1843作品1860
目次
- 2020年
- 『クォ・ヴァディス』
- 『ヒトラー暗殺、13分の誤算』
- 『誰が為に鐘は鳴る』
- 『涙するまで生きる』
- 『ヴァイキング・サーガ』
- 『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』
- 『太陽の帝国』
- 『ラストベガス』
- 『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』
- 『ドリームガールズ』
- 『ドンファン』
- 『ローズの秘密の頁』
- 『ニック・オブ・タイム』
- 『パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー』
- 『いまを生きる』
- 『グッドモーニング, ベトナム』
- 『アリー/ スター誕生』
- 『Love, サイモン 17歳の告白』
- 『60セカンズ』
- 『6デイズ/7ナイツ』
- 『チャーリー・セズ/マンソンの女たち』
- 『白鯨との闘い』
- 『不都合な真実、2』
- 『ベルリン・天使の詩』
- 『乱』
- 『ブレージングサドル』
- 『ベニスに死す』
- 『告白』
- 『余命1ヶ月の花嫁』
- 『招かれざる客』
- 『アルジェの戦い』
- 『パットン大戦車軍団』
- 『突撃』
- 『続・夕陽のガンマン』
- 『続・荒野の用心棒』
- 『夕陽のガンマン』
- 『ブレイド2、3』
- 『マッドマックス2,3』
- 『炎のランナー』
- 『恋人たちの予感』
- 『オール・ザット・ジャズ』
- 『NINE』
- 『ムーラン・ルージュ』
- 『グリース』
- ファントム・オブ・パラダイス』
- 『ウエスト・サイド物語』
- 『叫びとささやき』
2020年
『クォ・ヴァディス』
ノーベル文学賞作家のヘンリク・シェンキェヴィチの同名小説『クォ・ヴァディス』を描く。『ベン・ハー』の時代から少し経ってからローマ皇帝が暴君と言われたネロになってからの時代だ。したがってこの話の軸となる人物はネロ、そしてイエスの後を継ぐキリスト教のトップ2の一人、ペテロということになる。暴君ネロはキリスト教徒を迫害したことで有名だから、キリスト教の話がここでも主軸となってくる。
ベンハー | 0~30年 | キリスト教VSユダヤ教 |
クォ・ヴァディス | 60年頃 | キリスト教VSローマ帝国 |
第9軍団のワシ、テルマエ・ロマエ | 138年頃 | ハドリアヌス時代 |
グラディエーター | 180年頃 | アウレリウス時代 |
このアウレリウスが五賢帝時代で、その後にペルシャと戦う『軍人皇帝時代』がある。その時の皇帝がネロよりもあくどいことをしたかもしれないカラカラ。またウァレリアヌスという不幸な皇帝もいる。更に見ていこう。
ディオクレティアヌス | 280年頃 | ローマ皇帝を神と定める |
コンスタンティヌス | 330年頃 | ミラノ勅令を発令 |
テオドシウス | 380年頃 | キリスト教を国教に定める |
このテオドシウス時代の時に北アフリカのエジプトはアレクサンドリアに『ヒュパティア』という天文学者がいた。彼女を描いた『アレクサンドリア』という映画は、数多く見た鑑賞映画の中でも教訓編の1位に君臨するほどの内容だった。
そこには、このローマ帝国の流れが大きく関連している。このような時代の流れがあってローマ帝国の国教がキリスト教になり、それが世界に普及していき、この世界でキリスト教が圧倒的なシェアを広げるに至った。そしてそれが後に1000年間続いた『暗黒時代』と言われるキリスト教一強の時代を生み出し、カトリック教会の腐敗が起き、それに逆らってドイツのルター等が宗教改革を起こす。そしてキリスト教はカトリックに反発するようにルター派(プロテスタント)やカルヴィン派などに分派。その後もたくさん派閥ができるが、基本的にそれらはカトリック(大筋のキリスト教)に逆らうようにして起きたのだ。
また、これも極めて重要な話だ。そのカルバンは、ジュネーブを神聖な国にしようとし、より厳格な規制を考えた。歌も大声も、踊りも酒も禁止。それができない人間は汚れているとして、異端扱いした。つまり、カトリックがキリスト教の名前を汚した越権行為をしていたため、彼らのような、
浄化するべきだ!もっと神聖であるべきだ!
