『ヒト』を最適化しよう。

『アウトサイド・インではない。インサイド・アウトだ。』(2ページ目)

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運命は自分の心次第という真理に気づく

松下幸之助から『経営の神』の異名を受け付いだ現代の経営の神、稲盛和夫の著書、『生き方』にはこうある。

運命は自分の心次第という真理に気づく

 

(省略)どうして、自分という人間はこうついていないのだ。宝くじを買っても、私の前後は当たっても、私だけは『はずれ』だろう。どうせ空振りばかりならと、心はだんだんあらぬほうに傾いていき、先にも述べたように、空手をやっていて多少は腕に覚えもあったので、いっそやくざにでもなってやろうかと、繁華街のとなる組事務所の前をうろついたりしたこともありました。

 

(中略)さすがに、そこまで進退窮まるとかえって吹っ切れた思いになりました。これ以上、この境遇を呪っていてもしかたがない、ここは180度気持ちを切り替えて、仕事に精を出し、必死に研究に取り組んでみようと腹を据えたのです。それからは鍋や釜まで研究室に持ち込んで実験づけの日々を自分に課しました。

 

すると、その心の変化が反映したように研究の成果が上がり始めました。目に見えてよい結果が出て上司からの評価もよくなると、ますます仕事に熱中するようになる。すると、さらによい結果が生まれるという好循環が生まれたのです。

 

『環境』のせいにするのは簡単だ。『簡単なこと』をして、甚大な結果を捻出させることが出来るわけがない。

 

鏡の法則

『鏡の法則』にはこうある。

『現実に起きる出来事は、一つの『結果』です。『結果』には必ず『原因』があり、その原因は、あなたの心の中にあるのです。つまり、あなたの人生の現実は、あなたの心を映し出した鏡だと思ってもらうといいと思います。例えば、鏡を見ることで、『あっ、髪型がくずれてる!』とか、『あれ?今日は私、顔色が悪いな』って気づくことがありますよね。鏡がないと、自分の姿に気づくことが出来ないですよね。』人生を鏡だと考えてみてください。

 

 

自分の身の回りで起きていることは、全て『自分の責任』だと捉えることができるかどうかが、全ての人間に問われている。

 

経験するから、学習できる。自分の道ができていく

実に50の職業経験と、世界40か国の旅を経験した有川真由美の著書、『遠回りがいちばん遠くまで行ける』にはこうある。

経験するから、学習できる。自分の道ができていく

 

私の場合、いろいろなことがうまく回り始めたのは、人生の後半になってからのことでした。さまざまな経験をするたびに、自分をとりまくさまざまな事象のことを学んできたように思いますが、いちばん大きな学びは、自分自身との付き合い方だったのかもしれません。世界も目の前の人も変えることは出来ない。でも、自分自身であれば変えていける。自分がどう考え、どう動くかで、なにかが変化し、喜びや楽しみを感じていけることを発見したのです。

 

うまくいかなかったのは、結局、自分自身の問題。自分と付き合ううえでいちばん大切なのは、『自分の欲しいもの』を知っていることです。そして、自分ができることと、人に喜んでもらえることの接点を探していけば、自然に自分の役割ができ、『この道しかなかった』という道ができていくのです。

 

自分が周りを変えていくのだ。周りに自分を変えてもらうのではない。

 

問題は世界がどうあるかではない

アドラー心理学に造造詣の深い岸見一郎・古賀史建の著書、『嫌われる勇気』にはこうある。

いえ、錯覚ではありません。そのときの『あなた』にとっては、井戸水の冷たさも暖かさも、動かしがたい事実なのです。主観的な世界に住んでいるとは、そういうことです。われわれは『どう見ているか』という主観がすべてであり、自分の主観から逃れることはできません。いま、あなたの目には世界が複雑怪奇な混沌として移っている。しかし、あなた自身が変われば、世界はシンプルな姿を取り戻します。問題は世界がどうあるかではなく、あなたがどうあるか、なのです。

 

すべてが同じ結果になっていないとつじつまが合わない

また本にはこうもある。

さて、もしあなたのおっしゃるように、あまねく人の『現在』が、『過去』の出来事によって規定されるのだとすれば、おかしなことになりませんか?だってそうでしょう。両親から虐待を受けて育った人は、すべてがご友人と同じ結果、すなわち引きこもりになっていないとつじつまが合わない。過去が現在を規定する、原因が結果を支配するとは、そういうことでしょう。

