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『ゼロ・グラビティ』がなぜ今年最高の映画だったか



※映画の内容に触れているので注意


サンドラ・ブロックとジョージ・クルーニー主演の映画『ゼロ・グラビティ』が 今年の12月から放映されている。 私はこの映画が今年観た映画の中で、最も感慨深く、見応えのある作品だったと心からの確信を覚えている。幼少の頃から最愛としてきた宮崎駿の作品や、そのライバルであり盟友の高畑勲監督の作品と並べても、である。

私は5年前から毎週最低でも1本は映画館で映画を観ている。もちろん、日曜洋画劇場、土曜プレミアム、金曜ロードSHOW、水曜プレミアシネマ、午後のロードショー、DVD、ブルーレイからでも映画はたくさん観てきている。 まずは、なぜ私が映画を観るようになったかを書く必要がある。


それは、映画が最高の娯楽(リフレッシュ)や、人生に役立つインスピレーション(直感)を与えてくれるからである。


それも、低コストで。


つまり、費用対効果(コストパフォーマンス)が高いのだ。次のランキングに着目してもらいたい。


1位  海外旅行
2位  国内旅行
3位  ゴルフ
4位  高級レストラン・料亭での食事
5位  温泉めぐり
6位  読書
7位  クルーズ旅行
8位  資産管理・防衛
9位  映画鑑賞
10位 ファッション


このランキングは世界の成功者(セレブ)のお金と時間の使い道順位。
このランキングからわかるのは、彼らがいかに質の高い時間、つまり人生を過ごせるかという部分に重きを置いているか、という、ある種のレバレッジ(てこの原理)な意味合いを持つ、知性という要領である。


レバレッジ、つまり、 『どこに”支点”を置き、何を”入力”すれば、大きな”出力”が生まれるか』 という、てこの原理である。もちろん各々の趣味嗜好は十人十色だが、
往々にして上のようなランキングとして共通する。

その大いなる理由はと言えばズバリ、『リターン(得られるもの)が高い』 ということに尽きるのである。つまり、”出力”が大きいのだ。

 

『知識』や『経験』を大きく分けると、直接自分の仕事に係る『有用の学』と、直接は係りのない『無用の学』というものがある。 上にランキングされたものは、大体の場合が、『無用の学』であるケースが多い。それにもかかわらず、なぜ”出力”が大きいのだろうか。それは、『有用』だろうが『無用』だろうが、『知識』、『経験』というものは、人生に役立つからである。そして、成功者と呼ばれるような人間は皆、きちんと”役立てさせられる術”を知っているのだ。そして何より、『学』として捉えている。決して、『遊』だけの解釈で捉えていないのだ。というかそもそも彼らのような一流は、ワーク(仕事)とライフ(娯楽)の境界線は人為的なものであるということを、知っている人間なのである。(もちろん資産家の2世など、一流に当てはまらない例外はいる)


そこまで考えたら、私が映画鑑賞にどれだけ重きを置いているかが、見えてくるはずである。 だが、念押しとしてもう少しだけ書こう。恐らく、多くの人は映画を『学』ではなく、『遊』として見ているだろう。


だからその映画が本当に訴えたいことを、正確に捉える人は少ない。そして何を隠そう、この私自身も、10年前までは後者だったのである。


あるとき、映画『ヴィレッジ』を観たときのことである。


ヴィレッジ

 

この映画が訴えるテーマは、あまりにも深遠だった。
そして私はその映画が訴える意味を、たまたま理解できたのだ。時間があった、自分の抱えるテーマに似ていた、等、様々な条件が揃っていたことも関係しているだろう。 だが、多くのレビューを見ると、 『意味がわからなかった』『期待外れ』 などという感想が多く、以前の私と同じように『この映画が訴えるテーマ・実態を浅はかにしか捉えられていない』ことが浮き彫りになっていた。

 

私はその経験を通し、今までの経験が、何か『もったいない』気がしたのだ。何か自分が人生で、大きな『損』をしていたような、そして的を射ない感想を言う皆に対しても、『損』をしているような、そういう感覚に襲われたのだ。


