1880作品
目次
- 2020年
- 『コールド・アンド・ファイヤー 凍土を覆う戦火』
- 『ザ・ハント ナチスに狙われた男』
- 『ブラック・ウォリアーズ オスマン帝国騎兵隊』
- 『ラッカは静かに虐殺されている』
- 『人生はシネマティック!』
- 『みかんの丘』
- 『とうもろこしの島』
- 『フランス外人部隊 アルジェリアの戦狼たち』
- 『ハンティング・パーティ』
- 『グラディウス ~希望への奪還~』
- 『安市城 グレート・バトル』
- 『ヘル・フロント 地獄の最前線』
- 『メンフィス・ベル』
- 『ディファイアンス』
- 『ポンペイ』
- 『勇者たちの戦場』
- 『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』
- 『ハンバーガー・ヒル』
- 『エネミーライン』
- 『カジュアリティーズ』
- 『ザ・ヘラクレス』
- 『ゴースト/ニューヨークの幻』
- 『ヤングガン』
- 『パシフィック・ウォー』
- 『聖なる嘘つき/その名はジェイコブ』
- 『ディバイナー 戦禍に光を求めて』
- 『第九軍団のワシ』
- 『フューリアス 双剣の戦士』
- 『卒業白書』
- 『スリー・キングス』
- 『マリー・アントワネットに別れをつげて』
- 『ヴェルサイユの宮廷庭師』
- 『ロシアン・スナイパー』
- 『ドローン・オブ・ウォー』
- 『危険なメソッド』
- 『エル・シド』
2020年
『コールド・アンド・ファイヤー 凍土を覆う戦火』
第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争とは、1864年にデンマークとプロイセン王国および関係国の間で戦われた戦争である。プロイセンというのはほとんど現在のドイツだ。首都がドイツと同じベルリンである。こうしたマイナー地域の歴史は歴史の専門書にも詳細が書いていないので、貴重な映像作品だ。だからこの『シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争』という名を聞かないまま人生を終えてしまう人も大勢いるだろう。
[塹壕を守備するデンマーク兵 1871年]
[1866年、アルスを襲撃するプロイセン兵]
だが、こうして当時の様子を見れば、そこには他の主要戦争と全く同じ状態の戦争がそこにあったことがよくわかるはずだ。これは、この戦争を通して実際にあったある兄弟と一人の女性の物語である。
実話、女の奪い合い、兄弟げんか(ディファイアンス、ブラザーフッド)
『ザ・ハント ナチスに狙われた男』
1943年。ノルウェー兵はイギリス軍の訓練を受け、ドイツ軍の航空管制塔の破壊作戦「マーティン・レッド作戦」という極秘任務を遂行する。だが、相手はナチスだ。簡単ではない。一人死に、二人死んでいく。仲間はもういない。最後に生き残ったのがこの男だった。男は、執拗なナチスの網から逃げなければならなかった。このノルウェーつまり北欧の冬山での逃亡は、困難を極める。地図を見てみよう。
大部分が北極圏に属し、全島の約80%以上は氷床と万年雪に覆われるグリーンランドやアイスランドがすぐ傍にあるこの北国は、赤道から遠く離れ、寒さが厳しい極寒の地だ。その国の冬の雪山となれば、もう人が生きていくことなどできない。だが、ナチス占領下のノルウェーから、中立国のスウェーデンへと国境を超えるためには、この最難関のルート以外に生存の道はない。
この超最難関な極秘ミッションを無事に遂行することができるか。北欧ならではのエリアを活かした壮絶な史実が映画化された。
極秘ミッション、本当に合った、国境を超えろ(テルマ、アルゴ、大いなる幻影)実話、
『ブラック・ウォリアーズ オスマン帝国騎兵隊』
この映画の説明も野蛮である。『15世紀のオスマン帝国を舞台に、暴虐の限りを尽くす権力者に立ち向かう7人の精鋭部隊を描いたトルコ発の歴史映画』。そして意味不明の『黒い天使の羽』をつけた兵士に、格闘家を遥かに超越したような漫画のような格闘シーン。そしてブラック・ウォリアーズという、まるで『無知な少年が思わず格好いいと思ってしまう』ように仕向けられて、相手のことを『暴虐の限りを尽くす権力者』とする。相手をとことん下げ、自分たちをとことん上げる手口は、稚拙である。
だが、時代としてはとても重要だ。メフメト2世と、『ドラキュラ』のモデルとも言われた『串刺し公ヴラド3世』のいた時代で、両者が対立する。ブラック・ウォリアーズはオスマン帝国側の兵士たちだ。
- メフメト:オスマン帝国
- ヴラド:ワラキア公国
だからこれはぜひ『ドラキュラZERO』と合わせて観たい。そっちでは今度『ヴラド目線』であり、英語だから見やすい。別にアラビア語(かわららないが)を批判するわけではないが、どうしてもその言語の人たちがこういう美化正当化をしてしまうと、ISのこともあって勘違いされる。彼らの手口も同じように、自分たちを映画のような映像で美化してSNSを使って人を洗脳して集め、『敵』を悪人に仕立て上げて知らぬ間にテロリストに仕立て上げてしまうのだ。
だからこういうやり方はやめた方がいい。もし事実だとしても、もっと多くの説明がいるし、中東がもう少し安定してから発表した方がいいだろう。『ドラキュラZERO』ではオスマン帝国が兵力増強のため『支配下にある国々に奴隷として子供1000人を差し出させる』という鉄の掟(デヴシルメ)をヴラドに強要するシーンを見ることができる。最も、彼も人を串刺しにしてドラキュラの元になった人物だから正当化できないが。
こちらはただオスマン帝国の歴史を正当に評価したいだけだから、そこにイスラム教があって何も文句はないが、美化正当化はやめた方がいい。それはもちろん、違う国の違う時代を切り取った違う映画の、キリスト教や、その他の一切にも当てはまることで、この映画だけに限った話ではない。
ドラキュラZERO
『ラッカは静かに虐殺されている』
現代人がこの映画に高い評価をするのは当然かもしれない。このドキュメンタリー映画のタイトルの理由は、これが彼らのチームのチーム名だからである。作中に『ラッカと検索すれば我々が出てくる』というシーンがあるが、そういう判断があるということは、このタイトルにすることで全世界の人がこの映画の普及に合わせてラッカ(シリア)の現状を知ってくれることができるからだ。ただ、原題は『City of Ghosts』なので日本人だけへの訴求だが。
この作品は衝撃的過ぎて、子供は見ない方がいいかもしれない。ドキュメンタリー映画は元々衝撃的な映像が流れるが、
- 本作品
- 華氏911
- 東京裁判
という順番で危険である。当時『イスラム国』と言われたISは、困難な生活を強いられた人々が間違った方向を睨みつけ、盲信たる猛進をしてみせるテロ組織である。ムスリムである彼ら『RBSS(Raqqa is Being Slaughtered Silently、「ラッカは静かに虐殺されている」)は言う。
『ISはイスラム教ではない。宗教を欲望で悪用し、映像を使う』
この話で思い出すのはやはりニーチェの言うルサンチマンである。ニーチェは、『ルサンチマン(弱者の強者への嫉み)』の感情のせいで、人間が唯一無二の人生を台無しにすることを嘆いた。キリスト教もそうした人間のルサンチマンから始まったのだと。
自分の上に裕福な人や権力者がいて、自分たちにはこの人間関係、主従関係をどうすることもできない。だが、その人たちの上に、神がいると考えれば救いが見出せる。神がいれば必ずこの不公平な世の中を、公正に判断してくれるからだ。
そういうルサンチマンたる感情からこの世にキリスト教が生まれ、イエスを『主』として崇めるようになったのだと。このあたりの人の心の動きを押さえることで、この世界にどのようにして宗教が生まれ、そしてそれが根深く蔓延していったのかということが見えてくるようになる。
支配する者 | 来世もまた権力を維持したいと願う |
支配される者 | 来世は今よりも良い境遇であるように願う |
つまり、『キリスト教=奴隷の宗教』と解釈し、
ニーチェ
と主張したのだ。ここで言う『弱者』は=強いられている者。貧困、圧政、外国の軍事介入、他宗教の傲慢、どんな理由かは知らないが、そうして追い込まれた人々らが『来世』なり『神』なりといった『現在の自分や人生ではないなにか』に夢を見るようになってしまい、それを盲信するが故に独自的な方向へと逸れる。そしてそうして見誤る人間たちの集合体だからこそそれを真理(正しい道)に戻そうとする『本当の意味での救世主』がおらず、逸れるだけ道を逸れてしまうのだ。
だが、それもニーチェの言う考え方に耳を傾ければ違う解決策が見えてくる。ニーチェは『ニヒリズム(虚無主義)』だと言われていて暗いイメージを連想させてしまいがちだが、実際はそうではない。ニーチェは、
『世界には君以外には歩むことのできない唯一の道がある。』
と言い、
『しかしその道がどこに行くのかを問うてはならない。ひたすら歩め。』
とも言っているが、 このようにして『唯一無二の命の尊さ』を強く主張した。この事実から考えればわかるように、彼はブッダの言う、
『天上天下唯我独尊』
の言葉の意味を理解していることになる。この言葉の真の意味は、『私以上に偉い人間はこの世に存在しない』という、釈迦の思いあがった軽率な発言ではない。
『この世に自分という存在は、たった一人しかいない。唯一無二の人生を、悔いなく生きるべし』
という意味なのだ。このような事実を理解している人間が、『未来に対して暗く、絶望的な人』であるわけがない。彼が『神は死んだ』と言い、『=虚無があるだけ』と言ったのは先ほども言ったように、奴隷と主人の人間関係が当たり前だったときの『呪縛』から、いい加減解放されるべきだと言いたかったのである。それは、彼が想定した、『永劫回帰』という考え方を見てもわかることである。ニーチェは、
ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒
[永劫回帰]
というループを無限に繰り返す考え方を提言する。もし、前世や来世等の発想があると、人はどうしてもその『もう一つの可能性』に未来を託し、あるいは希望を抱いてしまう。それが結果として現実逃避を生み出し、『今この瞬間』の否定につながる。
きっと来世ではもっとやれるはずだ!