 

怒りという感情を捏造した自分

また本にはこうもある。

あなたには大声を出す、という目的が先にあった。すなわち、大声を出すことによって、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分のいうことをきかせたかった。その手段として、怒りという感情を捏造したのです。

 

『受け入れる』のだ。今すぐに。

 

すべては自分の中にある

数々の偉人の人生を研究する、上智大学名誉教授、渡部昇一の著書、『エマソン 運命を味方にする人生論』にはこうある。

すべては自分の中にある

 

彼はこんなことをいっています。

『聖餐式で示されるのは、キリストのまねをしろということである。しかし、それでは間接的なもので終わってしまう。そんな形をまねるよりも、キリストが求めたものを求めることが重要なのだ』と。

 

機会のほうから彼に近づかせよ

60年間に全世界で累計3000万部の記録的ロングセラー、ナポレオン・ヒルの著書、『巨富を築く13の条件』にはこうある。

このような仕事は、誰にでもできる仕事だということは、当のハルピンも十分称していた。しかし、その仕事がハルピンに絶好の機会を与えてくれたのであった。

 

彼は、この仕事に不満を持っていたものの、それから二年間はその仕事をつづけた。そして、自分でこの不満を解消しようと決意したのである。もしハルピンがそういう決意をしなかったなら、彼は一生そのまま過ごしていたに違いない。彼はいまの立場から脱出するために、アシスタント・セールスマネージャーになろうと決意した。まもなく、その目標を達成することができた。そのことで彼は、他のセールスパーソンより頭一つだけ、抜きんでることができたのである。

 

そのわずかに高くなった地位によって、彼はいままでに見ることの出来なかった大きな機会を得ることができた。一段地位が高くなることによって、機会のほうから彼に近づいてきたのだといえよう。

 

『運気を占う』のではない。『気運を呼び込む』のだ。

 

『どうせ』を連発する人には仕事はできない

新渡戸稲造の著書、『自分をもっと深く掘れ!』にはこうある。

『どうせ』を連発する人には仕事はできない

 

(省略)しばしばその仕事を変える人は、真に実力を備えない者が多数である。実力のきわめて乏しい者が、自分の実力を針小棒大に見なして自分を惜しみ、幾度となくその職業を変えるのである。よい地位を得ても、

『どうもおれの技量を認めてくれない』

 

と言い放って他に転じ、しばらくするとまたおもしろくないと言って他に変える。(中略)このように職業を変える原因は、種々あると思う。ことに、移り気の多いこともその一つの原因であろう。だが私の聞くところによると、どうせ主人は自分を用いてくれない、どうせ他人には自分の能力を見る明がない、どうせ自分の腕相応の月給を払ってくれない、どうせおれを惜しんでくれないと言って不平不満を抱くのが、最大原因であるように思われる。

 

不平不満を抱く暇は、無駄だ。

 

環境は思いから生まれ出るものである

ジェームズ・アレンの著書、『『原因』と『結果』の法則』にはこうある。

私たちは、自分を環境の産物だと信じているかぎり、環境によって打ちのめされる運命にあります。しかし、『自分は創造のパワーそのものであり、環境を育むための土壌と種(心と思い)を自由に管理できる』ということを認識したときから、自分自身の賢い主人として生きられるようになります。

 

自分の心をしっかりと管理し、人格の向上に努めている人たちは、『環境は思いから生まれ出るものである』ということを熟知しています。なぜならば、すでにかれらは環境の変化と心の状態の変化が、つねに連動していることに気づいているからです。

 

(中略)人々が刑務所に入ったり貧困に苦しんだりするのは、過酷な運命や環境のせいなどではけっしてありません。かれらがそうなるのは、ひとえに、かれら自身の不純な思いと利己的な願望のせいなのです。澄んだ心をもつ人間は、たとえどんな誘惑を受け入れようとも、けっして犯罪に走ったりすることはありません。

 

心の中で養われ、パワーを増した犯罪思考が、機会をとらえてそれ自身を外部に漏らしたとき、犯罪は発生します。環境は人間を創りません。私たちの環境は、私たち自身のことを外側に漏らすのみです。

 

この本はまさに、インサイド・アウトについて特化して書いた本である。

 