(俺は今まで一体、何を観てきたんだろう)


その時、今まで何も得られず、学ぶ気もなく、周りのせいにばかりしていて『腐敗して寂れ切った次元』から、『全く新しい神秘の次元』のドアノブに手をかけたような、そういう錯覚に陥ったのを覚えている。


それからの私は、映画に対する集中力が違った。
明らかに周囲の人間と、一線を画すものがあった。 周りの人間の感想と、全く違う感想を抱くようになったのだ。着眼点が変わった。 その作品から得られるべく最大の恩恵を得ようという、集中力が高まったのである。よく考えたら、彼らが映画を創るのにどれだけ苦労して、どれだけの時間とお金をかけているかを考えるだけでも、
その『集中力』は本来高まるはずなのである。


さあ、いよいよ本題だ。

『ゼロ・グラビティ』がどれだけ良い映画だったか。
それを説明するには当然、『映画が訴えるテーマを正確に捉える』ことは、必須である。


私の母にこの映画を勧めたところ、珍しくちゃんと観てくれたのは良かった。 だが、『地球が美しかった』とだけ言うのだ。 もちろんそういう感想でも良い。観る人がそれぞれ、違う感想を抱くだろう。映画は結局、それでいいのだ。

 

だが、本当にこの映画は、『地球の美しさ』だけを伝えている映画だったのだろうか。 母に、私が抱いた感想を話すと、『なるほど』と深くうなづき、『そこまで考えられた人がいるだろうかね』と言った。私が抱いた感想とは、こうだ。

 

主人公のサンドラ・ブロック扮する医療技師のライアン・ストーンは、ジョージ・クルーニー扮するマット・コワルスキー責任の下、3人のチームで、人工衛星の修理を宇宙空間で行っていた。だがなぜかライアンのテンションは低い。


それも当然『演技であり演出』の一つだということを忘れてはならない。手品・マジック同様、全てが『演出』なのだ。まずはそれを知ることが、映画を最大限に満喫することの第一歩だ。

 

そして、とある理由で宇宙ゴミが地球の軌道に沿って接近し、隕石のように人工衛星とチームを襲い始める。 一人は死んだ。ついさっきまで、子供のように宇宙空間を遊んでいた人間が、かくもあっけなく、死んだのだ。

 

そしてライアンとマットは宇宙空間に投げ出された。 地球の常識は通用しない宇宙の世界。重力が無い。ぶつかったときのエネルギーのせいでぐるぐると回り続け、
それを止められない。 目が回ろうが、吐き気がしようが、止められないのだ。


『人間はなんて無力なんだろう。』


まず最初に抱く感想は、それである。


かのソクラテスは『無知の知』を説いた賢者である。 だが、多くの人はそれを受け止めることが出来ない。
だからソクラテスも、『無知』を説いて回ったことが原因で、大衆の反感を買い、裁判にて死刑に票を入れられたのだ。 同じように『無力』であることを悟ることも人間にはなかなかできない。


容易ではないのだ。だが、ソクラテスが本当の勇者だったように、ブッダキリストが神として崇められたように、それを知り、遂行することが出来る人間は、この世で最も『知的』であり、その生き様は崇高なのである。


そう。
ここまでの段階で、この映画から、そこまでの感想を抱くことこそ、この映画がまず最初に訴えているテーマなのだ。『人間は無力だ』ということ。


そして次に、ライアンを何とか捕まえることに成功したマットは、二人で自由の効かない宇宙空間から脱出するために、死んだチームメイトの死体と三人で、中国の人工衛星へと向かう。

その間に二人は、気を紛らわせるために何気ない会話を始める。そこで、ライアンのあのテンションの低さの意味が、ようやくわかるのだ。 彼女は、恋人はいないと言うが、『娘はいた』と言うのだ。つまり、過去に娘を失っていたのである。

 

これがこの映画のカギだ。

 