しかし、もし永劫回帰という考え方があれば、今この瞬間、あるがままを受け入れるしかない。今この瞬間の、この自分以外にはあり得ない。『もう一つの可能性』などない。
だとしたら、今この瞬間、これが自分の人生なんだ!
と現実を直視し、今を全力で生きるようになる。ニーチェはそのようにして、その永劫回帰であったとしても、その事実を憂うのではなく前向きに受け入れ、既存の価値に囚われずに新しい価値を生み出す人間を意味する、『超人』であれと説いた。ニーチェが『この世に神は存在せず、人間だけが存在しているのだ』ということを強く主張したのは、こういう背景があるからなのだ。
ISの中には多くの子供たちがいる。子供たちが『ISは格好いい!』というイメージを持ち、彼らを美化してしまい、洗脳されてしまったのだ。日本人も彼らに殺されてしまった。RBSSはその活動の代償に現在進行形で彼らに命を狙われ、亡命先でもいつ死ぬかわからない綱渡りの状況を生きている。ISの支持者は世界中どこにでもいる。誰かが死んでもその根幹に共通する『殉職の美学』にも似た『神への忠誠心』がある以上、これを防ぐことは容易ではないのだ。
ただ、闇は光に勝てない。RBSSのような人が声を上げ、世界に訴えかけて仲間を集めてこの世に『光の網』を広げるなら、闇が生きずらい世界が訪れ、それが抑止力となる。闇はISに限った話ではなくこの世界から未来永劫いなくなることはない。だが、光を優位にし、闇を劣位にすることはできる。そのための彼らであり、この作品なのだ。
ドキュメンタリー映画、巨大組織、子供洗脳、宗教、非凡、衝撃、スノーデン
『人生はシネマティック!』
1940年のロンドン。ちょうどその時、ドイツ軍がフランスに攻め入る『ダンケルクの戦い』が勃発していた。したがって、クリストファーノーランの映画『ダンケルク』と合わせて観ると舞台背景がより見えてくるだろう。プロパガンダ映画、つまりイギリス政府が映画によってダメージを負ったイギリスの士気を上げる為に、映画製作を始めるという物語だ。
『チャンスをものにしないことは、死に生を支配される証だ』
非常に重みのある言葉を見ることができた。
ダンケルク、映画が作り田(かめとめ、エドウッド、NINE)
『みかんの丘』
舞台はアブハジア共和国。時代も1990年代前半で、『とうもろこしの島』と同じ状況が舞台となっている。
紛争中に、ケガをして運び込まれたチェチェン兵とジョージア兵がやってくる。チェチェンの兵は、出稼ぎで兵士をやっているようだ。だから恐らくはアブハジア共和国側の助っ人で、ジョージア兵とは敵となるわけである。彼らは宗教も違っていて、部下を殺されたり、という強い遺恨を抱えていて、一歩間違えれば殺し合いをしかねない一触即発の状況だった。
だが、中立的な立場で彼らの傷の手当てをする頑固じいさんの影響もあり、彼らはじいさんの家では殺し合わないことを約束。しかし、いつお互い爆発してもおかしくない状況が続いていく。
お互い、もう少し再会する時間や場所が違えば、殺し合っていただろう。だが、彼らが出会ったのはそういうじいさんの家だった。水と油のように絶対に交じり合うことがないように見えた彼らだが、その家で起こる出来事を通し、次第に変化が現れるようになる。私は、同じアブハジアの映画を人にすすめるなら、『とうもろこしの島』よりも断然こちらを推薦するだろう。
人間は本当は全員平等で分かり合える仲間だ。だが、この数万年という長い年月の間に大きな変化があった。人間の集団生活の規模が大きくなり、徐々に人間の暮らしにも変化が起き始める。
人間というのは動物と同レベルの知能しかなかったので、その名残がなかなか消えない。知能の発達とともに徐々に理性的になるのだが、それまでの動物のような生活をすぐに切り替えたわけではなく、時間をかけて徐々に変わっていくわけだ。この時はまだこのあたりのことについては秩序がなかったので、生まれて来るこの父親が誰かははっきりしなかった。
原始時代の狩猟採集時代の方が、狩りに出る男次第で生きていけるかどうかが決まるから、男がリーダーであるような気がするが、実際には狩猟採集社会が終わり、農耕社会になったときに、ようやく男は権力を持ち始めたようだ。だからこの当時の男性も、
- 女性
- 労働力(子供、人)
- 土地
このあたりの『力』を自分のものにしようと主張するようになった。しかしそのせいでやはり争いが生まれ、農耕社会の秩序が保つことができなくなる。ルールが必要だと解釈するようになり、徐々に秩序が作られるようになる。
- 一夫多妻
- 殺人
- 他人を傷つける
- 盗む
- 嘘をつく
こういった行為がタブーとされるようになった。国家ができ、宗教ができ、文化ができ、言語ができ、倫理や道徳やルールができていく。その根幹にあるのは『そこにいる人間たちの都合』である。しかし、人が増えてしまえばそれだけ『異質同士の衝突』が増える。我々ははじめ、戦争をして殺し合い、サバイバル的に生き残るために発展させてきたのではなく、『みんなで一緒に生きていくため』に発展させてきたのだ。
そんな人間の長い長い歴史を、このアブハジアという小さな小さな国の物語から学ぶことができる。
教訓、哀愁
『とうもろこしの島』
1992年頃の東ヨーロッパに位置するアブハジア共和国。アブハジアとジョージアは内戦状態にあった。地図を見てみよう。
アブハジアというのは国際的にはジョージアの一部として数えられている。この海沿いの小さなエリアがアブハジア共和国である。今回は、そこで起きた内戦を背景に、そこで平和に暮らすある親子の話が描かれる。といっても祖父と少女で、その設定も計算されているかもしれない。要は、二人の共通点は『不安定 』だ。親がいない、おじいさん、少女、これらの要素があるとみている側はとても『不安』になる。
更に、少女の無意味な着替えシーンがあるので、そういう映像がより視聴者に不安を与える。そうすれば、そんな中近づいてきた軍人に対する緊張感が引きあがるというわけだ。そういう戦略で鑑賞者を引き付け、かつこのアブハジアという小さな国で起きている現状を世に伝えることに成功している。
ただ私が嫌なのは少女の着替えシーンで、『無意味』という強い言葉を使ったように、私は児童ポルノが大嫌いで報告するレベルなので、こういう映像は流さないでほしい。もちろん局部は映らないが、暗にそういう連中の欲望を煽るようなことは許せない。それは、私の中にもある欲望なのである。女性をエロティックに映せばロリコンじゃなくても何かを感じるものである。『その要素』を煽ることに対し、腹を立てながら観ていた。
『そうでもしてくれないと記憶に残らないでしょ』という狙いがあるのなら狙い通りだ。
小国、東ヨーロッパ
『フランス外人部隊 アルジェリアの戦狼たち』
『アルジェの戦い』で有名なアルジェリア戦争(1954年から1962年)を背景に、男たちの友情と戦いを実話に基づいて描かれる。『フランス外人部隊』というのは、フランスにある『外国人で形成された部隊』のことだから、フランス人ではない人たちの部隊だ。
フランスの植民地であるアルジェリアに配属された男が、過酷な訓練を通して隊員と絆を深める。外人部隊は、アルジェリア独立を掲げる自由軍と壮絶な攻防を繰り広げる。やがてフランス大統領シャルルドゴールがアルジェリア独立を容認したため、独立反対派の植民者ピエ・ノワールを支持する外人部隊はフランスと対立してしまう。
実話、フランス、アルジェリア戦争
『ハンティング・パーティ』
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の戦争犯罪人を追うアメリカ人ジャーナリストを描いた実話ベースの映画。1992年から1995年まで続いた内戦で、ボスニアの内戦とも言われ、『第二次世界大戦後の最悪の紛争』と言われる。そのゆえんが映画を観ていればよくわかるはずだ。作中ではある程度コメディタッチで『やんわりと』しているので明言されないが、雑誌『エスクァイア』のジャーナリストの話だ。