心を落ち着ける

儒教、仏教、道教を深く学び、足りない部分を補って創り上げた、洪自誠(こうじせい)の著書であり、川上哲治田中角栄五島慶太吉川栄治ら昭和の巨人たちの座右の書である、『中国古典の知恵に学ぶ 菜根譚』にはこうある。

心を落ち着ける

 

心が動揺しているときには、杯に弓の影が映るのを見て、蛇かと驚き、草むらに横たわる大岩を見て、伏した虎と見間違う。それは自分の目に映るものすべてが自分を攻撃してくるように錯覚するからだ。これに反して、心が穏やかなときには、残忍な人間もカモメのようにおとなしくさせ、騒々しいカエルの鳴き声も美しい音楽のように聞くことができる。つまり、心が落ち着いていれば、すべてのものを、ありのままに捉えることができるということだ。

 

パニックに陥れば、環境は悪となり、害となる。だが、心が冷静であれば、たとえ洞窟の奥深く、細い、狭い道で生き埋め寸前になったとしても、落ち着いて出口まで出ることができる。

 

人のせいにするのをやめる

心理学者でストレス・コンサルタントのリチャード・カールソンの著書、『小さいことにくよくよするな!』にはこうある。

人のせいにするのをやめる

 

なにかが期待通りにいかなかったとき、私たちはつい『だれかのせいだ』と思いがち。捜ものが見つからないのは、誰かがどこかにおいたせい。車の調子が悪いのは、修理屋がさぼったからじゃないか。家計簿が赤字なのは、かみさんが浪費したから。家が散らかりほうだいなのは、みんなが片付けないから。企画が遅れているのは、同僚がきちんと仕事をしていないから。例をあげればきりがない。

 

こういった『他人のせいにする』症候群は、いまの社会にまん延している。個人的なレベルで見れば、自分の行動や悩み幸せのすべては自分の責任ではなく人のせい、という考え方の浸透だ。社会的なレベルで見れば、ばかげた訴訟や犯罪者さえのぞけるような滑稽な言い訳のられつ。人のせいにする習慣に染まると、自分の怒りや欲求不満、落ち込みやストレス、不幸せはすべて人のせいだと思い込むようになる。

 

個人の幸せということでいえば、人のせいにしながら幸せになれるはずがない。たしかに私たちの悩みには人や環境によって生じるものもあるが、それを乗り越えて幸せをつかまなければならないのは自分だ。環境は人をつくらない、人を表現するだけだ。

 

この言葉は名言だ。

『環境は人をつくらない。人を表現するだけだ。』

 

ウォーレン・バフェットの、

『金は人を変えない。人の本性を浮きだたせるだけだ。』

 

という言葉と似ている。

 

究極の場面に存在する選択肢

ナチスの強制収容所に収監され、人間の想像を絶する3年間を過ごしたドイツの心理学者、ヴィクトール・E・フランクルの著書、『夜と霧』にはこうある。

強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人々について、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんの一握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかに振る舞うかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには十分だ。

 

(中略)そこからは、人間の内面にいったい何が起こったのか、収容所はその人間のどんな本性をあらわにしたかが、内心の決断の結果としてまざまざと見えて来る。つまり人間はひとりひとり、この様な状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。

 

 

この究極の状態を経験した彼らの言葉を注意深く確認せよ。極めて注意深く

 

鏡を見て己を知る

人間のお金に対する考え方のパラダイム転換を説いた、ロバート・キヨサキの著書、『金持ち父さん 貧乏父さん』にはこうある。

鏡を見て己を知る

 

私が幼かった頃、父は私たち子供によく、昔、日本人が信じていたという『三つの力』の話をしてくれた。それは『刀と玉と鏡の力』だ。刀は武器の力を象徴している。アメリカは武器のために毎年何百億ドルもの金をつぎこみ、それによって世界最強の軍事国家の地位を保っている。玉はお金の力を象徴している。『黄金律を忘れるな。黄金を持つものがルールを作る』という格言にはたしかに一理ある。鏡は己を知ることの力を象徴している。日本の古くからの言い伝えによれば、この『己を知る』ことこそが三つのうちでもっとも大きな力を持っている。

 