とよりシビアな態度を求めるような人間を出してしまったわけだ。しかし度が過ぎた極端なカルバンによって追い込まれたピューリタン、つまり『普通の心を持った清教徒(プロテスタント。カトリックではない者)』は、居場所がなくなり、アメリカ大陸に新天地を求めた。そして北アメリカ大陸に移入したということなのである。彼らは貧しく、渡航費はなかったが、移民先の大農場で労働することを条件に、アメリカに移ったのである。そうしてできたのが『アメリカ合衆国』だ。彼らは英語を喋るだろう。彼らの大元はイギリス人なのである。
ローマ帝国の歴史を考えるということはそれだけ重要なことだ。この時ネロがキリスト教を完全に抹殺していれば、アメリカ合衆国という国もなかったのかもしれない。また、ヒュパティアが死ぬこともなく、天文学的な真実がもっと早くに明らかになった。そして私も、両親にキリスト教を強いられることはなかったのかもしれない。
ペテロは映画でネロに逆さ十字架にかけられるが、これは『伝わっている事実』として、史実通りとなっている。伝承によれば紀元67年に殉教したとされている。同じ伝承によると、ペテロが迫害の激化したローマから避難しようとアッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてきた。彼が
「主よ、どこへいかれるのですか(Domine,quo vadis?)」
と問うと、イエスは
「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」
と答えた。彼はそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。このときのペテロのセリフのラテン語訳「Quo vadis?(クォ・ヴァディス、「どこへ行くのですか」の意)がこの映画のタイトルだ。
ローマ、有名な家庭教師(セネカ、第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師、アリストテレス、アレキサンダー)
『ヒトラー暗殺、13分の誤算』
1939年11月8日にヒトラー暗殺未遂事件を起こしたゲオルク・エルザーが主人公の実話映画である。どの国も実話を基にした映画で恣意的に歪曲していなければ、歴史的な価値がある映画として貴重な作品となる。とりわけ、あのヒトラーに関する映画は多い。ナポレオンも同じように有名なはずだが、映画化されないのは『ワーテルロー』が興行的に失敗したからだろうか。あのキューブリックもその失敗のせいでナポレオン映画を作ることを諦めたという。
ここにトムクルーズ主演の『ワルキューレ』で挙げられたクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐の話が出てくる。Wikipediaにもその名前はないが話の中で出てくるので、二つ合わせて観ると奥行きが深くなるだろう。要は、ゲオルクも、シュタウフェンベルクも、両者ともヒトラーを確実に暗殺したはずだった。だが、失敗したのだ。ヒトラーが暗殺されたという事実はないだろう。彼は追い詰められた自殺したのである。それは、『ヒトラー最期の12日間』で見ることができる。
そのヒトラーの悪運の強さは化け物染みていて、彼の存在感を更に引き上げることに成功している。そんなことを一つ考えながら見ていきたい。
ヒトラー、ワルキューレ
『誰が為に鐘は鳴る』
これはもちろん翻訳された日本語だが、これで『誰がために(たがために)』と読むわけだ。だが、現代人が『たが』などと言うだろうか。『だれ』としか言わない。したがって、こういうグローバリズムを無視したガラパゴス的な邦題をつけた作品にはすべて『古臭い』先入観が漂ってしまうのが事実だ。普通に原題通りにしてくれれば今そう感じることはないだろう。
だが、80年も前の話だ。このポスターを見れば分かるように、1943年、つまり第二次世界大戦真っ最中の映画なのだから、そこにあるのは『大日本帝国』だ。この世界に日本語を蔓延させようとしていた当時の考え方からすれば、こうなってしまうのも無理はないだろう。そういう歴史的な意味でも、考えさせられる作品である。
また、1936年から1939年まで実際にあった『スペイン内戦』が舞台で、あのヘミングウェイの名作を映画化したのだから、注目せざるを得ない。それでも、80年も前の映画のアクションやクオリティに大きな期待はせず観るのが正解だ。
橋を壊せ、名作、スペイン内戦
『涙するまで生きる』
ノーベル文学賞作家アルベール・カミュの短編小説を映画化。しかし主演のヴィゴモーテンセンは何か国語喋るんだという。『アラトリステ』ではスペイン語、今回でフランス語だ。舞台は1954年のアルジェリア。『アルジェの戦い』としても有名なアルジェリア独立戦争が起きたとき、その渦中で生きる非戦闘員はどのように葛藤したか。
これは私の個人的な感想だが、戦争映画というのはそれから何十年も経ってから映画化するよりも、渦中に映画化してしまう方が人々の注目を集めるということだ。それは映画だけじゃなく、SNSを通したりして、世界の人々の心の動きなどを観ているとつくづくそう感じるのである。例えば渋谷駅にあるハチ公だが、今あの犬の物語を知っている人が渋谷で遊ぶ人の中にどれだけいるだろうか。
そういう『心そこにあらず』感が昔の戦争の話だとどうしても漂う。だが、例えば2020年現在で考えると、記憶に新しいISISの話などは非常に臨場感あふれる様子としてこちらに伝わってくる。だから、古い戦争の映画を、それを知らない時代の人間が見て正当に評価することは難しく、豊かな想像力を必要とするのではないだろうか『アルジェの戦い』は臨場感がすごかったので、それとセットで観れば奥行きが深くなるが、これ一本だけだと実態がつかめない人も大勢いるはずだ。
名作、二人旅、アルジェの戦い
『ヴァイキング・サーガ』
wikipediaにもないマイナーな映画だが、この時代のヨーロッパを描く一つの事実としては価値がある。舞台となるノーサンブリア王国とは、アングロサクソン人が築いた七王国のうち最北、現在のノーサンバランドにあったアングル人の王国である。下記の2つの地図を見てみよう。上が当時のもの、下が現在のイギリスの地図である。