少し変わった人間だが、このような人間じゃなきゃ切り開けない難問というものがある。事実、彼の周りにいる常識人たちは、彼の行動を阻止しようとする。あまりにも危険だと。だがそれは逆に言えば、それだけ危険な問題が野放しになっているという意味でもあるのだ。その悪の親玉たちのモデルになっているのはカラジッチ、ムラディッチという人物だが、これはWikipediaにも詳細があるユーゴスラヴィアの戦犯である。
実はリチャード・ギアというのは『愛と青春の旅立ち』を含め、今まで一度もアカデミー賞にかかわっていない。男優賞も、作品賞などもすべて受賞していない。彼は毎年一本ずつほどのペースで映画に出ているが、その映画も飛び切り知名度があるものがるわけでもなく、超一流俳優の座にいるとは言えない様子なのである。何かと日本に馴染みある俳優で、黒澤明の『八月の狂詩曲』にも特別扱いする必要はないとして安いギャラで志願していたようで、そういうこともあって妙に垣根が低く、日本人が彼に持つ印象は良いのだが、ハリソン・フォードやトミーリージョーンズらと同じかと言えば彼らの方が賞を受賞しているという面では良い映画に出ているor演じているようだ。
だからなのか、彼の映画には『二流映画』のような印象がついている。『クロッシング』で演じた彼も堕ちた人間だし、大した役をやることができないのかという疑いをどうしても持ってしまうのだ。だが、だからこそかもしれないが、この映画は良い意味で裏切ってくれる。実話を切り取ったということもあるが、彼の持つ穏やかな男の印象とは違う一面をしっかりと見せてくれている。
まさかこんなことが実際に存在したとは。エンドロールで衝撃を受ける人も大勢いるだろう。
実話、衝撃、ボスニア紛争(エネミーライン)
『グラディウス ~希望への奪還~』
1250年頃の中世ヨーロッパで一大王国を率いたダヌィーロ・ロマーノヴィチの波乱に満ちた半生を描く。歴史的事実にファンタジー要素がプラスされている。他のロシア映画に『フューリアス双剣の戦士』があるが、そこで描かれるのがロシア最強の剣士コロヴラート。彼はモンゴル帝国のバトゥに侵略されて対抗した人間である。モンゴル帝国の創始者チンギス・ハンの長男であるジュチ。この男の次男がバトゥである。
その話が1237年。その時ロシアという名前はないので『ウラジーミルスーズダリ大公国』となる。今回は『キエフ大公国』であり、このあたりは複雑だから大雑把に考えるとして、これら一帯はすべて『ロシア』と呼ぶことが多い。ロシアの原点はリューリクの作ったノヴゴロドだ。このリューリクの親族であるオレーグが、『キエフ・ルーシ』国家を成立。キエフ大公国の正式な国号が『ルーシ』で、ロマーノヴィチはその全ルーシの初の王だったのである。複雑である。
- 1233年:モンゴルに負ける
- 1237年:ドイツ騎士団に勝つ
- 1240年:モンゴルのルーシ侵攻がある(『フューリアス』の舞台)
今回は1250年頃、それから少したってからのロシアの歴史だ。今回もモンゴルのバトゥが絡んでいる。この時代のモンゴル帝国がどのようにして他国とやり取りをしたか、そして他国はモンゴル帝国に対してどのように接したかの大体のイメージを客観視できる。
ロシア
『安市城 グレート・バトル』
645年頃あった唐による高句麗侵攻を描く。日本ではちょうど大化の改新、つまり、中大兄皇子と中臣鎌足が起こした革命により、『天皇を中心とした集権国家づくり』が幕を開けた時だ。この時、朝鮮半島はまだ、
- 高句麗
- 新羅
- 百済
という3つの国があった。日本も『倭』であり、倭の国とこれらの国も密接なものだった。中国は唐。この時代の2代太宗(李世民)が、20万人とう圧倒的な規模で高句麗の安市城を襲った。果たして、この絶体絶命のピンチをどう切り抜けるのか。中国のような派手で無理のある演出がなければ、もっと歴史的価値のある映画となっただろう。
644年から668年まで計3次にわたって行われた、唐による高句麗への侵攻である。
実話、偉人(李世民)、ヤンマンチュン城主、小民族の、朝鮮
『ヘル・フロント 地獄の最前線』
イギリスの劇作家ロバート・C・シェリフが第1次世界大戦での実体験をもとにつづった「Journey’s End」が原作。第一次世界大戦というのは、例のあの洞窟のような、掘りのようなところ、つまり『塹壕(ざんごう)』で戦う塹壕戦がメインとなった。だからこの時代の映画のほとんどが塹壕戦を描く映像となっている。『西部戦線異常なし』、『1917』などが有名だが、例えば『戦火の馬』で、戦争の前線に行くことについてのやり取りがあるが、戦争の前線は字通り、『ヘルフロント(地獄の最前線)』なのである。
一般人が急に兵士として戦場に送られる中、そのほとんどの人の本音は『無事に家に帰りたい』というもの。『西部戦線異状なし』では、ある種のトランス状態のような目がギラついた兵士たちが戦争兵士に志願し、戦場に行くところからはじまる。だが、これらのどの映画でも、戦場に行ってそこを『良かった!興奮した!』と話す人間は一人もいなかった。
彼らもまた、その地獄のような戦場の最前線で、人生を見失っていた。
実話、第一次世界大戦、イギリスの歴史
『メンフィス・ベル』
第二次世界大戦中、イギリスに駐留しドイツに対する昼間爆撃を任務としていたアメリカ第8空軍所属の爆撃機B-17F、愛称”メンフィス・ベル”の若き乗組員たちを描いた作品。人物は実在しないが、この事実は存在する。
[B-17F 41-24485号機 メンフィス・ベルと乗組員]
この映画を通し、戦闘機の乗組員からの視点で戦争を考えたいということである。色々な戦争映画がある中で、この時代の戦闘機の中から描く作品は多くないので貴重な作品だ。だが、万人受けのエンタメ性があるかと言えば、やはりマニアックな部類に入ってしまうだろう。そこは一つ、最後のシーンで流れる『20万人が死亡した』というこの映画の根幹にあるメッセージを考えながら観ていきたい。
第二次世界大戦、アメリカ
『ディファイアンス』
第二次世界大戦時のナチス・ドイツ占領下でのポーランドにおけるビエルスキ兄弟を描く。ほとんどが実話だが、原作の小説『ディファイアンス ヒトラーと闘った3兄弟』の著者は特にエンディングのシーンには脚色として派手過ぎると感じたという。また、ビエルスキ兄弟が率いたユダヤ人組織に対する歴史的評価もポーランド内では分かれている。映画内では彼らを『モーセ』と合わせ見るシーンがあるが、反対に同じポーランド人から略奪することで生き延びた山賊集団と考えた人もいるようだ。
だがどちらにせよ、この時のユダヤ人と言えばナチスにやりたい放題される展開が多いので、彼らのように武力で抗った人間の話は珍しく、斬新である。斬新というのは映画でという意味で、これ自体は実話なのだからそこもまた興味深い。教訓性も高い。彼らがナチスに隠れながら森に住み、そこである種の小国家、あるいは小さな部族集団となるわけだが、その実態が非常に興味深いのである。
参考となる映画は『コロニア』、あるいは『ヴィレッジ』だ。下記の記事に書いた老子の小国寡民がキーワードである。
住民が少ない小さな国。国が乱れることなく治まる小国寡民が自然な姿だと老子は言った。
Inquiryで導き出したもの、導き出していくもの(下) | IQ. (a-inquiry.com)
リーダーが必要とされ、妊娠があり、未熟な人間の私利私欲が絡んで人が死ぬ事件もあった。これは『ヴィレッジ』で展開されたシナリオとかなり近いもので、私としても素晴らしい映画に出会えた気分だ。資料としても貴重である。
復讐、教訓、戦うユダヤ、実話、非凡
『ポンペイ』
紀元69年、これはローマ帝国で言うと暴君と言われたローマ皇帝ネロの時代(54~68年)である。
ベンハー | 0~30年 | アウグストゥス、ティベリウス時代 |
クォ・ヴァディス | 60年頃 | ネロ時代 |