お金に困っている人や、困ってはいなくてもそこそこの収入しかない人は、たいていの場合お金に動かされるままになっている。毎朝起きて一生懸命に働くだけで、自分が今やっていることが正しいかどうか自問しようとしない。毎日それを続けることは、自らを罠にかけているようなものだ。お金のことを十分に理解していないために、ほとんどの人が恐ろしいお金の力に身を任せてしまっている。お金の力が彼らに敵対するものとして働いているのだ。

 

そういう人でも、もし鏡の力を使うことができれば、きっと『これでいいのだろうか?』と自問することだろう。それなのに、多くの人は自分の内に潜む智恵、自分の中にある天賦の才を信じることなく、みんなと同じ方法を選ぶ。つまり、ほかのみんながそうしているから…という理由で行動するのだ。こういう人は疑問を持つこともなく、ただみんなと同じようにする。

 

また、何も考えずに、自分がこれまで言われてきたとおりのことをやり続けるという場合も少なくない。つまり、『リスクの分散』とか、『持ち家は資産』『持ち家は最大の投資』『借金をすれば節税できる』『安全な仕事を見つけろ』『間違いをするな』『危険を冒すな』といった考え方をうのみにしてそのまま実行する。

 

悪いうわさが立つことが死ぬより怖いという人はけっこういる。精神分析医によると、悪い噂が立つのが怖いというのは、仲間はずれにされることに対する恐怖から来ている。つまり、一人だけ孤立してしまう。一人だけみんなから後ろ指を差される。ばかにされる、村八分にされる、そういったことが怖いのだ。多くの場合、人と違ったことをするのを恐れることのような気持ちが、問題解決のための新しい道を見つけるのをむずかしくする。

 

 

自分の心と向き合うことで、『自分の内に潜む智恵、自分の中にある天賦の才』を埋没させることがいかに罪深いかを知るだろう。自分の心と向き合う時間を確保しなければ、永久に開拓できない道がある。

 

全てのカギは内にある

黄金律、『他と違うことは恥ではない。誇りだ。』にも書いた様に、全ての答えは『内』にある。

 

渋沢栄一の著書、『論語と算盤』にはこうある。

誰が仕事を与えるにしても、経験の少ない若い誰が仕事を与えるにしても、経験の少ない若い人に、初めから思い仕事を授けるものではない。藤吉郎(秀吉)の大人物をもってしても、初めて信長に仕えた時は、草履取という詰らぬ仕事をさせれらた。おれは高等の教育を受けたのに、小僧同様に算盤を弾かせたり、帳面をつけさせたりするのは馬鹿馬鹿しい。先輩なんていうものは人物経済を知らぬものだなどと、不平をいう人もあるが、これはすこぶるもっともでもない。

 

なるほど一廉の人物に詰らぬ仕事をさせるのは、人物経済上から見てすこぶる不利益の話だが、先輩がこの不利益を敢えてする意思には、そこに大なる理由がある。決して馬鹿にした仕向けではない。その理由はしばらく先輩の意中に任せて、青年はただその与えられた仕事を専念にやってゆかなければならぬ。

 

その与えられた仕事に不平を鳴らして、いってしまう人は勿論駄目だが、つまらぬ仕事だと軽蔑して、力を入れぬ人もまた駄目だ。およそどんな些細な仕事でも、それは大きな仕事の一小部分で、これが満足に出来なければ、ついに結末がつかぬことになる。時計の小さい針や、小さい輪が怠けて働かなかったら、大きな針が止まらなければならぬように、何百万円の銀行でも、厘銭の計算が違うと、その日の帳尻がつかぬものだ。

 

目の前にある状況をどう捉えるか。それについて一発で考えさせられる言葉はこれだ。

 

『刑務所の鉄格子の間から、二人の男が外を見た。一人は泥を眺め、一人は星を眺めた。』

 

インサイド・アウトという新しい考えのレベル

『7つの習慣』にはこうある。

インサイド・アウトという新しい考えのレベル

 

ドイツの理論物理学者、アインシュタインは次のように述べている。

『我々の直面する重要な問題は、それをつくったときと同じ考えのレベルで解決することはできない。』

 

個性主義で生活する中で私たちがつくってきた人間関係などの問題は、実はもっと深い根本的な問題の結果であり、その問題が生じた時に考えていたような上辺だけのレベルで解決することはできないということだ。

 