陽気にふるまうマットは、それを聞いた途端気晴らしにかけていた音楽を止め、真剣にライアンの話に耳を傾けた。マットはそれについて多くを語るわけではない。だが、おしゃべりで陽気なマットが、『音楽を止めてライアンの話に真剣に傾けた時間があった』。それだけで、マットの人格を表すのには、十分だったのである。マットは、そういうことが出来る人間だったのだ。


負を背負った内気なライアン。大きな器を持つお喋りなマット。この二人が更にこの後、壮絶なドラマを生み出す。


ライアンとマットは何とかして衛星にたどり着くが、地球のように重力がないから、たどり着いたところで足で着地できるわけがない。近づくだけ近づいたら、風を噴射し、衛星に体当たりするしかないのだ。

 

身体を大きくぶつけながらも、なんとかしがみつくライアン。しかし、マットはしがみつくことが出来なかった。すかさずマットに絡みついたコードを掴むライアン。だが、そのままでは二人とも重力に逆らえず、マットの方向に飛ばされてしまう。


『絶対に離さない』
とライアン。


だが、一部始終をよく観察した上でマットは、自分に絡みついていた命綱であるコードから、手を離した。


(この手でつかんでたのに… しっかりつかんでたのに…)


このときライアンは、かつての娘のことを思い出していたのだろうか。
だがマットは、計り知れない宇宙の闇に放り投げだされながらも、ライアンを冷静に衛星への入り口へと無線を使って案内する。マットは、ライアンの為に命を投げ出し、自分の死に直面しているというのに、彼女を励まし続けたのだ。


何という誇り高き一生なのだろうか。
人は人生で一度は問うはずだ。『自分の命を全うする』とはどういうことなのだろうか、と。


もし目の前で子供が車に轢かれそうになっているのを見たとき、あなたならどうするだろうか。 助けたら自分が死ぬ確率が高い。だが、見て見ぬフリをすれば確実に子供は死に、そしてその後の自分の人生に、重くのしかかるだろう。


『考えたくない』ではダメだ。
我々人間は、この人生でそれらの試練についてどう向き合うかが、問われているのだ。修理作業中、少しおしゃべりが過ぎるぐらいだったあのマットが、自分の為に命を投げ出した。一瞬でも、少しだけ軽率で軽薄だと思ってしまってあのマットに、自らの命を賭して、命を救われた。


この時、ライアンの『潜在意識』に大きな衝撃が走ったのを、私は確かに見たのだ。
『潜在意識』というぐらいだから、『顕在』してない。つまり『表面化』してない。 言葉にも出してないし、その感情が表現されていない。だが、マットはライアンの『潜在意識』に、『深い何か』を植え付けたのだ。それが、次のシーンでわかるのである。母は、ここまで想像して作品を見ることが出来なかったという。


命からがら衛星に潜りこんだライアンは、やっとの思いで中国の衛星へと向かう為の宇宙船に戻り、ギリギリだった酸素を体内に取り入れた。そして、地球に戻る唯一の手段である中国の衛星に向かい、船を進めるのだが、地球の軌道に乗ってもう1周してきた宇宙ゴミに衝突され、破壊され、コードが絡まり、絶体絶命の危機に陥る。

 

ライアンは助けを求めて無線に話しかける。だが繋がらない。そのとき、ある周波数から音声が聞こえた。アジア人のような男が、こちらの状況も知らないで気楽に話しかけ、歌を歌いだすではないか。

 

ライアンは逆に、笑った。そして、歌を聞かせてくれと言った。ライアンは抗う気力をすっかり失ってしまう。

 

そのときだ。


どこからか赤ん坊の声が聞こえるではないか。

 

『赤ちゃんがいるの? 赤ちゃんの声を聴かせて』

 

子守唄のような歌を歌うその相手と赤ん坊の声を聴きながら地球を思い、そして娘を思い出すライアン。


ライアンは、死を覚悟した。
このまま死のう。
そう思った。

酸素の濃度を低くすれば、意識が朦朧として楽に死ねる。
そう思った。

 