第9軍団のワシ、テルマエ・ロマエ | 138年頃 | ハドリアヌス時代 |
グラディエーター | 180年頃 | アウレリウス時代 |
- ティトゥス79-81
- ドミティアヌス81-96
それからしばらくたち、79年となる。この時代のローマ皇帝はティトゥスだ。弟には暴君と呼ばれたドミティアヌスがいた。舞台はイタリアのナポリ地域であるポンペイ。62年2月5日、ポンペイを襲ったポンペイ地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。再建作業はされたが、不完全な状態で79年8月24日以降の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。
この絵はポンペイの想像図。つまり、想像の域を過ぎない。だからここで行われた人間ドラマが実際にあったということはない。人口は約1万人。天災で一度に死んでしまった人の数としては決して少なくないが、都市の規模としては小さく、中にはこの事実を疑う人もいた。だから『幻の古代都市ポンペイ』という名前が付けられるわけである。
ガリア(現在のフランス)に住むケルト人(ガリア人)の一部族であるフランスの最初の英雄ウェルキンゲトリクスは、カエサル率いるローマ軍に抵抗した。この時の記録が『ガリア戦記』である。このようにして当時のローマはその領土を拡大。帝国になってからはますます異国人たちを迫害していった。この映画の冒頭でもケルト人がローマ軍に迫害されるところからはじまる。
そして、物語全体の軸にローマ軍が存在することから、当時の状況を著しく改変しているということはなく、なるべく史実に沿って展開されていく。もしかしたらこういう物語があったかもしれない。そう思いを寄せながら、かつて確かにここで生きた人々のことを想う。
終わり(ローグワン)、災害、剣闘士(グラディエーター、スパるあtカス)
『勇者たちの戦場』
イラク戦争から帰還したアメリカ兵たちの、PTSDに苦悩する姿が描かれる。戦争のシーンは1割で、後のすべてはその後の兵士の精神面や、戦場に行かなかった人たちの心境などに焦点があてられる。例えば戦場に行った父と、行かなかった息子との会話で
父『大義の為だ』
子『石油のためだろ』
というものがあったり、行ったことで悩み続ける男の妻が、『待ち続ける人間の心境がわかるか』と言うシーンがある。戦争というのはそれだけで映画の題材に扱われやすい事実だ。それは、非日常的で映画で展開するに相応しい要素が盛りだくさんである事実もさることながら、歴史的な事実、そして、『決して闇に葬ってはいけない事実』として映画に残すべきだという大きな心の動きと人々のニーズがあるからである。
その中で、興行的に成功させるビジネスとしての側面も押さえながらではあるが、戦争という国家レベルの規模で行ったこの問題の、隅の隅まで目を配る必要性があるわけで、
- 戦闘機による空中戦闘
- 陸軍歩兵による前線での熾烈な戦い
- 海軍による海上戦闘
- 潜水艦による海中戦闘
- 諜報員の情報戦及びカウンターインテリジェンス(戦争が起きる前に未然に防ぐ活動)
- ジャングルでのゲリラ戦
等、様々な舞台に焦点を当てて切り取る必要があるわけだ。そこで活躍して死んだ人、生き残った人の数だけドラマがあり、遺族がいて、その人たちの人間ドラマがあり、それは決してないがしろにして目を反らしてはいけない心苦しい現実だからである。
PTSD、イラク戦争
『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』
ヴァンパイアの話は全く興味がないので、『トワイライト』なども全く観る気がないまま今に至っている。私の映画鑑賞の目的は、暇つぶしでも現実逃避でも、美女による癒しでもなく、自分の人生の糧だ。だからクオリティが低くてそっちが気になってしまうB級以下の映画や、無意味に人が死ぬホラー映画、このようにフィクションが分かり切った映画は観ないことにしている。だが、それはあくまでも初期設定で、見ればそこで展開される人間味のあるドラマに心が動かされることもあるのが常である。
今回の場合、トムクルーズとブラッドピットという二大スターの共演が観れるだけで十分という人も多いだろう。ファンではない私でも彼らが出ているだけで『画が持つ』と実感する。また、レジェンドオブメキシコのアントニオバンデラス、そして少女時代のキルスティンダンストも出演するので、映画俳優の歴史などを観るためにも貴重な作品である。
物語も、もしこれがヴァンパイアの話じゃなけく、AIだったり、ウイルスだったり、その時代で受け入れやすいヴィラン、例えばアベンジャーズと戦う宇宙人とか、そういう存在に置き換えて考えると身の毛がよだつシーンもあって面白い。
怪物、ドラキュラ(ZERO、ダークシャドウ)、豪華共演
『ハンバーガー・ヒル』
1969年、南ベトナムのアシャウ渓谷にある丘、ドン・アプ・ビア=通称“937高地”でアメリカ軍第101空挺師団と北ベトナム軍との間で繰り広げられた攻防戦「アパッチ・スノー作戦」を描いた作品で、詳細は事実ではなくても、この第101空挺師団や作戦、そして通称『ハンバーガーヒル』と呼ばれた戦場の丘などは実在したものである。兵士たちが次々と“ミンチ”にされていくほどの悲惨な戦況から、「この丘は俺たちをハンバーガーにしようとしている!!」と叫ぶ一人の兵士の台詞がこのタイトルの由来だ。
またこの映画のセリフにもう一つ『北ベトナム軍は訓練していて士気が高いから強い』 というものあるが、それは非常に重要なキーワードである。
- 北:ベトナム民主、ソ連、中国等
- 南:ベトナム共和、アメリカ、フランス等
実は、日清戦争で日本が中国に勝てた理由は、主体性である。本来、日本と清の能力はほぼ互角だった。武器の技術や装備、人数などに差はなかった。それなのに勝った理由は、日本に主体性があったからである。 李鴻章(りこうしょう)は西洋諸国の技術に感心し、『洋務運動』という近代化運動を行い、兵器工場の建設や鉱山の開発などを通じて、富国強兵を進めた。つまり、李鴻章ら清も、『洋務運動』という近代化運動をし、富国強兵を進めていたはずなのである。それなのに、なぜ日本だけが富国強兵に成功した形になってしまっているのか。実は、日清の軍事力は、同等だったのだ。それは紛れもなく、この洋務運動のおかげだった。
だが、この洋務運動には他の側面もあって、強い独裁政権を持つ皇帝のもと、官僚が一方的に国民を支配する体制が築かれ、『反応的』な兵士を集める結果になってしまったのだ。反応的とは、主体的の対義語。つまり、『何かに反応して初めて動く人』のことである。例えば、スティーブン・R・コヴィーは、著書『7つの習慣』で『主体者』と『反応者』の違いをこう断言している。
『率先力を発揮する人としない人との間には、天と地ほどの開きがある。それは、25%や50%の差ではなく、実に5000%以上の効果性の差になるのだ。』
もちろん日本軍全員に主体性があったわけではないだろうが、しかしそこにあったのは確実にこの主体性の違いだった。スティーブン・R・コヴィーが言うように、反応的な人間と主体的な人間の間には、雲泥の差が開くのである。それが日清戦争にも影響してしまったということなのである。
事実、このベトナム戦争も北ベトナムが勝った。アメリカのいる南ベトナムが負けたことには、こうした映画から見ることができる戦争への主体性の損失が関係しているかもしれない。
ベトナム戦争、ラジオが聴こえる(Gベトナム)、あの丘を取れ(二百三高地、父親たち)ベトナムまとめ
1964トンキン湾
1965Gベトナム
1966カジュアリティ
1967プラトーン
1967、687月4日
1969ハンバーガーヒル
『エネミーライン』