(中略)インサイド・アウトとは、自分自身の内面(インサイド)を変えることから始めるということであり、自分自身の根本的なパラダイム、人格、動機などを変えることから始めるということである。このアプローチによれば、あなたがもし幸せな結婚生活を送りたければ、積極的なエネルギーを生み出し、消極的なエネルギーを消し去る伴侶になるということである。

 

子供が、明るく協調性のある人間に育ってほしいと思うならば、子供への理解を深め、子供の視点に立ち、一貫した愛を示す親になるということである。仕事でもっと自由な裁量が欲しければ、より重い責任を引き受け、力を尽くし、貢献できる従業員になることである。信頼されたければ、信頼性のある人になることである。才能が認められるという二次的な成功が欲しければ、まず人格と能力を向上させるという一時的な成功に焦点を合わせることである。

 

この『7つの習慣』にある『パラダイム転換』について、更なる詳細を求めるなら、この記事を見ると良いだろう。

 

パラダイム転換とは

 

返報性のルール

また、米国を代表する社会心理学者の一人、ロバート・B・チャルディーニの著書、『影響力の武器』にはこうある。

社会学者や人類学者によると、人間文化の規範の中で最も広範囲かつ基本的なものの一つに返報性のルールがある。このルールは、他者から何かを与えられたら自分も同様に与えるように努めることを要求する。

 

返報性のルールは、行為の受け手が将来それに対してお返しをすることを義務付けるので、人は自分が何かを他者に与えてもそれが決して失われるわけではないことを確信できる。このルールに将来への義務感が含まれることによって、社会にとって有益なさまざまな持続的人間関係や交流、交換が発達することになる。

 

この『返報性のルール』は、まさにインサイド・アウトだ。目の前にいる人の配慮を受けたいのなら、まず自分からその人に配慮をしなければならない。

 

幸せのウイルス

幸福経済学の専門家として、ニューヨーク・タイムズ、ガーディアンなど50以上の主要国祭誌に取り上げられる経験を持つ、経済学博士、ニック・ポータヴィーの著書、『幸福の計算式』にはこうある。

幸せのウイルス

 

(省略)幸福が伝染する度合いは、関係の深さよりも接触の頻度(物理的に近いこと)に左右されるようだ。だが、職場の同僚に対する影響はあまりないことがわかっている。つまり、社会的要素が加わってくると、人から人への幸福の伝染力は弱まるとういことだ。

 

こうした幸福の伝染は、時間や物理的な距離とともに弱まること、そして、幸運を分かち合おうとしたり、(積極的に人を助ける、気前がいい)、相手に対する行動を変えようとしたり(相手に親切にする、敵視しない)、伝染するような感情を発したりしている幸福な人たちによって特に行われるという結論を、二人は導いた。これは重大な発見だ。私たちはつながり合っているだけではなく、幸福を伝え合うという可能性が生まれたのだ。

 

幸せ

 

(中略)言い換えると、自分が幸福になることには、それ以上の利点がある。それは、他人の幸福度にプラスの外的影響を与えるということだ。つまり、自分が幸せになるだけで他人を幸せに出来るのだ。だが、不幸も伝染するのだろうか?幸福と同じように、不幸も山火事のように伝染するのだろうか?確かにそうだろう!

 

(中略)たとえば、コロンビア大学の心理学者ニール・ボルジャーと彼の同僚たちは、職場で受けたストレスが家庭にいる配偶者のストレスレベルを上げることが多いという事実を示した。この伝染によって、フルタイムで働いている人だけでなく家庭にいる人のマイナス感情もかなり高められ、ストレスによって起こる健康問題も増加させているのだ。

 

自分が変われば、周りが変わっていく。その考え方こそがインサイド・アウトであり、自分は変わる義務はなく、周りから変わっていくべきだ、と考えることがアウトサイド・インの発想なのである。

 

『最悪なもの』にも、『最高の勉強場所』にもなる

私は10代半ばごろまで、このアウトサイド・インの典型だった。私は両親にクリスチャンになることを強要されて育っていたから、

 

俺は間違っていない。間違っているのは親を含めた不正義を働いた人間だ!