つまりイギリスの話だ。ここにあったリンディスファーン修道院はヴァイキングによって731年略奪を受けてしまうが、その時のシーンを切り取ったものが描かれる。当時の神は北欧の神『オーディン』である。アブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム)はまだ浸透していない。そういう神話時代と、アングロサクソン人の息をしたこの時代の映画は多くないので、そういう意味で貴重だ。
この映画に派手なアクションなどを求めると評価は低いがそうしなければ高い。
- ヴァイキング
- 神話時代
- リンディスファーン修道院襲撃(キリスト教VS北欧神話)
などのキーワードが含まれているだけで貴重なのだ。そう考えると、途中出てくる残酷なシーンは、現代で考えるとあまりにもおぞましいことだが、当時のことだ。そういう侮辱行為が存在したことは十分にあり得る。何しろい人の首を切り取って生首を持ち帰った時代は世界中で常識だったのだから。
『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』
日本の若者が出演していそうな展開だ。つまり10代のころ、お先真っ暗で不透明なあの頃、同じように刹那的な生き方をする人間や展開に興味を持った。『その後』やそこにある哲学などには興味はなく、ただ刹那的であればいい。それは自分たちの人生をリンクするからだ。ド派手に鳴り響くクラブミュージックや、流行のお笑いに言葉遣い。それらはすべて『その後』を無視してただ『今』を盛り上げるためにある。
一方大人はその逆で、建設的な人生に価値を見出す。それが自分ないし自分にまつわる家族等の人間関係の幸福に直結しているからということを知っているからであり、刹那的な人生は無知であることを既に悟っている。両者の違いは先行きのビジョンにある。伴侶も子供もいる人は、そのビジョンに成長した子供たちの姿などを観る。だがもう一方は、将来設計もそれを設計する意義も見いだせず、結果刹那的な人生になる。
彼らが生きている状況は確かに稀である。だが、『Hana-bi』と違ってそこに哀愁を覚えないのはなぜだろうか。それはただ彼らがド派手な花火を『急に』打ち上げるからだ。前者でたけしが演じる男は、そこにたどり着くまでに長い年月を経ている。中には『テルマルイーズの男版』という人もいるが、私はHana-biもテルマも両方とも大好きな映画だが、この映画にはそこまで興味をそそられない。
その理由は言った通りの『哀愁』だろう。ここでいう哀愁とは、その人物らが去った後、あるいは彼らと別れる時に感じる感慨であり、それを本当に感じるためには、ただ目の前で無鉄砲かつがむしゃらに暴れられただけでは難しい。やはり人間的な葛藤があり、本当は違う別の道も選択肢にあり、しかしやむを得ずそうするしかなく、だとしたら悔いなく散ろう、という万人を納得させるだけの流れがなければならない。
だから中には登場するマフィアのボスが格好いいと言う人もいるが、あのようなキャラクターも日本の若者向け漫画によく出てくる。リアルでなければならない。その2作では、たけしやテルマらを逃れられない決定的な現実が追い詰めていく。
例えば暴力団やマフィアの人生だって太く短いはずだ。だから彼らのような人生を正当化するとなると、『死に際に暴れるすべての人』を美化しなくてはならなくなる。ある時、海外の学校で銃の乱射事件が起き、犯人は自殺。置き手紙には、
派手に終わらせてやるよ
とあったという。これを聞いたとき、皆はどう思うだろうか。派手に終わらせればいいというわけではないのだ。だから私は、日本の若者が出演していそうな展開だと言った。往々にして日本の若者が出演する映画は世界規格ではない。そういう映画が世界でウケているのを見たことがあるだろうか。つまり私が言いたいのは、日本でも中国でも台湾でも、この映画のドイツでも、この手の映画はある一定の層に響く作品となるだろう。
だが、それを全世界に舞台を広げて展開した時に普遍的であるかどうかは、その作品の根幹にある深遠な哲学や普遍的な人間らしさがものを言う。哀愁、つまりその人物らが去った後、あるいは彼らと別れる時に惜しさを感じるためには、それだけ感情移入ができ、わずかな時間でも彼らと一心同体となっていなければならない。
大人になった今、『終わらせること』はその銃乱射事件の犯人同様我々だっていつだってできる中、しかしそうはしない。ここに人間たるゆえんがあり、挙げた2作にはそうした人間的な葛藤が垣間見えるのだ。10代のあの頃、私は彼らのように無責任で排他的な人生を送っていて、お先真っ暗だった。あの頃に見たなら、きっと自分たちの人生を応援して美化してくれる、芸術作品だっただろう。
だから私も10代のころ、意味もなく海にドライブをしに行ったものである。行って海を見て、すぐに帰ってくるだけだ。あの頃、ドライブをして自分が好きな音楽を車でかけて仲間といるだけで楽しかった。だから彼らの気持ちはわかる。そして、どちらにせよついついこうして文章が長くなってしまうほど考えさせられる映画だったようだ。
逃避行、人生の死に際(テルマ、Hana-bi)
『太陽の帝国』
イギリスの小説家J・G・バラードの体験をつづった半自伝的な長編小説を映画化。大日本帝国時代に捕虜にされたイギリス人の映画は、
- アンブロークン
- 戦場にかける橋
- 戦場のメリークリスマス
- レイルウェイ
などいくつもあるが、これもそのうちの一つである。クリスチャンベールの子供時代が見られるだけで貴重だが、物語自体もスピルバーグが監督をしていることもあってクオリティが高い。たまたま見かけるまで知らなかったのが不思議なくらい見応えがある映画である。様々な視点からこの時代を切り取ることによって、ようやく真実が浮き上がってくる。戦場のメリークリスマスも名作だが、それ以外の作品にもすべて目を向けたい。
子供、零戦に憧れて(風立ちぬ)、戦場に夢見る(ジョジョラビット)、スターの子供(ホームアローン3、マルコムX)、日本、イギリス
『ラストベガス』