ボスニアヘルツェゴビナのセルビア人武装勢力により撃墜された戦闘機WSO(兵器管制士官)の逃走劇をメインとする。1992年から起きた旧ユーゴスラビアの民族紛争がシンシナティ協定により、ボスニアの停戦合意が実現。戦闘の鎮静化に伴いNATO軍が撤退を始め、米海軍空母カール・ヴィンソンはアドリア海上で不測の事態に備えていた。この民族紛争とNATO軍の介入や撤退についての動きは実際にあった話である。
この話が実話かどうかが明言されないが、wikipediaで調べるとこうあった。
物語の基盤は、1995年7月22日撃墜された米空軍F-16Cパイロットスコット・F・オグレディ大尉が友軍に救出されるまでの6日間の逃亡劇とする説があり、当人自身も退役の翌2002年に主人公のモデルに無許可での映画化であると主張して製作会社に対し提訴した。1994年に撃墜され脱出した英国海軍FRS Mk.1シー・ハリアーパイロットニック・リチャードソン大尉や、湾岸戦争帰りの元英国空軍ナビゲーターで作家のジョン・ニコールの作品とも類似するといわれる。
どうやら2つの実在した事実を基にして作られ、この映画の売り上げがハリーポッターに次いで全米2位となったことで、そこからお金を得ようという当人たちの動きがあったという、裏話もあるようだ。ただ、どうかこういう裏話は気にせずに映画で展開されるシリアスで緊張感ある展開だけに注目したい。旧ユーゴスラビアの民族紛争という歴史と共に国家間における緊迫した関係などを実感でき、見応えがある。
その見応えはこの映画の売り上げや、『エネミー・ライン2 -北朝鮮への潜入-』という本作とは無関係の二番煎じ映画が出ていることからもよくわかるはずだ。
トリアージ(救出しない、ロンサバ、ブレイブ、ゴンべビ)、逃げきれ(大いなる幻影、アルゴ、テルマ)救出(ブリッジオブスパイ)
『カジュアリティーズ』
ベトナム戦争の戦場で1966年に起きた「兵士による少女強姦」事件を、戦場に於ける犯罪を告発した退役兵士の回想として描かれる。この映画の存在を今まで一切知らなかったことから、=大したことがない映画として片づけてしまっていたが、とんでもない。どこかのランキングにもなく、観るべき100作品の中にもないが、真実を描いた話ということもあり、同じベトナム戦争が舞台の『プラトーン』と並び、緊迫のベトナム戦争の戦地を想像できる貴重な映画である。
両作品とも悪役の演技が素晴らしい。今回はショーン・ペンだ。彼が見事にこの話を引っ掻き回してくれている。『BTTF』のイメージが世界中に焼き付いているマイケルJフォックスも、そのパブリックイメージ通りの『心底に信念がある心優しき青年』を軸にするも、BTTFとはまた違う人物をしっかりと演じ切り、展開が読めない物語を全員で織りなすことに成功している。
私も人に怒り狂った時、『戦争になったらあいつをどさくさに紛れて殺す』と言うのだが、それは半分以上冗談である。だが、その『架空の予定』を入れることでアンガーマネジメントとなるので、血気盛んな時代を生きた私からすれば、少し暴力的に見えてもそれで心が落ち着くのである。実際にそうするわけでもないのだから。
だがどうだ。この場合は実際の戦場である。そうなると人間はどうなる。ここで冷静に記事を書いて論理的でクレバーな人間ぶる私はどうなってしまう。そんなことを一つ頭の隅に起きながら、実際にあった戦場での悲劇を見ていく。
ベトナム戦争、アメリカ、実話、衝撃、豪華共演、クライマックスの戦闘シーンは『戦場にかける橋』で有名なクウェー川鉄橋で撮影
『ザ・ヘラクレス』
ドウェインジョンソンが演じた『ヘラクレス』も観たが、世界の神話にスポットライトを当てた映画としてヘラクレスはとても重要な位置にいるので、色々な角度から見ても損はない。それが鑑賞理由だ。実際、前者の方は『実際には凡人』という描写だが、今回の場合は更に神話的に展開されていく。しかし人間として心がエグられる深刻なシーンも多々あり、人間としての葛藤が描かれるため、半神半人の英雄の中でも最大の存在であるヘラクレスの描写としては、相応に見えるだろう。
この映画で描かれるヘラクレスと、ブラッドピットの『トロイ』で描かれるアキレウスは、その二人を祖に持つとされるアレキサンダー大王へと繋がる。ではこの世界の覇権の推移を見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
『帝国』とは、異国を支配下に置いていき拡大していく集合体で、世界初の抵抗は現在イラク地方であるアッシリアだった。だが、初めて世界規模の広大な帝国を作ったのがアレキサンダー大王である。その後、アレキサンダーによってエジプトにアレクサンドロスが紀元前332年に建設された。アレクサンドロスの死後は、その部下だったプトレマイオス1世がエジプトを支配し、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝の首都として発展した。そのプトレマイオス朝最後のファラオ(女王)があのクレオパトラである。
そしてクレオパトラは次の世界の支配者ローマの中心人物、カエサルとマルクス・アントニウスと関係を持つ。そしてカエサルが死に、クレオパトラらも死ぬと、アウグストゥスがローマを継ぎ、『ローマ帝国(帝政ローマ)』が誕生するのである。
もちろんヘラクレスやアキレウス、ゼウスなどはすべてギリシャ神話の人物だが、そうした神話の神の子孫として権力を持ち、この世界の形に大きく影響を与え続けた歴代の偉人たちの歴史を考えると、彼らの話を知る時間というのは有益なのだ。
面白いのが、この紀元前1200年というのは、『エクソダス神と王』でモーセとラムセス2世が描かれる時代とほぼ同時代ということである。エジプトにもエジプト神話があり、その中からユダヤ教という新しい神話・宗教が誕生したが、ラムセス2世は実在した可能性が極めて高く、そこで行われて映画でも描かれる、世界初の公式な戦争『カデシュの戦い(1286年頃)』も実在したことから、神話と現実が混ざり合っているということだ。
ギリシャ
『ゴースト/ニューヨークの幻』
30年前の映画としては、現在に至るまで常にその価値を落とさない。その理由は、この作品が普遍的かつ不変的なテーマを軸にしていて、音楽、キャラ、展開そのすべてに隙が無いからだろう。きっとリアルタイムで映画館で観ていたら大きく心が揺り動かされたはずだ。子供の頃見た時は『ろくろが回る』とかその程度の断片的なシーンしか焼き付かなかったが、それでもあの音楽は耳に焼き付いた。
大人になってある意味初めてこの映画を観ると、やはり他と比べても卓越している名作だとうなづくことができた。死んだ人間の霊という現実離れした展開なのに、視聴者の心は離れず、むしろその心を掴んで離さない。そういう魅力が、この映画にはあるのだ。
音楽、復讐、純愛
『ヤングガン』
後世に弱きを助け強きをくじく義賊として創作で伝説的に描かれたことで、西部劇の英雄となるビリーザキッドが登場する。西部開拓時代のアウトローの代表的な名前である。1878年、リンカーン群戦争が起き、そこには実際に彼の姿があった。そこを舞台にして切り取った映画である。だがここで描かれる彼は正当化されておらず、『アウトローとして歴史に名を刻む』だけの勢いのある、危険な男だった。
彼の名はよく映画に出てくるので、アメリカ映画を観ることが多いなら知っておいて損はないだろう。
実話、非凡、アメリカ(リンカーン群戦争)
『パシフィック・ウォー』
『パシフィック・ウォー』とは、太平洋戦争のこと。これは第二次世界大戦の一部だ。米国領ハワイ諸島への真珠湾攻撃で開戦し、日本はアメリカ、イギリス等の連合軍とこのエリアで戦争を始めることになる。その末期に、戦争終結の極秘任務を命じられたアメリカ海軍の巡洋艦インディアナポリスとその艦長チャールズ・B・マクベイ3世という人物が遂行する『極秘ミッション』があった。