 

という、煮えたぎる思いを常に抱いていたわけだ。だが、父親が肝臓がんで死ぬとなった時、そんな親を『赦した』ことによって、みるみるうちにそんな両親への『愛情』や『愛着心』が湧いてきて、気づいたら父親の為に涙を流していた。

 

父親には、父親の理由があったか。こうしてどうせ死んでしまうなら、もっと、自由にさせてあげればよかったかなあ…。

 

私はその時、インサイド・アウトの実力の片鱗を見たのだ。

 

しかし、私が父親を赦すことが出来たのは、父親が死んでしまう事実が前提だったわけであり、今まだ生存している母親に対しては、腹が立つ毎日である。しかし、決定的に違うのは、彼女に対する『殺意』がなくなったということだ。そもそもそれがあった。私が強いられている状況がどういうものかが、垣間見えるはずである。

 

そして、私は彼女がいずれ必ず死んでいくという事実を常に理解し、それを覚悟しているから、『宗教を強要するお前は大嫌いだ。だが、愛している。』という言葉を言うことが出来るようになった。私次第で状況は、『最悪なもの』にも、『最高の勉強場所』にもなる。私はこれからもまだまだ人生で葛藤することがあるはずだが、インサイド・アウトの考え方を知った今、私の心の基礎・土台は、揺るぎないものとなったのだ。

 

闇金ウシジマくん他

さて、ここに付け加えておきたいものは、『メンタリストのDaigo』、『まだ、生きてる。』、『スマグラー』、『闇金ウシジマくん、』という4つのキーワードである。

 

まずは『メンタリストのDaigo』だ。彼は小学生から8年間の間、いじめを受けていた。しかし、彼は何もしなかった。彼曰く、『待っていた』。つまり彼は、アウトサイド・インの発想だったのだ。

 

だが、何も起きなかった。しかし、8年目、とうとういじめっ子が自分の母親に対し悪口を言ったのを受け、ついに堪忍袋の緒が切れた。近くにあった図画工作用のナタの様な物を取り、相手に投げつけたのだ。それは、逸れた。だが、それ以来『あいつはやばい奴だ』といううわさが広まり、みるみるうちに自分の身の周りが変わっていった。

 

この話は、『サラリーマン金太郎』でお馴染みの作者、本宮ひろ志の漫画『まだ、生きてる。』のストーリーと、『闇金ウシジマくん』、そして同作者の『スマグラー』の内容と全く同じものである。詳しくは、各漫画で見てもらいたいが、今回はその中から一つ、『闇金ウシジマくん』の話だけ書くことにする。

 

あるところに、ごく普通の若い女性がいた。彼女はカフェで働いていた。アルバイトだ。ある日、客の一人が5円玉を落としてしまうが、彼女がそれを拾ってこう言った。

『(5円でも)大切なお金ですよ。』

 

彼女の笑顔は、とても純粋なように見えた。ゲームが好きだった彼女は、ゲームセンターに行ってよく遊んでいた。そこでたまたま会った男が、どうやらホストクラブの人間らしいのだ。もちろん最初は興味はなかった。だが、次第に彼の魅力に惹かれていった彼女は、何とかその男の助けになりたいと思うようになり、お金を工面して、ホストに通い、彼の売り上げに貢献できるよう努力した。

 

 

しかし気づけば、大きな借金を抱えるようになってしまっていた。そんな彼女がついに手を出したのが、『闇金融』だった。その後彼女は、ストーカーに遭うわ、ホストの男と両想いになれないわ、アダルトビデオの撮影に手を出すわで、堕ちるところまで堕ちた。

 

ある日、ストーカーがついに自分の家にまで押しかけてきて、何もかももう終わりだ、襲われてしまう、という時、偶然金の回収に来た闇金融が、その男をめった打ちにし、半殺しにした後、

『金の回収に来た。』

 

と言って、利息の金を催促した。彼女は震える手を抑えながら、何とか財布からお金を出そうとする。

 

その時だ。

 

財布から落ちたのは、5円玉だった。

 

しかし、彼女はそれを一切拾おうとしない。彼女からすると当たり前だ。彼女が抱えている金額は、自分がAVに出て稼がなければならないだけの額。そんなはした金に構っている場合ではない。

 

だが、そこで闇金融の男が言ったのはこうだ。

『5円でも大切なお金なんじゃねえのか。お前、その5円玉拾わないと、何も始まらねえぞ。』

 

実は、この男はあの時カフェにたまたま居合わせ、一部始終を見ていたのだ。

 

