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『人間には聖性と魔性の両面がある。聖性を優位にし、魔性を劣位にする、という闘いこそがジ・ハード(聖戦)なのである。』

意味

聖性と魔性

どんな人間にも、光と闇はある。聖書における『ヘブライ人への手紙』には『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。

『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ。

 

更なる詳細を書こう。白鳥晴彦の著書、『超訳聖書の言葉』にはこうある。

父はなぜ叱るのか

 

試練は神からのこらしめである。罰する為の試練ではない。神が人を自分の子のように扱うゆえの試練である。父からこらしめられない子があろうか。こらしめるのは、神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ

 

ヘブライ人への手紙 第12章

 

つまり人間には『聖性(せいせい)と魔性(ませい)』の両面がある。別に、『天使と悪魔』でも『白と黒』でも『光と闇』でも『善と悪』でも『神とサタン』でも『良心と邪念』でもなんでもいい。

 

 

『聖性』があるなら、その対極の『魔性』があることは想像にた易い。『自分の聖性』という表現は、まるで『自分の一部である聖性の部分』という風に言っているのと同じだからだ。『全てが聖性で出来ているもの』であればその様な表現にはならない。『自分の要素の一部である聖性の部分』を、子に与えようとしている、という解釈をする方がつじつまが合うことになる。

 

そうなれば、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。(魔が差したを、魔が刺した、とあえて書くのは、魔性に聖性が負けることを表現したいからである。)

 

 

ジ・ハード(聖戦)は人殺しを許可しない

更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、 イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。

 

『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけだ。例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。

 

Wikipediaにはこうある。

ジハードは本来、「努力」「奮闘」の意味であり、ムスリムの主要な義務である五行に次いで「第六番目の行」といわれることがある。日本では一般に「聖戦」と訳されることが多いが、厳密には正しくない。ジハードの重要性は、イスラームの聖典『クルアーン(コーラン)』が神の道において奮闘せよと命じていることと、あるいはまた、預言者(ムハンマド)と初期のイスラーム共同体(ウンマ)のあり方に根ざしている。

 

ジハードは、『クルアーン』に散見される「神の道のために奮闘することに務めよ」という句のなかの「奮闘する」「努力する」に相当する動詞の語根 jahada (ジャハダ、アラビア語: جهد‎)を語源としており、アラビア語では「ある目標をめざした奮闘、努力」という意味である。この「努力」には本来「神聖」ないし「戦争」の意味は含まれていない。

 

しかし、『クルアーン』においてはこの言葉が「異教徒との戦い」「防衛戦」を指すことにも使われており、これが異教徒討伐や非ムスリムとの戦争をあらわす「聖戦」(「外へのジハード」)の意に転じたのである。したがって、「聖戦」という訳語は、ジハード本来の意味からすれば狭義の訳語ということができる。

 

極めて重要視される『内へのジハード』

「内へのジハード」は、非イスラーム圏ではあまり注目されていないが、イスラーム世界ではきわめて重要視されている概念である。これは通常、神の道を実現するために、各個人が自らの心のなかの堕落・怠惰・腐敗などの諸悪と戦う克己の精神を意味しており、強い意志で自分をよりよくしていこうという努力である。また、これらの悪を増長させる外来文化の導入などによる環境変化に対する抵抗もまた、「内へのジハード」としての戦いであると見なされる。

 

『クルアーン』には、各所に「努力する者には神が報いてくださる」としか解釈できない句が数多く登場する。ムハンマド自身は、しばしば同時代のユダヤ人をその信仰において「形式主義者」と非難し、ムスリムに対しても、たとえば「形式だけの礼拝なら、しない方がまし」と宣言したように、努力することそのものを重んじたのである。

 

「内へのジハード」は「大ジハード」と呼ばれ、社会の平和的な運営には欠くべからざるものとして法学者や為政者からも重視される。ジハードを「聖戦」と訳して、単なる戦いという意味でこの言葉を理解することは誤りであり、「布教のための戦い」と理解することもまた誤りであって、「戦い」の意味を有する場合でも、あくまでも「防衛戦」を指している。現代においては、多くのイスラーム諸国において為政者、法学者、知識人ともに「内へのジハード」を重視する傾向が強い。

 

 

テロリズムで失われた命

私がこのWikipediaで聖戦(ジ・ハード)について調べたのは、日本人二人がイスラム国によって命を失う前だった。その時は、確かこのような納得のいく話は書かれていなかった。

 

その後その二人の日本人がイスラム国によって殺害され、日本中に激震が走った。その時、亡くなった一人の友人であったジャーナリストの池上彰が、友人を亡くして意気消沈としていた中、何とかテレビに出演してくれて、この『聖戦(ジ・ハード)』についての説明をわかりやすくしてくれたのだ。

 

彼がそのタイミングでテレビに出て、その件についての発言をするということは、よほどの覚悟と努力が必要だったはずである。私はそれをくんで、彼の言葉を信用し、このサイトの至るところに、

 

イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。『神の為に奮闘する』ことを意味するのだ。

 

と書いてきた。

 

私はイスラム圏で生まれなかった。むしろ、この日本においてわずか0.8~1%ほどしかいないと言われているキリスト教徒の両親の下で育ち、キリスト教について嫌というほど考えさせられたクチであり、イスラム教のことを考える暇はなかった。だが、もちろんどこかでその存在のことは頭の片隅にあって、いつかその実態を理解できたらいい、という風に置いておいたのである。

 

しかし、やはりこの『聖戦(ジ・ハード)』だけがどうしても理解できず、イスラム教に関しては不完全な存在であるという風に、色眼鏡で見てしまっていた。だが、『四聖』に数えられる、儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の教えや、この世を生きた500人の偉人たちの言葉や知性を通し、私の中で蓄積したものと、池上彰のその説明を照らし合わせたとき、私の中で、

 

それだ!!

