

もちろん、『だからこそ』世界の偉人であり、この世界の人々の精神に莫大な影響を与えたのだからそれでいいのである。だが、一長一短とでもいうのか、もし『繁栄と発展』という仕事を請け負うなら、その請負人は『ビジネス』に強い人間がいい。そしてそういう人は往々にして、『利己主義』に近い自己防衛に徹することができる、排他的な拝金主義であることが多いのだ。

 

私も何度もビジネスにおいてそういう人を見てきた。そして、義を追うだけでは利益は得られず(例えばボランティア行為は崇高だが、それで利益は入らない)、そして利を追うだけでも人として虚しい存在になるだけ(お金持ちが成功者なら、麻薬や武器、人を売る人間も成功者となる)。

 

つまり、儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』といったいわゆる『四聖』はお金はないが、この世界の人々の精神に莫大な影響を与えた。しかし彼らには大きな建造物を造ることはできなかった。

 

 

もちろんそれでいいが、天武天皇、持統天皇が、中大兄皇子から受け継いだ『天皇を中心とした中央集権国家づくり』というある種の利己主義、排他主義という思想を持っていなければ、藤原京のような、平城京や平安京をしのぐ日本初の本格的な都は作られなかったし、八色の姓も飛鳥浄御原も制定されず、現在の日本の基礎も作られなかったのである。

 

文武天皇

 

さて、彼女が53歳の時、ようやく待望の孫である文武天皇が即位することになった。彼はまだ15歳だったので持統天皇は天皇を退いた『太上天皇(だじょうてんのう)』として彼の補佐を行い、日本初の『上皇』という立場が誕生した。こういう摂政的な考え方は世界中で見られる。

 

摂政(せっしょう)
君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱であるなどの理由で政務を行うことが出来ない、あるいは君主が空位であるなどの場合に、君主に代わって政務を摂ること、またはその役職のこと。

 

例えばエジプトのツタンカーメンが即位したときはまだ9歳だったが、彼に代わって周りの大人が政治を行った。もちろんそれで問題も興った。例えば漢の後半、『後漢』も、前漢同様『宦官(かんがん)』や『外戚(がいせき)』、つまり権力を持った政治関係者たちによって支配され、滅亡の途を辿ることになる。光武帝と次の『明帝』は30歳を超えていたが、その後の皇帝は、

 

  1. 19歳
  2. 10歳
  3. 0歳
  4. 13歳
  5. 10歳
  6. 2歳
  7. 7歳
  8. 14歳
  9. 12歳
  10. 8歳

 

という幼少の皇帝が続いたため、彼らは裏で暗躍しやすかったのである。そして、その『宦官』や『外戚』の暗躍に逆らう形で起きた反乱が『黄巾の乱』である。彼らに反対する者は弾圧され、政治は荒れてしまっていたのだ。とにかくこの日本における『上皇』という立場も、摂政的な考え方で誕生したのである。

 

[清代の書物の黄巾の乱、劉備関羽張飛の三人]

古代エジプト史上最も有名な王『ツタンカーメン』が9歳で成し遂げたことと、その裏にいた黒幕 張角兄弟たちが起こした『黄巾の乱』。彼らの頭巾の色が『黄色』であることには意味があった!

 

大宝律令

 

文武天皇がやった最大の業績はこの大宝律令(たいほうりつりょう)だ。これは、現在の刑法にあたる『律』、そして政治の仕組みを定めた『令』の法令であり、日本初の法令となった。

 

刑法は唐の刑罰の制度が導入された。この頃の中国は『唐』で、日本も遣唐使を派遣して唐の政治システムを勉強していたから、こういう流れになったのである。

 

五刑

苔(ち) 木の棒で叩く
杖(じょう) 同上
徒(ず) 懲役刑
流(る) 流刑
死(し) 死刑

 

八虐(はちぎゃく) 天皇に対する罪、目上に対する罪

 

1910年、幸徳秋水とその仲間合計26人は、大逆罪で多補された。大逆罪とは、

『天皇や皇太子などに対し危害を加えわるいは加えようとしたものは死刑』

 

というもので、証拠調べの一切ない、非公開の裁判で裁かれるしかも1回のみの公判で、上告なしである。社会主義者たちの一掃をはかった権力により、幸徳らは大逆罪に問われ、処刑された。1947年改正前の刑法第73条がこれだ。