ソクラテス、ブッダ、イエス。三賢人の教え

最後は、この人間の世界に甚大な影響を与えた三人の賢人の話で締めくくろう。『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。

自分自身を見つめ、自由になれ

 

真理の探究は真の自由をもたらす。それは、伝統や権威や社会の多数意見から解放された個人の自由であるが、それ以上に真理の光に導かれて自分を知り、自分を抑制することを学ぶ人間が獲得する内なる自由である。

 

『ブッダ』

ブッダ

悟りに導く『方法』とは、実際のところ、個人の道でしかない。悟りは、宗教儀式や神への生贄を盲目的に実行することによるのではなく、『八正道』によって得られる。この八つの道とは、正しい行い、正しい瞑想、正しい知恵の実践に要約される。

 

(中略)ブッダの生涯の中の一つの逸話がこのことをわかりやすく説明している。ある日、ブッダが啄鉢の鉢を手に持っていると、一人の青年が奇妙な儀式を行っているのを目にした。全身ずぶぬれで、6つの方角―東西南北と地の方向に順番に額づいているのだ。ブッダは、この儀式の意味を問うた。シガーラ(この青年の名前である)は、父親が死ぬ前に、毎朝この儀式を行う様にと言い残したと明かした。

『お前の父親の忠告に従うのはもっともだ。だが、父はおそらくお前にすべてを語る時間がなかったのであろう』

 

とブッダは彼に言い、そしてシガーラ教誡経、あるいはシガーラの説教と呼ばれる、在家信者の道徳についての最長の説教を行った。それは次のように始まる。

『6つの方角は、聖なる道の精神に従って崇めなければならない。』

 

そしてブッダは、この世で各人が完璧となるために従うべき規則、罪や嘘のように根絶すべき悪業、両親、主人、友の前で守るべき振る舞いについて教えた。とくに悪業に追い込む4つの原因、不公平、敵意、愚かさ、恐れについて指摘した。こうして求道とは伝統とされている儀式を実行することではなく自分自身を変えることにあると、シガーラに示した。

 

『ソクラテス』

ソクラテス

ソクラテスが実践し、弟子たちに説いたのもまさに同じ考えであった。神々へのお勤め、とくにアテナイの守護神へのお勤めを止めるようにソクラテスが弟子たちに命じたことは一度もないが、一番大切なことは各人が徳を高めて倫理的に優れた人になるよう努めることだ、と絶えず説いていた。ブッダと同じように、自分の魂を磨くために各人が行うべき精神修養の重要性を強調していたのだ。

 

(中略)しかしながら、ソクラテスが提案する自由は険しく厳しい道を歩むことを意味する。集団の法律や戒律を守っていれば確信や安心感が得られるのに対して、ソクラテスは『既成の』確信は与えてくれないどころか、私が『懐疑派』と呼ぶところの思想系譜の創設者となった。相手に質問を投げかけることでソクラテスは既成の確信を揺るがす。

 

皮肉(空とぼけ)のテクニックを用いて、自分は分かっていると思い込んでいる人に、本当は何も知らない、ということを納得させる。しかしソクラテスは同時に、知に至る手段は自分自身の中にある、と教える。隠れた知に到達する為には自分自身と向き合わねばならない、ということも。

 

『キリスト』

キリスト

イエスも、同じように自分の内面を見つめるよう弟子たちを導く。

『神の国は、実にあなたがたの間にあるのだ』(ルカ伝17章21)

 

と言っている。自分自身に向き合い、神と、心と意識の深奥なる真理を探し求めるよう促している。それは単に宗教儀式を忠実に行えばいいというものではない。

 

(中略)集団的儀式の重要性を否定するほどではなかったが、儀式は絶対的なものではなく、大事なことはもっと別のところにあるとイエスは教えた。イエスは一人ひとりが内面に向かうように導いた。真の神殿とは、人間存在の深奥であり、神と出会う心と精神のことなのである。

 

黄金律、『自分の心と向き合った人間だけがたどり着ける境地がある。』に記載した、『四聖』の教えの共通点にも書いたが、ドイツの哲学者、カール・ヤスパースが言ったように、『人間の基準を与えた人々』である彼ら大賢人の教えの共通点は、『自分の心に目を向けること』だった。答えは外にはない(アウトサイド・インではない)。内にあるのだ(インサイド・アウトなのだ)。

 

 

 

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