 

と繋がり、一致する感覚を得たのだ。

 

それならイスラム教の教えは正しい!!イスラム教の教え自体は間違ってない。むしろ、他のどの偉人たちの教えにも劣らない、極めて傾聴に値する意見だ!!

 

と喜んだものである。

 

あの事件と池上彰のそのコメントの後に、このWikipediaは更新されたのだと私は推測する。それよりも前は、もう少し情報が大雑把だった印象があった。やはりあの事件がこの国に与えた衝撃は大きく、動いた人間の数も多い。多くの人がその『聖戦(ジ・ハード)』やイスラム教について考えただろうし、日本を含めた世界にいる『本当のイスラム教徒』たちのことを考えても、情報は正確にまとめなければならない。そういう動きがあったのだろうと推測されるのだ。

 

本当のイスラム教徒

本当のイスラム教徒たちは、イスラム国という呼称に対し、『イスラムという名前をつけないでほしい。あれはイスラム教の教えとはかけ離れている』と主張する。そしてその後、『ISIL(アイシル: Islamic State in Iraq and the Levant)』、あるいは、『ISIS (アイシス: Islamic State in Iraq and Syria)』という名で呼ぶような方向性に変わった。

 

真のイスラム教の教えは、とても崇高なものである。『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうある。

なぜ合理的なイスラム教が世界のスタンダードにならなかったのでしょう。イスラム教は、みればみるほど合理的で体系的で、よくてきています。キリスト教やユダヤ教よりも、完全であるとみえてしまいます。それがスタンダードにならなかったのは、一般に、もっとも優れた規格が普及するとは限らない、という現象があることによると考えられます(たとえばベータマックスやマッキントッシュ)。

 

(中略)宗教とテロリズムは結びつくのだろうか。(中略)宗教とテロは関係ありません。テロリストが、宗教を口実にしているだけなのです。(中略)ひと握りの過激派テロリストのために、まじめにイスラム教を信仰している何十億もの人々が誤解され、偏見と差別の対象になっている。ほうってはおけない。本書が、そういう誤解の解消に役立てば、さいわいだ。

 

 

私は、『真のジ・ハード』の意味を知ってから、イスラム教のことを心底から見直したのだ。そしてこの『聖戦(ジ・ハード)』の概念は、何もイスラム教だけではなく、世界中のあらゆる宗教・哲学・教育に目を向けても共通しているのである。

 

自律の父、ソクラテス

まずはソクラテスだ。『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。

 

ソクラテス

 

これを言うと皆さんは驚くでしょうが、無理強いされて大量に飲んだとしても、彼は酔った姿を人に見せたことなど一度もありません』(220A)。しかしアルキビアデスは次のように付け加える。

『戦場ではしばしば食料が不足しましたが、ソクラテスは私たちの誰よりも辛抱強く飢えや乾きに耐えました。』

 

(中略)ソクラテスが説く手法はブッダが提唱する手法と同じで、

節制、すなわち自身の欲望の奴隷とはならずに欲望を凌駕して節度をもって生きるという徳』68C)

 

である。(中略)アンドレ・ジャン・フュステュジエールは、

『ソクラテスは自律の父である。ソクラテス以降、自らを律すること、理(ことわり)を唯一の行動基準とすることが賢人にとって一番重要な務めとなった。賢人は自足している。賢人は市民である以前に人間なのだ』

 

と述べている。

 

不撓不屈の男、ブッダ

そして、ブッダだ。同じく本にはこうある。

 

ブッダ

 

ゴータマはまたしても一人で出立した。ウルヴィルヴァー村、現在のブッダガヤーの外れまで歩き、真理を見つけるまでは絶対に動かないと決意して、菩提樹の下で、脚を組んで座った。仏典によれば、死の神マーラがあらゆる手を尽くしてこの決意を翻させようとした。まず悪魔の軍隊で怖がらせようとし、次の絶世の美女たちに誘惑させた。ある晩、ゴータマは悟りに達した。彼は性の神秘を理解し、恐ろしい輪廻から人々を解き放つ方法を知ったのだ。ゴータマ・シッダールタは、これ以後『ブッダ(覚者)』となる。

 

悪魔(サタン)を退けた、キリスト

また、キリストもそうだ。同じく本にはこうある。

 

キリスト

 

三つの共観福音書(マルコ、ルカ、マタイ)によれば、イエスは洗礼を受けた後、荒野に1人で40日間こもった。その時、ブッダと同様、大きな誘惑を三度も重ねて使命を捨てさせようとする悪魔(サタン)と闘い、抵抗して退けた。

 

自分に打ち克つ、日本の武士

『武士道』ではこうだ。

『武士道においては不平不満を並べ立てない不屈の勇気を訓練することが行われていた。そして他方では、礼の教訓があった。それは自己の悲しみ、苦しみを外面に表して他人の湯快や平穏をかき乱すことがないように求めていた。』

これらは全て、『聖戦(ジ・ハード)』なのである。別に、言い方などはどうだっていい。この世で崇高な輝きを持ち、威厳を持つ全てのものの近くには、この『聖戦(ジ・ハード)』が存在していて、そして彼らはその戦いに勝利しているのだ。

 

ドストエフスキーは言った。

 

 

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