彼らはテニアン島への任務が終わり、次の任務を遂行する途中で、日本海軍の伊号第五十八潜水艦により雷撃を受け、インディアナポリスは沈没してしまう。このあたりの話はネタバレ関係なく先に見ておいた方がいいだろう。だが、この後彼らがどうなったのか、そして、その『極秘ミッション』とは一体何だったのか、日本とアメリカにはもちろん、世界規模で考えても重要なミッションだったその真相を見よ。
極秘任務(1917、レッドオクトーバー、ミュンヘン、シークレットマン)、日本、アメリカ、漂流(インドのやつ、白鯨)神はいない
『聖なる嘘つき/その名はジェイコブ』
時は第二次世界大戦中のポーランド。ナチスの占領下であり、ユダヤ人居住区「ゲットー」に住んでいる元パン職人のジェイコブが戦場に生きる人々にかすかな希望の光を照らす。だが、その照らした光は過大評価される。長い間闇だった場所に光が照らされれば誰もが『神の救いが来た』と思うだろう。その闇の深さが深いほどそうなる。だが同時に、光が人間に生きる希望を見出すことも事実だ。いくつかの例を見てみよう。
『ストックデールの逆説』とは、壮絶な拷問生活を耐え抜いたアメリカの将軍、ストックデールが、その地獄のような経験をしている最中、抱いていた『希望』と『絶望』の両面のことを言う。ストックデールは、最悪の拷問生活の中、『最後には絶対に釈放されて、平穏な暮らしを取り戻している自分』と、『今よりももっと劣悪な状況に陥った自分』の、両面を想像していた。この時なぜ彼が『希望だけ』を想像しなかったかというと、檻の中にいる仲間たちが、
きっとクリスマスには出られる
きっと次の復活祭や年末年始には釈放される
といった根拠のない期待を抱き、見事にその期待を裏切られつづけて衰弱死したことから、『最初からそういう根拠のない淡い期待を持つのではなく、そうあることもあるだろうし、そうなることもあるだろう』という決定的な現実にだけ目を向ければ、期待は永遠に裏切られないわけだ。『いつかは出られる』のだから、その可能性だけを強く意識することにより、中で自決したり、衰弱死するリスクから逃れることができるのである。
また、ナチスの強制収容所に収監され、人間の想像を絶する3年間を過ごしたドイツの心理学者、ヴィクトール・E・フランクルのの著書、『夜と霧』にはこうある。
収容所の芸術
ともあれ、時には演芸会のようなものが開かれることがあった。居住棟が一棟、とりあえず片付けられて、気のベンチが運び込まれ、あるいはこしらえられて、演目が案配される。夕方には、収容所でいい待遇を受けている連中、たとえばカポーや、所外労働のために外に出ていかなくてもいい所内労働者が集まってくる。いっとき笑い、あるいは泣いて、いっとき何かを忘れる為に。
(中略)実際、こうしたことは有用なのだ。きわめて有用なので、特別待遇とは縁のないふつうの被収容者のなかにも、日中の疲れもいとわずに収容者演芸会にやってくる者がいた。それと引き換えに、その日のスープにありつけなくなってさえ。
『根拠のない淡い期待を持つ』ことは危険である。だがそれも含めた希望とは、人間に生きる喜びと生き抜く力を与える。このような話を知っていれば、ジェイコブがやった行動、そしてこの話が何回層も深くなることを知るだろう。
ユダヤ人、闇に希望を与える人(パッチアダムス、グッドモーニングベトナム)
『ディバイナー 戦禍に光を求めて』
第一次世界大戦中のガリポリの戦い、および希土戦争(きとせんそう、1919年 – 1922年)の様子を描いている。希土戦争とは、第一次世界大戦後にギリシャ王国とトルコの間に生じた戦争で、ギリシャ軍がムスタファ・ケマル・パシャ率いるトルコ軍に敗北し、セーヴル条約で得た領土を失い、現在のギリシャ領がほぼ確定した。
この戦争時代を背景に、父と子の再会を描く。原題の(The Water Diviner)は、水脈を探し当てる職人という意味。主人公の男は農夫でもあり、冒頭でまず水脈を見つけて井戸を作る仕事から始まるので、いきなりその意味がわかる。そしてその後、実に3700万人の人が亡くなり、800万人の人が行方不明で終わった第一次世界大戦の死者を見つけるミッションにその特技が役立つ。この意味でも、ウォーター・ディバイナーの男が活躍する物語として成立するわけだ。
だが、彼の場合はその見つける死体が普通の相手ではないこと、そして自分の家族が迎えた凄惨な現実が悲惨であることが異例である。更に、『ディバイナー』というのは『占い師』という意味にもなる。実は、そのキーワードもこの話のカギとなっていくのである。
オスマン帝国の歴史、監督ラッセル
『第九軍団のワシ』
時は120~140年のローマ。この時代のローマ帝国の状況や該当する映画を観てみよう。
ベンハー | 0~30年 | アウグストゥス、ティベリウス時代 |
クォ・ヴァディス | 60年頃 | ネロ時代 |
第9軍団のワシ、テルマエ・ロマエ | 138年頃 | ハドリアヌス時代 |
グラディエーター | 180年頃 | アウレリウス時代 |
このアウレリウスが五賢帝時代で、その後にペルシャと戦う『軍人皇帝時代』がある。その時の皇帝が『クォ・ヴァディス』で描かれる暴君ネロよりもあくどいことをしたかもしれないカラカラ。またウァレリアヌスという不幸な皇帝がいた。
とにかく今回は、ハドリアヌス時代だ。現在イギリスとなっているブリタニアの平定にいくため、ローマの兵士としてその地を訪れる。彼にとってその行為は、別の意味もあった。彼は20年前に父親が率いていた第九軍団が消息を絶ち、軍団の象徴「ワシの黄金像」の行方が分からなくなっていたことから、一家の名誉を挽回するためにブリテンへとやって来たのだった。
果たして、彼がそこで見た真実とは。
ローマ、二人旅
『フューリアス 双剣の戦士』
まず、この手の歴史映画はマイナー扱いされるのか、邦題はゲームのタイトルのようになるのが相場だ。『ヴァイキング・サーガ』とか、『バタリオン ロシア婦人決死隊VSドイツ軍』とか、何かと格好いいっぽいゲームタイトル、あるいは少年漫画にバトルが求められるように、その要素を前面に押し出すことが多い。『ドラゴンボール』も、鳥山明は最初もっとアドベンチャー要素の漫画を描きたかった。だから最初は『Dr.スランプ』からの流れでギャグな描写も多かった。だが、少年ジャンプの需要に応えなければならず、バトル要素のある漫画へと切り替わっていった。今、彼があの漫画の続きをもう描かなくなったのは、最初から別に描きたくなかったという本音が存在するからなのかもしれない。
そうした目線を一つ持っておくとこの手の映画に強くなる。つまり、過信しないようになるわけだ。バトルよりも歴史的な会話のシーンが多くても不思議ではないと感じるようになり、『思い込みによる不一致』が生じず、映画に対する評価も低くなくなる。だが、『ロシア史に残る伝説の戦い「バトゥのリャザン襲撃の物語」をモチーフに描かれる、強大なモンゴル帝国軍にたった1人で立ち向かったロシア最強の剣士コロヴラートの、爽快なソードアクション』という広告では、誰もが無双ゲームのようなイメージを思い浮かべてしまうだろう。
時は13世紀(1237年)のロシア。当時の世界を制覇していたのはモンゴル帝国だ。
ヨーロッパの覇権の推移
ロシアという名前はないので『ウラジーミルスーズダリ大公国』となる。その大公であるユーリー2世は、モンゴル帝国のバトゥ軍に圧迫されていた。モンゴル帝国の創始者チンギス・ハンの長男であるジュチ。この男の次男がバトゥである。
果たして、当時世界最強を誇ったモンゴル帝国の莫大なエネルギーに、この剣士がどこまで通用するか。それが一つの見ものである。また、それよりも重要なのがこうして動画配信サービスで世界の映画が簡単に観れるようになり、歴史映画として紹介すべき映画の空白が埋められるようになったことである。モンゴル帝国時代やロシアの歴史を描く映画がほとんどなかったので、歴史ファンとしては今後が楽しみだ。私は別にファンではないが、人間として堂々と生きていくために欠かせない要素なので、有難い。
『卒業白書』