大物が共演しているというだけで見応えがある。彼らが積み上げてきた太い『年輪』が見ている側の想像力を豊かにさせ、『過去に色々あった』とうシナリオに奥行きが見えるようになる。本気を出せばベガスが自分たちの遊び場になるこのおっさんたちには、並外れた説得力がある。長い間『地元の悪友』というだけの絆で繋がってきた彼らにいくつかの試練が訪れるが、きっと彼らなら乗り越えるだろう。
絆、悪ガキその後(ミスティックリバー、スリーパーズ、ワンアメ)乱暴じじ(龍三と、RED、ダーディグランパ)、大物共演、女を巡って
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』
炭次郎(たんじろう)は、鬼にされた禰豆子(ねずこ)を治したくて、鬼の親玉を倒すために鬼殺隊に入った。炭次郎は努力家で、人の悪口を言わず、殺した鬼にも慈悲をかける、そういう男だった。努力し、努力し、仲間と共に彼は強くなった。だが、鬼殺隊の最高幹部『柱(はしら)』たちはそのはるか上の実力を持っていた。
ある日、その柱の中でも『炎の柱』に該当する彼よりも真っ直ぐに、炎のように熱く生きる煉獄(れんごく)と共に、鬼退治へ向かった炭次郎。彼はそこで、煉獄という男の、大きな大きな、背中を見た。彼ら後輩は、この煉獄という男の存在を、生涯忘れることはない。忘れられるわけが、ないのだ。
感動
『ドリームガールズ』
ソウル/R&B・レーベルとして知られるモータウンのダイアナ・ロスとスプリームスをモデルに描かれる有名なミュージカルを映画化。したがって出演する演者はジェニファー・ハドソン、ビヨンセ、アニカ・ノニ・ローズ、ジェイミー・フォックス、エディ・マーフィ、ダニー・グローヴァーと黒人たちが多い。最後の二人は『ビバリーヒルズコップ、リーサルウェポン、プレデター2』などで主演を務める大物。ジェイミーフォックスは彼らほど爪痕を残していなくても、常に見かけることができる実力俳優だ。
それゆえ、歌手出身の3人の女性たちの演技のフォローを彼らが行い、全体的にクオリティは高くなっている。また、ミュージカルということもあってそれは彼女らの十八番。そこではむしろ彼女たちの方が演者を引っ張る側に回るわけで、いいバランスが取れている。歌手の演技力うんぬんという話はあまり気にならないクオリティだ。
- 1944年:ダイアナロス
- 1958年:マイケルジャクソン
- 1963年:ホイットニーヒューストン
- 1970年:マライアキャリー
- 1981年:ビヨンセ
- 1986年:レディガガ
- 1993年:アリアナグランデ
各時代で活躍するアメリカのディーバ(歌姫)たちだが。その中でもダイアナロスは、アメリカで最も成功した黒人女性歌手の一人であり、ブラックミュージック界の大御所として数えられている。ジャクソン5(マイケルジャクソン少年期)なども登場することを考えても、アメリカの歴史を振り返って考える際に貴重な作品である。また、聞き逃せないセリフもある。
『エルヴィス・プレスリーが黒人の才能を盗んだ』
というもの。その辺りの黒人が受けた風当たりなども注目ポイントである。
実話、女性、ダイアナロスジャクソン5(1964)、ドラッグで落ちる、黒人の活躍を隠蔽(プレスリーパクリ、ドリーム)
『ドンファン』
かつて17世紀のスペインに、1,502人の女を虜にした伝説の人物ドン・ファンという男がいた。この男はそのドンファンの生まれ変わりか、あるいはその人物そのものであることを吹聴し、常識で考えて精神障害があると判断された。診断結果は人格障害である。だが、多重人格者や人格障害のキャラクターを見てきて何となく知っているように、彼らは『そのキャラクター』でいるとき、傍から見ると本当に違う人物であるように見える。言葉遣いも癖も変わって、人によって論理的だったり、無責任だったりする。
『スプリット』でジェームズマカヴォイが演じた男は、死に不安定になった母からの虐待を幼少期から受けた影響から、自身を守るために23の人格を持つ多重人格者となってしまった。そこでその詳細が観れるのだが、もしこれが『演技』だとしても、それができるのは相当な知識量のある天才だ。
こういう性格で性別がこうで、年齢がこれくらいであれば、このキャラはこう行動する
ということを理解していなければできない。今回の男は多重人格ではなく、ドンファンそのものだと思い込んでいる。したがって、挙げた男ほどの知識量は必要ない。ただ、女性や愛に関する知識だけあればいい。もしかすると自分が持つ知識のそれが、ドンファンの一生と酷似していたため、彼の中で性格がシンクロしてしまい、思い込みが加速してしまったのかもしれない。
だが、注目するべきなのは今出た『知識』である。この男を見たジャックという精神科医が、燃え尽き症候群だったことが運命のいたずらだった。彼はジャックの『心に空いた隙間』を埋めるだけの知識と情熱を持っていたのだ。それがこの物語を奇妙な展開へと発展させていく。
性なるドン(ドンジョン)精神、訳ありの女装、妄想、感染
『ローズの秘密の頁』
観ても観なくてもどっちでもいい映画というのは、実話映画にはそう多くはない。実話で映画化されるものは往々にして偉人や歴史的シーンを切り取っていることが多く、それは何らかのプラスな影響を鑑賞者に与える。この映画はどうかというと、実話ではないのでそれ以上の何かを鑑賞者に与えなければならない。実話じゃないからどんなふうに描いてもいいのだから、その部位を遺憾なく発揮するべきだ。
ではこの作品はどうか。批評家たちの評価は低く、
「『ローズの秘密の頁』の原作小説は高い評価を受けており、俳優たちは厳選されている。彼/彼女らの立派な努力にも拘わらず、この作品は「ページに記されたままであった方が良かった」と思わせる出来になっている。」
とのこと。確かに、観た後あまり記憶に残らない。例えば『シャッターアイランド』のようにギリギリのところまでエグって、サイコホラー的な要素にも突入することで異彩を放つことができる。だが、この映画の売りは『登場人物の不透明な実態』なのに、その不透明さを演出しきれていない。もっと、異常犯罪者ギリギリのところまで演出すれば、鑑賞者がキャラクターに興味を持つことができる。
シーソーのように、ゆらゆらと鑑賞者の疑念や思惑を揺らしながら、真相を解明するまで不透明さを楽しんでもらって全容を隠し続ける。そこに一つのエンターテインメントがあるわけだが、もう少しそのシーソー演出があれば記憶に残る映画となっただろう。
