偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
運営者
考察
マキャベリは言った。
我々には、手の施しようがないある『才能』が眠っている。それはさしずめ、『第三の手』である。手は、二本だ。第三の手など、ない。だから、『手の施しよう』など、あるわけがない。運命とはまるで、この『第三の手』である。自分の力でどうにかするというものではない。時にこの第三の手は、『勇気ある後押し』をしてくれたり、あるいは『ふいに背中を突き飛ばす』のである。その『第三の手』のおかげで、我々はある境地を思い知ることになる。
『人生は、自分の思い通りにはいかない。だが、思い通りに行かないということは、思いもよらない良いことが待ち受けているということでも、あるのだ。そんな第三の手のイメージを抱けた時、我々と、手が二本しかない人間との間には、一線が画される。何しろ我々には、手が三本ある。それが自分にとって『魔性』となるか『聖性』となるかは自分次第だが。』
聖書における『ヘブライ人の手紙』には『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。
『神が自分の聖性を子に与えよとしているのだ』
この場合の『父』は、その『第三の手』が『聖性』に傾いて働いた。『魔性』に傾いたとき、我々は『魔が刺した(差した)』と口を揃えて言い訳をするが、どちらにせよこの『第三の手』の絶大なる威力は、計り知れない。人間が自分の無知、無力を思い知るためには、うってつけの存在である。また例えば、具体的な話で、身長150㎝の人が身長180㎝以上の人をうらやむことがあったとき、彼のその嫉妬は『欠点』である。見るべきなのは以下の記事だ。
『この世に価値のない人間などいない。いるのは価値がわからない人間だけだ。』
それぞれに一長一短があり、十人十色である。それがこの世だ。この人生だ。150㎝に生まれた人は、それがその人の運命だ。その運命が彼をある種『諦め』させて、ある種『悟り』の境地を与えて、その欠点を長所に変えようと、ある種『脅迫』気味に強要してくる。だが、それを『強要された』と思う人は、劣等感を覚える。そこは一つ、今言った様に『長所』に変えたい。長所に変えることが出来た人は、劣等感を覚えない。見るべきなのは以下の記事だ。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
こうして名言と向き合って一つずつ内省したその数『8000』。では、なぜ「1万」ではないのか──それは、内省の後半になるにつれ、『同じ的を射る言葉』が増えてきたからです。そして私はその浮かび上がった真理を、『38の黄金知』としてまとめました。
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