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『宗教の本質は『慰め』ではない。『戒め』である。そうじゃなければ、残忍な殺人行為も慰められる(肯定される)。』

意味

『肯定される』というところがポイントだ。要は、『慰め』というのはある種の『肯定作業』なのである。例えば、何か落ち込むようなことがあった時、

『いいんだよ。大丈夫だよ。安心して。それで合ってるんだよ。落ち込むことなんかないよ。』

 

などという言葉をかけて励ますわけである。私は、両親がクリスチャンを自称することが理由で、毎週日曜日には日曜学校なるものに行かされ、あるいは年に何度かは長野にある大きな教会センターに行かされ、そこに宿泊しなければならなかった。私の意志とは関係ないのだ。この家に住んでいて、この両親の息子である以上、イエス・キリストに『様』をつけて、『イエス様』と崇めなければならなかった。

 

私は意志を殺されかけ、窮屈な思いの中、家を飛び出した。そんなことはここに書けるぐらいの小さな話だ。私の彼らに対する『反抗』は、およそ『反抗期』として片付けられるような生易しいものではなかった。何しろ、『意志を殺されかけた』と言っているのだ。そりゃあ、殺されかけたなら普通は、逆に殺すことを考えるだろう。正当防衛だ。当然だ。

 

そもそも『反抗』とは『基準から逸れる』という意味でもあるわけだが、では、この両親は『基準』なのか?それとも、キリスト教が『基準』?だったら他の50億人の異宗教の人間は、私の周りにいる知人や友人は、全て『反抗期』にあるということになる。だが、もしその理論を押し通そうとするなら、逆にキリスト教徒こそが『反抗期』にあると揶揄されることになるだろう。

 

私はその後、少し見識も育ってきた中で、もう一度その大きな教会センターに行く機会があった。親戚の葬儀関係かなにかで、行くしかなかったのだ。だが、その時に聞いたその集いの『最高責任者』なる牧師の言葉は、間違いなくこういうものだった。

 

『イエス様は、慰めです。』

 

彼らは、自分たちの信仰を『宗教とは違う』と主張しているそうで、『宗教は慰めです』という言葉は言わなかった。私は10代の頃、自分の親が毎週日曜学校のような集いに行き、それから大きな十字架のある長野のセンターで、讃美歌を歌ったり聖書を読み上げたりして、『イエス様』、『アーメン』という言葉を並べる彼らが、

『私たちがやっているのは宗教ではない。』

 

と豪語したとき、完全に思考回路がショートし、

もうこいつらの言うことは何も信じなくていいや

 

と思ったものである。

 

しかし、それから10年以上経って、たまたま私の家の机の上にあった資料を見ると、そこに『信仰と宗教は違う』というような内容が書いてあり、私は10年以上の月日が流れていたから、もしかしたらあの件は少し記憶が間違っているかと思っていたのだが、それを見て思い出し、確信した。

 

この団体はやはり、最初から『信仰と宗教は違う』といううたい文句を掲げて、語り合ってきたのだ。そう確信したのだ。従って、その牧師も『イエス様は、慰めです。』という言葉を使ったわけだ。だが、私はそれを聞いて、すぐにこう思った。

 

やっぱりな。俺がたどり着いた結論と同じだ。だったら俺には、信仰は必要ない。この場所とも今回でおさらばだ。

 

私は本当に、『宗教は慰めなのではないか?』という結論に達していたのだ。なぜかというと、『私は本当に宗教を必要としていない』のである。この絶対的な事実が自分の心の中にあり、しかし周りの人間は皆それを求めている。そうした環境を20年以上も経験すると、『自分と周りの違いはなにか?』という疑問を抱くのは至極必然的なことである。

 

その中で、

 

俺はどういう状況になっても宗教を求めなかった。最初からわかっていたことだし、事実、親が経験したこともない恐ろしい場所に堕ちても、私は『自殺だけは絶対にしない!』などと書きなぐったりして、鏡を見て自分を奮起させるとか、そういうことはあっても、『慰め』を必要とすることがなかった。

 

だから、もし、宗教が『慰め』なのであれば、俺とそれがいつまでもかみ合わないことにつじつまが合う。

 

と考えていたのである。そして牧師がそう断言した。そしてこうも言った。

 

『寝ても構いません。この教会に来てください。』

 

それを受け、私はすぐにこう思った。

いや、寝るなら家のベッドで寝る。元々、決まった場所でしか寝れない体質だからな。そして、来るなら話を真面目に聞く。だが、その話自体が『慰めがベース』なのであれば、俺には必要ない。やはり、もうここに来ることはないだろう。

 

私は宗教が『慰め』なのであれば、私とは一生無縁であると確信した。それに、これこそがこの記事のテーマの核であるが、『宗教の本質が『慰め』なのであれば、残忍な殺人行為も慰められる(肯定される)』 ではないか。

 

 

そうしたテロリズムを行う人間は、自分の確信する宗教を盾にして、『神は偉大だ!』と言って叫び、事件を起こすのだ。もし、『宗教が慰め』なのであれば、その宗教の実態こそが、彼らのような人間を生み出したということになってしまうのである。

 

『慰め』というのはある種の『肯定作業』なのである。

『いいんだよ。大丈夫だよ。安心して。それで合ってるんだよ。落ち込むことなんかないよ。』

 

そうやって自分の思想や人格を肯定することこそが、『慰め』なのである。従って、もし『宗教が慰め』だというのであれば、人それぞれの思想や人格が肯定される。たとえテロリズムを行うことをよしとする人間の思想や人格でも。

 

だが、これが『戒め』であれば違う。もし『戒めという一本の筋』が通っていることを教えることが、宗教の本質だと言うのなら、宗教をかつて死ぬほど憎んだ私も、その存在を心底から納得することが出来るのだ。

 

 

この理論の正当性が証明されれば、私は両親やその牧師も含めた、極めて甚大な数の人間の思想をパラダイム転換させることに成功するだろう。そして、幼少期から私だけが『反抗してきたことによって』白い目で見られてきた事実を、覆すことになるのだ。

 

…『8,000の名言から浮かび上がった54の言葉-54 『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』』に続く。

 

 

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