精神病院、子供が(光をくれた人、あなたを抱きしめるまで
『ニック・オブ・タイム』
タイトルの意味は、Nick =「刻み」や「溝」と解され、Nick of Time = (その瞬間の)時の刻み =「際どい時」という意味で、つまりこの映画の中の時間と実際の時間がほぼ同じく流れてゆくことを表している。だが、私がそれを知ったのは鑑賞後で、(そうだったんや・・)という印象。あまりそれを意識することはなかった。『24』のようにこれ見よがしに常に時間表示をしていればわかったが、特に時計が常に表示されるわけでもないのであまりそれは気にならないしわからなかった。
その意味で、これをタイトルに押し出すことを考えても『それがこの映画の売り』なのであれば、もう少しド派手にやらないといけないだろう。展開自体はスリリングで時間制限を意識する焦りも伝わるから、もっとメリハリをつけて強調すべきところを強調すればこの映画のプッシュポイントが際立ち、目立つ映画となったはずだ。
巻き添え(コラテラル)、リアルタイム(1917
『パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー』
実在の医師パッチ・アダムスを描いたお話。この映画は他と比べて見応えがあり、歴史に残すべき映画の一つとして数えられることを心から納得できる作品である。実話という説得力とロビンウィリアムズの人柄と演技力が加わり、かつ、実際に命を絶ってしまったロビンウィリアムズのことを考えながら観ると、ここで訴える『命の重み』が何重にもなって視聴者に覆いかぶさる。
『死を遠ざけるのではなく、生を高めるのが医者だ』
思わずメモするほどのこの名言。私はこのサイトにある通り世界の8000の名言を内省している。この言葉はそれに全くひけをとらない言葉だ。
非凡、精神病院、二人のピエロ(ジョーカー)、愉快なロビン(ベトナム、マダム)純粋さが起こす奇跡(僕はラジオ、レナード)
『いまを生きる』
原題の「Dead Poets Society(死せる詩人の会)」は劇中の教師ジョン・キーティングがウェルトン校在学中に結成した読詩サークルの名前で、没した古典的詩人の作品 のみ読むことから名付けられた。つまりこれは実話である。ロビンウィリアムズが演じる『決して道を逸れない信念の男』は、
- グッドモーニング, ベトナム
- グッドウィルハンティング
- いまを生きる
- パッチアダムス
- レナードの朝
このあたりの映画がそれに共通している。その中で『道を逸れない』というのは往々にして非暴力を意味するが、今回の場合もそうで、かつその中では力強い意志を持った人間が描かれる。彼のドラマで感動が生まれるのはやはりそのポテンシャルがあるからに他ならない。ただ弱気で内気な人は大勢いる。そして、ただ暴力的でガサツな人間も大勢いる。しかし、知性の上に成り立つ静けさを持ち、かつ心底に決して折れない一本の槍を抱えた人間というのは、稀である。
したがって、彼のような人間は失った時にその存在の偉大さに気づくことが多い。なぜなら、彼のような人間は普段『群の中』にその身を潜め、自分が群を抜く存在だということを誇示しないからだ。
天才、教師、教訓、感動、様々な10代(賢い)、自由(な発想を奨励し本を破る)、エンドロール(スコットランドBGM)
『グッドモーニング, ベトナム』
エイドリアン・クロンナウア上等兵という人物が、1965年から1966年までAFVN(Armed Forces Viet-nam Networks、ベトナム米軍放送)で担当していた「Dawn Buster」をモデルにしたもので、ストーリーの多くが本人の体験に基づいている。スタンダップ・コメディアンだったロビンウィリアムズの実力がいかんなく発揮される映画で、彼の技術があるからこそ成り立つ映画だ。それはロビン、クロンナウア、両者の技術のことである。
彼にそれがなければこの話は存在しない。誰もが明るい人ではない。誰もがペラペラと喋れない。誰もがジョークと暴言の違いを知るわけではない。誰もが人間を平等には見れない。彼にはそれを満たすだけのポテンシャルがあった。そして彼は戦ったのだ。兵士たちが戦場で戦うように、自分が戦うべき場所はここだと悟った。
実、非凡、ベトナム、マシンガン(レニーブル
『アリー/ スター誕生』
1937年の同名映画の3度目のリメイクであり、様々な有名人が登場する豪華作品。また映画のサウンドトラックは全米・全英ともに1位を獲得、全世界で累計300万枚以上のセールスを記録し、第91回アカデミー賞でアカデミー歌曲賞を受賞。更に水面下で進んでいた話が豪華で、まずクリントイーストウッドに監督を持ち掛ける。レオナルド・ディカプリオ、ウィル・スミス、クリスチャン・ベール、トム・クルーズへさらにジョニー・デップへの出演依頼があり、最終的にブラッドリークーパーに落ち着いた。あまりにも豪華な面々である。
タイトルからして『レディガガ』売れないあるいは一般人的立場から、誰かに出会ったスターになるまでを描くことは、何となくわかる。だから見る前からもう観たような気がして、今までずっと見ることはなかった。いざ観るとその通りの展開だ。だが、それでも大舞台で歌う直前の臨場感あるシーンでは心が躍る。もし映画館で観ていたらリズムを取りながら楽しく鑑賞したことだろう。
- レディガガ
- マライアキャリー(プレシャス)
- ホイットニーヒューストン(ボディガード)
- ビヨンセ(ドリームガールズ)
- アリアナグランデ(Netflix)
アメリカの歌姫の活躍はただの歌手だけにとどまらない。
音楽、薬で落ちていく
『Love, サイモン 17歳の告白』
社会的包摂(ほうせつ)とは、社会的排除の対義語で、後者がマイノリティ(少数派)を排除しようという動きなら、前者はその反対の行動である。この場合、LGBTの立場である少年が、社会に対し、社会的包摂を訴える、というわけではないが、映画全体のメッセージとして批評家からはそう感じ取れるわけで、そこを高く評価されているという。