天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ

危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス

 

そして現在は廃止されている。だが、この『八虐』がその後の『天皇崇拝思想』の端緒の一つとなったことは間違いないだろう。

 

大逆罪
明治13年(1880年)に公布され、2年後に施行された旧刑法において導入された。

 

 

もちろんその本当の大元は『始皇帝』だ。彼が作り上げた中央集権国家システムは中国においても2000年以上受け継がれるが、それを習って日本も『国でバラバラの権力者がいるのではなく、中央に一人の権力者がいて統治する』というこのシステムに憧れ、

 

日本も天皇を中心とした中央集権国家にしたいなあ…。

 

と考え、中大兄皇子が有力豪族であった蘇我入鹿を『乙巳の変』で殺害し、『大化の改新』を行い、基礎を作り、そして天武天皇、持統天皇の時代で『天皇を中心とした中央集権国家作り』の土台を作ったのである。では、ここまでの天皇崇拝が作られる歴史を見てみよう。

 

天皇崇拝が作られていく歴史

STEP.1
秦の始皇帝が中央集権国家システムを作る
紀元前220年頃。
STEP.2
漢が秦の良いところを受け継ぐ
紀元前202~220年。秦は恐怖政治すぎてすぐに亡んだが、漢は儒教を取り入れながら平和的に国家を運営し、400年も続いた。
STEP.3
中大兄皇子が乙巳の変を起こす
645年。利害が一致した中臣鎌足と、『天皇を中心とした中央集権国家』を作ろうと、有力豪族の蘇我入鹿を殺害。
STEP.4
天武天皇に受け継がれる
673年。中大兄皇子(天武天皇)が作った基礎の上に、更に土台を作る。豪族たちが下につき、『八色の姓』という天皇を中心とする身分秩序を作った。
STEP.5
持統天皇が更にそれを受け継ぐ
690年。夫の天武天皇のやり残しを全うする。
STEP.6
文武天皇が大宝律令を制定
701年。『八虐』という天皇に対する罪を罰するシステムが導入される。

 

そしてその1000年後には『大逆罪』も作られるわけだ。だが、まだまだここからのその1000年間で、天皇崇拝思想の根幹が作られていくのである。しかし、とにかく現在見ておくべきなのは、その思想の根幹にいるのが『秦の始皇帝』だということなのだ。

 

さて、令に定められた政治の仕組みだが、これが現在の日本のシステムの基礎を作ったといってもいい。

 

国の運営

二官(にかん) 神々と政治を統括する二つの太政管の組織を設けた
八省(はっしょう) 現在の省庁にあたる組織を太政管の下に置いた
公卿(くぎょう) 太政大臣、右大臣、左大臣、大納言等の高級官僚

八省

中務省 式部省 治部省 民部省 浜部省 刑部省 大蔵省 宮内省

 

役人
『正一位』から『少初位』まで30段階の官位が与えられた。

 

地方

国(こく)、郡(ぐん)、里(り) という行政単位が作られた
国司、郡司 それらの統治を行った
畿内、七道 国をまとめた広い行政区間

 

民衆の管理

口分田(くぶんでん) 収穫の一部は祖(そ)という税金として徴収
強制貸付 植え付け用の種もみを通して利子(租税)を徴収
庸(よう) 都での10日の労役の代わりに布を納める徴収
調(ちょう) 各地の特産物を納める徴収
雑徭(ぞうよう) 地方の国司のもとで年60日以下の労働を行う
徴兵 3~4人に一人、兵役として周辺の治安維持を行う

 

その他

  • 中央に大学を置く
  • 地方に国学を置く
  • 役人の給料の仕組みを作る

 

 

このシステムには唐が大きく影響していたわけだが、当時の唐の政治システムを見てみよう。

 

皇帝

三省

中書省 門下省 尚書省

六部

吏部(人事) 戸部(財政) 礼部(文教) 兵部(軍事) 刑部(司法) 工部(建設)

 

まずは皇帝がいて、その下に中央の最高機関である『三省』と行政機関の『六部(りくぶ)』を置いた。当時の日本はとにかく中国からの影響を強く受けたのであった。

 

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