やはり現在生き残っている俳優というのは実力があるのだろうか。1983年の映画でも、最後まで見応えがあるのだ。『画が持つ』というやつなのだろうか。他方、今生き残っていない、現代人があまり知らないような俳優が出ている昔の映画を観ても、展開が面白くなく、ただ会話しているだけの日常風景が流れる場合、見る気が失せてしまう。これが名優の実力なのだろうか。
21歳の若いトムクルーズ観れるということでファンにとっては嬉しいだろう。現在の彼を知る人からすれば、『7月4日に生まれて』と合わせてこの映画は彼の意外な一面、あるいはスターではない彼の時代を見ることができる。『エージェント』も彼が一般人を描いていることが売りだが、それよりもこっちの2つだろう。彼にもこういう役をやった時代があるんだ、と感じることができる。『マグノリア』などもそれに含まれるかもしれない。まだ私も彼の9割ほどしか観ていないのだが。
当時、彼のダンスがある種のブームを呼んだということも考えると、『フットルース(1984年)、『フラッシュダンス(1983年)』という同時代にあった映画との共通点も見えてくる。まさにこの時代は日本で『バブル』が発生し、『お立ち台』で女性が踊り狂い、1万円札を手に取ってタクシーを止める時代があった。
バブル崩壊後の1990年代初頭から2000年代初頭までの経済低迷期間を指して「失われた10年」と呼ばれていたが、サブプライムローン問題をきっかけに世界金融危機へ発展し、世界同時不況へと陥る。バブル崩壊後から10年以上が経っても、経済の低迷が完全に改善されなかったとされた。
10代ヤンチャ、乱れる性、親がいないとこうなる(ホムアロ
『スリー・キングス』
この作品と同時に同監督によるイラク戦争のドキュメンタリー映画『Soldier’s Pay』の再DVDリリースが予定されていたが、作品の政治性が高いことで、それは中止されたという。だが、この映画なら大丈夫だということだ。ドキュメンタリー映画と違ってエンタメ性を求められる映画でメッセージを伝えるためには、『ド派手なエンターテインメントの裏に存在する確かで危険な事実』という状態にしてパック詰めしなければならない。ユダヤ教の創始者を描いた『エクソダス神と王』も、当人たちから批判を受けた。何かを描くときは偏っていてはいけないのである。偏ると、もう一方の方向にいる人達が必ず批判してくる。その意見の相違での興奮が沸点を迎えた時に起こるのがテロや戦争である。
例えばキリスト教徒が9割のアメリカで、アメリカ人がイスラム教の創始者ムハンマドを『いじって』暴言を吐き、彼の尊厳を著しく侮辱する行為をyoutubeに上げると、イスラム過激派が激怒。現地にいたアメリカの要人が殺される事態に発展してしまった。この映画は監督が反戦意識の高い人間であることから、そのような事態が起きたわけだ。1990年頃にあった湾岸戦争。そして、DVDの時は2003年にあったイラク戦争に対する反戦行為として、この映画の再上映と、ドキュメンタリー映画のレンタルの動きがあったのである。
この映画の表面に浮かばせるエンタメ性はこうだ。捕虜から得た謎の地図をフセインの隠した金塊の在り処だという事を解読し、軍の指揮下を離れ、無断でそれを強奪することを計画し、実行する。こういう『お宝ゲット』の表層であれば、CMも打ちやすく幅広い人に訴求しやすい。ポップコーンとコーラを片手に、友人や恋人と上映ギリギリまで『映画以外の話』をヘラヘラ笑いながらするような人たちにも届くはずだ。
湾岸戦争は、オイルの安定の為に介入した?イラク戦争は、大量破壊兵器があると言ったけど本当はなかった?かつて、ベトナム戦争介入の端緒となった『トンキン湾事件』もアメリカの捏造だった。これがアメリカだ。だが逆に、彼らが死守して成り立つこの世界の近郊は、彼らが転落したのち、一体どうなってしまうのだろうか。
ヨーロッパの覇権の推移
そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。
17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国
次に来るのは『ロシア』と『中国』の可能性があるとも言われている。アメリカの国力に陰りが見え始め、それを好機と見たロシアを筆頭とした水面下で力を蓄えていた勢力は、台頭し始めるだろう。アメリカ一強(パクス・アメリカーナ)の時代が終わった時、世界はどう変わるのか。我々は、彼ら世界のトップがこうも躍起になってしがみつく地位の脆弱さを傍観しながら、次の未来を見る。いや、ほとんどの人はそうではなく、ただ現在を生きるだけにとどまっているだろう。
お宝(ハードラッシュ、ミケランジェロ、ネイビーシールズ、アデーレ)
『マリー・アントワネットに別れをつげて』
『王妃マリー・アントワネット』では、1785年にあった『首飾り事件』が描かれる。王室御用達の宝石商ベーマーから160万リーブル(金塊1t程度に相当する)の首飾りをロアン枢機卿に買わせ、それを王妃マリー・アントワネットに渡すと偽って騙し取った典型的な詐欺事件で、それに引っ掛かったことも彼女が信頼を失くしたことに繋がった。
今回は『ヴァレンヌ逃亡』という事件にスポットライトを当てる。当時のフランスは、絶対王政の時代。度重なる対外戦争や宮廷の浪費がフランスの財政を大きく圧迫し、そのしわ寄せが国民の多数を占める第三身分の『平民』に来ていた。マリー・アントワネットは、革命が起こったとき、なんと『愛人』のフェルセンの力を借りて、一家でオーストリアを目指して逃亡する。しかし、国境近くのヴァレンヌで捕まってしまう。これが『ヴァレンヌ逃亡事件』である。
[ヴァレンヌからパリへ連れ戻される国王一家(1791年6月25日)]
この事件が更に民衆の怒りを買うことになってしまった。革命が起きた当初は、別に国民は王を処刑するほど恨んではいなかったのだが、このような事件を通し、徐々に雲行きが怪しくなっていくのである。
今回、彼女の朗読係から見た視点で描かれるため、賛否両論が常に分かれる彼女の評価をより客観的に見ることができるのかもしれない。フランスでは彼女は『誤解されている』ということを言っている人もいるし、史実で考えるとどうしても『無知な浪費家』としか映らない。その辺りの真実を、色々な映画の色々な角度から見ることは重要な歴史探索になる。
実話、フランス、女性、偉人
『ヴェルサイユの宮廷庭師』
1682年のフランスに、現在、Wikipediaにも載っていないサビーヌ・ド・バラという庭師がいた。当時の王はルイ14世だ。ルイ14世というのは表向きには『太陽王』とも称されるほどの人物で、ヴェルサイユ宮殿を作ったことでも有名。今回は彼の『王たる一面』にスポットライトを当てて作られている為、彼が悪人としては描かれることはない。内容としても、彼のような『雲の上に存在』にいる人間から白羽の矢を立てられた軽いシンデレラストーリーのような話だから、主人公は庭師だ。そしてシンデレラと違うのは彼女がすでに『母親』としての立場にあるということ。だが、どうもその『母親』としての立場の雲行きがおかしい。彼女には複雑な事情があるようだ。
さてルイ14世だが、実はヴェルサイユ宮殿を作ったのは少し無理があった。当時の財務総監のコルベールが行った『重商主義』は絶対王政に大きな貢献をした。この体制を維持するためには、巨額の資金がいる。そこで、国家を富ませるために、外国製品の購入を制限し、国内生産力を伸ばそうとして国力を上げたのだ。金、銀、貴金属等の獲得と貯蔵と同時に、輸出を促進して貿易収支を黒字にする。すると、国内におのずとリソース(資金、財源)が蓄積されるわけだ。
また、領土拡大にも力を入れて、54年の親政の内の実に34年を戦争に費やした。植民地の獲得をして領土を増やせば、国内に流入するリソースが増え、そうした体制を維持、拡大することができるという寸法である。そして、20年の時間をかけてヴェルサイユ宮殿を造営し、1682年、宮廷をパリから移した。『太陽王』にふさわしい華やかな人生を送ったが、晩年は奢侈(しゃし)や戦費がかさんで国庫は激減し、衰退していった。そういう背景がこの物語の裏にあるのだ。