17歳という年齢を考えれば、そのような少年が社会的包摂を社会に伝えるだけの立場にいないことはわかる。そうではなく、ただもがき、苦しむわけだ。カミングアウトしていいのかどうか。それを貫いていいのかどうか。そして話は、『LGBT以外の人だってカミングアウトするべきでは?』という展開へと発展。差別撤廃と多様性を重視することを意識したアメリカならではの発想だ。まだ日本はこの考え方にたどり着いていない。
非常に厳しい問題である。この悩みに本気で苦しんでいる人がいるならそれはもちろんないがしろにはできない。だが、大きな問題として『男女が向かい合うことで子供が生まれる』という決定的な事実がある。『精子提供』や『孤児養子縁組』などで考えても、それはあくまでもノーマルと言われる人がいるから成り立つことであり、だとしたらカミングアウトしなければならないのはノーマル以外の人ということになる。
黒人差別問題は明らかに人種差別だが、LGBT問題はそれとは全く違う話である。また、女性同士がキスをしても気にならないが、男性同士がそれをするのを見るのは抵抗があるという人類共通の男女の差異における決定的な事実も考える必要がある。そして、LGBTのクリエイティビティが高いことも注目したい。彼らのそのポテンシャルが高いのはLGBTだからなのか。それとも、『強いられた人生を送っているから』なのか。だとしたら彼らが強いられることがなくなれば、そのポテンシャルを発揮することはできない。
エイズになる理由はなぜなのか。王道を行くとなぜそうはならず、子供が生まれるのか。これは安易に考えて答えに辿り着くような話ではない。
性別不合、17歳
『60セカンズ』
1974年の映画『バニシングin60″』のリメイク。映画自体は『ワイルドスピード』の展開に似ている。また、高級クラシックカー専門の強盗団である兄弟を描いた『スクランブル』も似ている。これらの映画を見れば車泥棒かつ、やむを得ない車泥棒というシナリオは観尽くした感に浸れるだろう。ただ、2000年のこの時はこれが最先端だ。当時の人々からすればワイルドスピードのような刺激をこの映画で堪能したのである。
車泥棒(『バニシングin60″『ワイルドスピード』『スクランブル』
『6デイズ/7ナイツ』
何の賞も獲っていないこの映画が『観るべきリスト』に入ってた理由を考えたのだが、他と違うところはこの映画の舞台となる無人島の壮大なロケ地だ。(すごい大自然だなあ)と感じるのが正直なところ。また、この映画が嫌いな理由を考えたのだが、特にそれが見当たらない。ラブロマンス、アクション、スリル、それら全てがほどよく備わっていて、ロケ地の壮大な大自然が豪華な『額縁』となって演出してくれている。
無人島(キャストアウェイ、白鯨、ラドクリフ)
『チャーリー・セズ/マンソンの女たち』
1969年に女優シャロン・テート殺害などの無差別連続殺人事件を起こしたカルト集団、チャールズ・マンソン・ファミリーの主要女性メンバーを描いた実話だ。『ワンハリ』で有名になったその事件の真相が気になる人も多いだろう。私もその一人だ。だが、この映画の評価が低く設定されていた。それは勘違いをしている。
それは彼らが『したこと』が認められないのであって、フィクションじゃないんだから価値がある『資料』だ。ワンハリで気になった人の為にもいいし、人が『生きるべき道』を見誤らないためにも存在価値がある。イージーライダーとも同じ時代だし、ベトナム戦争っていう理不尽なうねりのせいで、 ヒッピー(マリファナ、自由、自然意識) などが生み出された60年代のアメリカの歴史としても、注目に値する。
哲学を学んだ者からしたら、フロイトや各哲学者の哲学の『独自解釈』をする人間、哲学を信じて突き進む人間の貴重な姿を観ることができる。 例えばソクラテスの遠い弟子にあたるディオゲネスは、コクリコ坂からでも名前が出てくるが、道ばたで公然と自慰行為をして、
「擦るだけで満足できて、しかも金もかからない。こんなによいことは他にない。食欲もこんなふうに簡単に満たされたらよいのに」
と言った。 想像するとまずい。樽に住んでるし。だが、世界の哲学者とはそういう『自由発想』をするのが基本。 勿論彼らはそれを『援用(自分の私利私欲を正当化するために利用)』しただけだから、 (ふむ。これは哲学の曲解かつ援用だな)として、どちらにせよ『人間の勉強』になるのだ。だからこうした『逸れた人間の姿』は貴重な資料だ。したがって☆2ではない。
観ていくと彼女らに影響を与えたのが
- ベトナム戦争
- ヒッピー文化
- 月面着陸
という事実が見えてくる。セリフにはこうあった。
『1969年(事件を起こした時)、誰もが宇宙レベルで変化があると思っていた』
確かに月面着陸は1969年だった。(1969年7月20日午後4時17分) シャロンテートが殺されたのは1969年の8月9日だから、でこの歴史的変化に心を『持ってかれた』心の弱い人たちが多かったってのはうなづける話。 これも更に付け加える話がある。
この8年前の1961年にガガーリンが世界最初の宇宙飛行を成功させた。宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。
- 総主教『宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。』
- ガガーリン『見えませんでした。』
- 総主教『わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。。』
つまり、ガガーリンやアームストロングらがやった偉業は、この世界で権力を握る宗教関係者を含んだ、膨大な数の人間に心的影響を与えた。 この映画を『グロい』と言ってた人がいたけどそんな描写はなく、むしろ配慮されていた。オウム真理教の一連の事件にも共通していることが多く、『洗脳』される人間の心理を見るにも、貴重な資料だ。 したがって、★2ではない。 とても貴重な資料だ。
実話、怪しい(ザビーチ、イージーライダー、コロニア)、狂気、精神
『白鯨との闘い』
原題は『 In the Heart of the Sea』で、『白鯨のいた海』という邦題で公開される予定であったが、後に変更となったというが、見た私からするとそっちの方がピタリ来るような気がする。実在したハーマン・メルヴィルは、1850年にある男を訪ね、そこから物語が始まっていく。メルヴィルの『白鯨』とは、世界の十大小説の一つとして数えられている。