娘に呟いた。
『もうすぐ会えるね』

 

ここからが重要である。

 

意識が朦朧とする中、ドアを叩く音がするのだ。ドアを開けたのは、死んだはずのマットだった。

 

マットは言う。
『さてどうする。まだ手段はあるぞ。あれを動かすことはやったか?』

 

ライアンは言う。
『もうやったのよマット。もうやるだけのことはやった。』


するとマットは真剣な顔で言った。
『ここは居心地がいい。傷つけるものは周りにいない。静かで孤独な空間だ。 だが、ここで生きる理由がどこにある?


君は娘を失った
これ以上の悲しみはない。だが大切なのは、今をどうするかだ。大地を踏みしめ、生きろ』


(人生を最高に旅せよ)
ライアンは、マットからそういうメッセージを受け取った。マットはライアンの潜在意識に植えついた、だった。


低酸素状態で意識が朦朧とする中、ライアンはマットの幻覚を見ていたのだ。この幻覚を植え付けたのは、マットだった。マットは、命を投げ出したあの時、命の素晴らしさ、人生の崇高さをライアンの潜在意識に植え付けたのだ。

 

『おそらくマットが生きていたら、そう言うだろう。』 『私の為に命を投げ出してくれたマットなら、私が今までの人生で抱えてきた人生の悩みについて、その凝り固まった負のエネルギーを鼻で嘲笑い、溶かし、こう言って救ってくれるだろう。』なぜならマットは、私の命の恩人なのだから。人生で一番大切なものを、私に預けてくれた、恩師なのだから。

 

あの人は知り合ったばかりのただのチームメイトのはずだった。だけどあの人は、そんな絆のはずの私の為にその命を使ってくれた。私の人生を、守ってくれた。私自身が諦めかけていたこの人生に、息を吹き返してくれた。


ライアンは、それが幻覚だろうがなんだろうが関係なかった。
私は一人じゃない。 私の命は、自分の為だけにあるのではない。マットの為。そして娘の為。 二人の分まで、私は生きなければならない。


生きる意義を見失っていたライアンが、生きる力を見出した。
『そうよ。これは最高の旅なのよ。』


それは決して、『宇宙旅行なのよ』という意味ではない。この人生自体を、そう例えたのだ。

 

誰かが言った。人生とは、旅である。
我々は人生を生きていると思い通りにならないことや、予期せぬこと、悲しいことにたくさん直面する。 なぜ生まれてきたのだろう。いっそ死んだ方が楽だ。そういう負の感情がよぎるのは、ライアンに限った話ではないだろう。


ライアンはこのあまりにも稀有な一件を通して、人生の尊さを、知ったのだ。
生きる力がみなぎった途端、不思議なことに『人生の活路』が切り開かれた。 つまり、『まだ残っている選択肢』に気づく『視野』が開けた。そしてライアンは、何とか地球に戻ることが出来たのだ。


トドメだ。
地球の重力に慣れるまでになかなか立ち上がることができないライアン。だが、大きく笑いながら、生まれたての小鹿のように、両足を大地につけたそのとき、 壮大な音楽が鳴り響くのである。


なぜだろうか。


そう。
我々は、この地球に立っているだけで、『奇跡』なのだ。それをこの映画は、教えてくれたのだ。


確かに母が言ったように、宇宙から見た地球は、それも最新の映像技術で見るあの映像は、圧巻だった。だが、この映画が訴えるテーマは、『地球の素晴らしさ』だけではない。『人生の尊さ』も教えてくれたのだ。


映画を真剣に観てみよう。

もしかしたら、見飽きてしまっていたこの世界の新しい扉を、開くことが出来るかもしれない。

 

かつての私のように。
そして、ライアンのように。

 

 

 


by:一瀬雄治 (Yuji Ichise)
サルベージエンタープライズ株式会社代表取締役社長。
1983年、東京都生まれ。


『ゼロ・グラビティ』がなぜ今年最高の映画だったか

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