[ヴェルサイユ宮殿(1668年)]
実話、女性、芸、子の死、フランスの
『ロシアン・スナイパー』
第二次世界大戦中に計309人のナチス・ドイツ兵を射殺し、“死の女”と恐れられたソ連の女性狙撃手リュドミラ・パヴリチェンコが主人公となる。恐らく、当時を知る人には怖いキーワードだっただろう。エレノア・ルーズヴェルトという人格者が出てくるのも貴重だ。彼女の言葉で私が好きな言葉がある。
17歳の時に出会って今に至るまで、私の心底で支えとなってくれている言葉だ。アメリカの大統領の妻という立場でもある彼女の考え方は、こんな言葉を見ても伝わってくる。
これがエレノア・ルーズヴェルトだ。したがって、ソ連人であるリュドミラと対峙した時、彼女にはその人間関係に何の距離も感じていなかった。感じていたのはソ連側だった。彼女にあまり近づいてはならない。その時からすでに冷戦の前哨戦は始まっていたのだ。1945年の8月に日本に原爆が落とされたのは、『ソ連が日本を支配地にする前に、いち早くアメリカが制覇しなければならない』という事情があったから。ソ連に日本を取られたら、地理的にソ連側が優位性を得てしまうので、アメリカがそれを阻止するため、やむを得ず原爆を落として時短に走ったのである。
当時を知る人からすれば恐怖の女。だが、エレノア・ルーズヴェルトは見抜いていたようだ。彼女が一人の女性にすぎないということを。
- クリミアの戦い (1941年-1942年)
- オデッサの戦い (1941年)
女性、スナイパー、偉人、非凡、シンボル扱い(スタグラ
『ドローン・オブ・ウォー』
2010年頃、ドローンを使って汗一つかかずにアフガニスタンにいる人間に甚大な被害を与えるミッションをこなしている男たちがいた。これは、そうした事実を基にした映画だ。たしかに、9.11以来どんな手を使ってもテロを未然に防ぎたいし、そのテロリストたちを根元から完全に根絶したいと考えるのは無理はない。誰もが防衛の責任者にいる人間であればそう考えるだろう。それ以外の9.9割の一般人は意見を持っているだろうが、責任者は0.1割だ。ガヤが何を言うのは自由。だが、内部にいる人間が何をするかで全ては決まってしまう。
だからグアンタナモ基地等を筆頭に、怪しいと感じた者は手当たり次第に捕まえて監禁し、決めつけて自白を強要し、少しでもテロリストとつながりがあれば『だから言ったんだ』として強引に正当化。もはや、そこまでしないと根絶はできないという証拠だ。だからドローンを使っても何をしても、怪しい者がいたら『前始末』しなければならない。
だが、実際にその現場を務める人間の心境はどうか。まるでゲームのように画面に映る映像を見て、流れが来たらボタンを押して爆破。一部の精神未熟なゲーマーなら目をギラギラさせて興奮しながらそれを『楽しむ』だろう。だが、彼が葛藤するのは彼が『人間』だからだ。人間を守りたいと思ったのは、彼が『人間』だからだ。その『人間』たる彼の心底が、そのミッションを否定し始めた。
様々な戦場(トップガン、黙示録、フューリー、ダンケルク、スナイパー、ジャーヘッド)
『危険なメソッド』
この映画も評価は低いがマイケル・ファスベンダー、ヴィゴ・モーテンセン、キーラ・ナイトレイ出演という豪華共演、また、実在した偉人フロイトや、ユングが登場する映画というだけで、私は別に内容がどうであれ歴史的価値があるとして価値を高く評価したい。ただもちろん歴史に一切の興味がなく、物語の展開だけに期待したい人は評価を低くしてしまうかもしれない。
ただ、キーラナイトレイの体を張った演技は評価に値する。彼女が演じたザビーナ・シュピールラインもロシアの精神分析医である。ユングとフロイトの関係と確執、彼ら精神を専門とする偉人たちの間で交わされるワンランク上のやり取りは、一見すると何をやっているのか分からない、あるいは普通に『逸れる人』が描写されるが、実際にはそこで行われている『危険なメソッド(不倫関係)』も分析の対象となる『実験』の中の一部になることを考えると、ただドロドロと関係が崩れて終わっていくその他のドラマとは違い、論理的である。
しかしそれは結果論で、彼らほどの人物であっても自分が『堕ちていく』ことは止められないし、自己防衛による自己の正当化、あるいは捏造、隠ぺいを図ろうとするという弱さを持っているということが見え、彼らに人間味を感じて逆に親近感を覚えることができるだろう。
偉人、実話、1904、精神、天才、スターのど外し(ペーパーボーイズ、7月4日、マグノリア、夜になるまえに、ダーティグランパ、モンスター)
『エル・シド』
11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族エル・シドことロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar)の生涯を描いた作品。主演を務めるのは『ベン・ハー』でベン・ハー役を演じたチャールトン・ヘストンで、それを考えるといくつかの想像ができて面白い。例えば、『あれから1050年後』というシナリオだ。全く同じ顔の生まれ変わったベン・ハーが、今度はスペイン人かつキリスト教を守る信者として生まれる。そういう見方も面白い。
1080年頃の当時、スペインやポルトガルがあるイベリア半島では『レコンキスタ』という複数のキリスト教国家による再征服活動が行われていた。つまり、イスラム教の勢いが上がってきたので、キリスト教がそれを鎮めるというものだ。ローマ帝国で十字軍が誕生し、第一回の遠征が行われるのが1095年だから、この時代のすぐ後になる。そこから更に十字軍(キリスト教)とイスラム教の長い対決が始まっていく。
- 1066年:ノルマンコンクェスト
- 1077年:カノッサの屈辱
- 1080年:エル・シドの舞台
- 1095年:第一回十字軍遠征(エルサレム占領)
- 1187年:サラディン時代
- 1192年:武士支配(鎌倉幕府)
コンクェストというのは『征服』という意味だ。ノルマン人が現在イギリスがあるブリテン島に乗り込み、それを支配して征服。それまでアングロサクソン人が支配していたその地をノルマン人のウィリアム1世などが筆頭となり征服。この時開いたノルマン王朝が、イングランド王家の始まりとなり、その血筋は現在のエリザベス女王の王室まで続いているのである。そう考えるとこの事件がどれだけ大きなものかがわかる。
またカノッサの屈辱というのも歴史的に重要な場面だ。これによってローマ皇帝はローマ教皇『よりも格下』だと認識されてしまった。神聖ローマ皇帝(ハインリヒ4世)がローマ教皇(グレゴリウス7世)に波紋されて権力を失い、裸足で3日間も立ち尽くして謝罪した事件。この事件によって、ローマ教皇の権力がどれほどのものかということが世に知れ渡ることになってしまった。グレゴリウス7世は、ウルバヌス2世にローマ教皇の座を引き継ぎ、1095年に『十字軍の遠征』を命じる。ローマ教皇が帝国の舵を握るほどの権力を持ち始めたことで、十字軍遠征が生まれた可能性があるのだ。
舞台はちょうどその間のイベリア半島におけるレコンキスタの流れ。エル・シドをはじめ、当時実在した王国や国王たちが登場することもあり、歴史的に貴重な作品だ。
神VS神(アラーVSエル・シド、エクソダス、キングダムオブヘブン、ヴァイキング・サーガ(キリストオーディン)ベンハーセット(その1000年後、クリスチャン的人格者)戦場で抜きんでた猛者(得る志度、ふゅーりあす、ロシアンスナイパー、スターリングラード、レッドクリフ、アメスナ、レオニダス)リーダー(ナポレオン、ヒトラー、カエサル、ウェルキンゲトリクス、ブレイブハート、レッドクリフ、項羽と劉邦、ハンニバル、チャーチル)