イギリス文学4作、フランス文学3作、ロシア文学2作、アメリカ文学1作で、『トム・ジョーンズ』を除きすべて19世紀の作品である。
掲載順 | 著者 | 作品 | 著者の国籍 | 原典 | 初出 |
---|---|---|---|---|---|
1 | ヘンリー・フィールディング | トム・ジョーンズ | イギリス | 英語 | 1749年 |
2 | ジェイン・オースティン | 高慢と偏見 | イギリス | 英語 | 1813年 |
3 | スタンダール | 赤と黒 | フランス | フランス語 | 1830年 |
4 | オノレ・ド・バルザック | ゴリオ爺さん | フランス | フランス語 | 1834年〜1835年 |
5 | チャールズ・ディッケンズ | デイヴィッド・コパフィールド | イギリス | 英語 | 1849年〜1850年 |
6 | ギュスターヴ・フロベール | ボヴァリー夫人 | フランス | フランス語 | 1856年 |
7 | ハーマン・メルヴィル | 白鯨 | アメリカ | 英語 | 1851年 |
8 | エミリー・ブロンテ | 嵐が丘 | イギリス | 英語 | 1847年 |
9 | フョードル・ドストエフスキー | カラマーゾフの兄弟 | ロシア | ロシア語 | 1879年 |
10 | レフ・トルストイ | 戦争と平和 | ロシア | ロシア語 | 1865年〜1869年 |
まだ捕鯨船がまかり通っていた頃の話だ。捕鯨船に生活の糧を求めて、体力自慢の屈強な男たちや、訳ありの人間など、異色な人間たちがこぞってそれらの船に乗った。だが、彼らは思いもよらない巨大な白いマッコウクジラと出会ってしまう。やつはまるで悪魔だ。白い海の悪魔が人間たちを襲う。
だが、現在の人間の思考で考えてみると、『捕鯨船は悪だ』という考え方がある。いや、それでいうなら他の命を乱獲する一切の行為は、人間の不祥事(出過ぎた行動)とも言える。それであれば、一体『悪魔』なのはどっちか。そういうことを一つ考えながら物語を見ていくと、人間らしからぬ行為を強いられる彼らの姿が。この映画では一つのカギとなる展開で、この話の流れがゆえにその善悪についてスポットライトを当てないが、実はこの行為、『ハーバード大学』で倫理について学ぶ人からすれば、決して目を反らせない衝撃的な事実なのだ。
一体何があったのか。彼らは悪魔と対峙し、どういう心境の変化を持ったのか。一つ言えることは、1930年代からの映画をたくさん観ているが、これだけのクオリティでこのストーリーを描けるのは現代だからであり、古い話だからといって決して無碍にできない本質があるということだ。大迫力の映画である。
名作、怪物、実話、衝撃、実話的究極判断(ロンサバ)。非凡
『不都合な真実、2』
1,2を通して温暖化や地球環境問題、例えば太陽光とかの自然エネルギーの活用を実現させて、グラフ化してプレゼンして、 わーっ と皆が盛り上がるシーンがある。だが、『クリティカルパス』という40年前の本には、この現実より遥かに先を読んだ展開の話があるのだ。そこにも同じように地球環境問題が書いてあるが、『宇宙船地球号』という表紙の記載から既に群を抜いてる。 『俺たちは地球という宇宙船に乗ってるんだ。その地球の資源は有限なんだ』という理解をさせて、 ・太陽 ・水 ・風 何かの無限エネルギーを有効活用する方法が書いてある。
例えばトイレをする。それが地下に落ちる。それがそのまま肥料となる。そうしたあらゆるからくりがある家を作って皆が住めば、
- 人:無駄な支出
- 地球:無駄な資源浪費
をしないで済む。震災の時にエコハウスの話が話題になったが、それよりも30年も前にこの本が出ている。 6000円もする本だが、やはり相当賢い本なのだと、このドキュメントを2本観て理解した。なんせ、アル・ゴアはこの『不都合な真実』でノーベル平和賞を受賞したのだから。この著者のバックミンスターフラーは天才すぎて、人々の理解が追い付かなかったのかもしれない。
環境、ドキュメント
『ベルリン・天使の詩』
何だかよくわからない退屈な時間が過ぎる、という印象を持つ人も多いはずだ。画家だの作家だのの世界観が関係しているとかいないとか、そういう事情があるのか、分からない人にはよくわからない映画だ。ただ、『刑事コロンボ』のピーターフォークが本人役として重要な役割で出てくるので、コロンボを知っている人からすれば面白いかもしれない。まだベルリンが東西に分かれる壁があった時代だ。
『乱』
シェイクスピアの悲劇『リア王』と毛利元就の「三子教訓状」を元にしており、主軸となる人物は架空である。シェイクスピア三大悲劇のもう一つ『マクベス』は『蜘蛛巣城』で描かれている。黒澤の最高傑作の一つとして国内外で高く評価されていて、実に多くの名誉ある賞を受賞している。それだけ見応えのある映画だ。玄人たちや製作者側の意見だけじゃなく、視聴者側の私が観ても、素直にそう感じることができる映画だった。
まずはこういう裏話を見てみよう。
主演の仲代達矢は「60年以上俳優をやってきて、一番多く出演料をいただいた作品」と語っている。高倉健はこの作品の出演を断り、黒澤に「あなたは難しい人」だと言われたが、その後偶然『乱』のロケ地を通ったことがあって、出演すれば良かったと後悔したという。それだけ迫力のある映画を作っているのが遠目からでも分かったということだ。
アメリカからクォーターホースを50頭輸入して調教しているが、それは『影武者』を観た調教師から「戦国時代にあのような格好のいい馬(サラブレッド)はいない」と指摘されたためであったという。劇中で読まれない手紙の中身まで書く黒澤明の細部へのこだわりが、こんなところにも出ているのがわかる。
落城シーンは、富士山麓の御殿場に4億円をかけて巨大な三の城のオープンセットを作り、実際に火を放ち炎上させた。この撮影地は奇しくも『蜘蛛巣城』と同じ場所だったという。そしてその落城シーンはワンカット一発撮りで撮り直しは不可能なため、リハーサルに1週間をかけ、撮影本番では城内に仲代ひとりを残してスタッフが撤収してから火を放ち、8台のカメラで撮影した。
