名言を自分のものにする

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モノの見方、捉え方


前回の記事に続くが、モノの見方、捉え方は、人によって違う。その差はときに、雲泥の差を生むことになるほどに。

例えば映画、

ただ流されるままに”眺めている”人と、”学習の意思がある”人とでは、得られる経験値に雲泥の差がある。

 

例えば事件、

主犯と共犯がいた場合、どう考えても主犯が罪が重くなると思いがちだが、場合によっては、共犯の方が長い収容になる場合がある。

 

例えば時間、

ある人によっては、時間など腐るほどあるからダラダラと過ごせばいいと考えるが、ある人によっては、時間、つまり”現在”を英訳し、”PRESENT”と受け止める。プレゼントだと思えば大事にするのは当たり前だが、腐るほどあるものだと思っているなら粗末に扱う。

 

例えば毎日、

これについてはイチローと記者とのやり取りがわかりやすい。

記者『なぜイチロー選手は、”同じ毎日の繰り返し”で、成功できたんですか?』
イチロー『…”たしかな一歩の積み重ね”でしか、遠くへはいけない。』

 

例えば生き方、

ある人は、いかに出世コースに乗り、安定を勝ち得れば成功者とし、ある人は、いかに報酬に頼らずに生きていけるかを見極めれば成功者とする。

 

例えば人生、

ある人は、どうせ死ぬ運命なのだから、努力したって意味がないと考えるが、ある人は、”どうせ散りゆく運命ならば、咲かせて見せよう夢の華”と唄う。

 

両者の違いを一言でまとめるとこうなる。
『主体的』か、『反応的』か、ということだ。

 

いかなるときでも物事の”主”となって、自主、自律、責任をモットーに生きているのが前者、いかなるときでも物事に”反応”していくだけ、あるいは”いい反応”が期待できる安住の地を求め、”何か”に期待して生きているのが後者である。

 

どちらがいいかは一目瞭然だが、この事実を真正面から受け止めるのには、勇気がいる。ナナメから見て、受け入れない人がほとんどだろう。だからこそ、世の中は『反応的』な人間で、溢れているのだから。

 

だが、遅くてもいいから、いつかは気づきたい。それが、儚い運命を背負った無力な人間の、せめてもの気高さなのだ。

 

 


by:一瀬雄治 (Yuji Ichise)
サルベージエンタープライズ株式会社代表取締役社長。
1983年、東京都生まれ。


モノの見方、捉え方

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