死んでしまう可能性だってある。『蜘蛛巣城』では三船敏郎に本当に矢を射て撮影したが、今回は仲代達矢が体を張ったのだ。彼が一発で演技を決めなければ大損害が出たという。だがそれを一度で見事に成功させ、仲代は顔半分に火傷を負い1週間休んだ。そして、「役者って、画(え)になりさえすれば、何だってやってしまうんですよ」と語っていたという。
これを見るだけで、もうこの映画が半端ではないことが何となく伝わってきたはずだ。命がけで撮影されている。それは絵から十分伝わってくるのである。表層より実際を好む高倉健が嫉妬したのが一つの証拠でもある。
私は映画を『ながら観』することがあるが、それは映画の展開がわかってしまうからである。だが、これは私にそうはさせない。テレビの真正面に来て、真正面から見て、その目で焼き付けろと言わんばかりに、テレビの方向からただならぬ気配が漂ってくる。白黒映画もそうだが、彼が色を操るとここまでを描くか。
衝撃、名作、シェイクスピア
『ブレージングサドル』
AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)が「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の一環として2000年に選出した「アメリカ喜劇映画ベスト100」では第6位に選ばれているということで、アメリカ人にはウケる映画かもしれない。確かに、見初めてすぐに陽気なカウボーイたちを見ることができるのだが、全く知らない顔ぶれがズラリと並ぶので、そのあたりが少し違和感として伝わる。
事情をよく知るアメリカ人なら面白い要素が盛りだくさんなのかもしれない。こちらとしては、西部劇は歴史を学びながらシリアスに見たいのが本音だ。
『ベニスに死す』
トーマス・マン作の同名小説の映画化。正直、これが名作だと言う人はノーマルではない。現在はLGBTの主張も当然になりつつあるから何がノーマルかという問題もあるが、いわゆるこれまでノーマルと言われてきた人生を送ってきた人間からすれば何がしたいのかチンプンカンプンだ。
ただ、そこがこの映画の価値である。要は、『そうは思わない人』もこの世にはいるわけだ。そういう人に響く映画というのは、ノーマルウケするそれではないのであれば、こういう映画はそれらの人にとっての名作なのである。以前、アウトローや冒険家などの際どい生き方をする人を特集する番組で、性別不合かその系統の男が、外国の『その手の人が通うサウナ』のようなところに行き、カメラもそこに入っていた。
そこで彼が言ったのは、『絶景ですよ。皆さんも、美女が泳ぐのなんかをこうして眺めながら、お酒飲むと美味しいでしょ。僕も同じことですよ』。男性がプールで泳ぐ姿を見て、ある種の幸福感を得るというのだ。この感覚は要はノーマルと言われる私その他の人には分からない。だが、そうして彼の言ったことを真に受けて考えるなら、そういうことなのである。
性別不合、感染、名作
『告白』
話題になっていたので、いつか見てみようと思っていてついにこのタイミングで鑑賞。内容が少年犯罪や家庭内暴力、イジメなど、過激な内容や描写で映倫からR15+指定を受けたため、キャストには15歳未満の者も多くおり、該当者は公開後自分が出演した本作を見ることができなかったという。だが、それだけ攻めている内容だから競争優位性を生んでいる。松たか子というキャスティングもいい。彼女の持つパブリックイメージがあってこそのこの展開だ。もちろん、今の言葉の意味は鑑賞しなければわからない。恐らく『違う』だろう。
ただ、湊かなえというのは少々偏りがあるように見える。『Nのために』も似ているが、彼女の言葉、
『道を踏み外して、その後更生した人よりも、もともと道を踏み外すようなことをしなかった人の方がえらいに決まっています。』
というのは本気で言っているような印象がある。作品を通して彼女は、道を踏み外した人に対して何か特別な思いがあるのか疑ってしまうのである。だが、内容は面白い。私もこうして記事を書いているくらいで、このサイトにある偉人500人の8000の言葉の中に、彼女は選ばれている。それは、私が読んだり観たりして『面白いものを書く人』と認識するからに他ならない。
復讐、エイズ
『余命1ヶ月の花嫁』
一人の女性が送った闘病生活を題材としたノンフィクションで、『イブニング・ファイブ』にて「24歳の末期がん」ドキュメンタリー特集として放送され、放送終了後も大反響を呼び、同年7月17日に特番『余命1ヶ月の花嫁/乳がんと闘った24歳 最後のメッセージ』が高視聴率を記録。そして本が刊行40万部を突破し、その流れの中でこの映画が作られ、その後舞台まで上演された。
- 特集
- 特番
- 本
- 映画
- 舞台
という流れである。末期の乳がんに冒されていたので、本当に一か月で世を去ってしまった。私の父は肝臓がんで、同じように言われて3か月持ったからそういう事もあり得るのだが、一か月だったのである。本当にあった話で関連する人物が大勢いるから不謹慎なことはできないが、このシナリオだけを考えると多くの人の心を動かす注目に値するものではないだろうか。
私もこれを知ったときからこれを見る今の今まで、常に頭の中に焼き付いてた内容である。タイトルを見れば内容は分かるし、私利私欲のことで頭がいっぱいの当時の私からすれば『遠ざけるべき煙たい内容』だ。だが、それと同時に心底ではこの物語から得られるものがたくさんあるとわかっていた。
正直、展開される日本の当時の若者文化といった表層のそれはどうでもいい。これは同じ時代を生きる同年代の人から共感を得るだろうが、そうではない人からはそうはならない。例えば100年後には全く違う目を向けられているだろう。だからそういうソフトはどうでもいい。それは揶揄する意味ではなく、『本質はそこではない』という意味だ。本質たるハードは他にある。『人間の命の重み』。そして、儚く虚しいこの人生を、尊く意義のあるものにするために人間は何をして、どのように生きればいいか、という普遍的かつ不変的な深遠なメッセージがここにあるのだ。
病気、
『招かれざる客』
この映画が出たのが1967年という時代だ。60~70年代というのは、多くの黒人指導者が亡くなったわけである。黒人の公民権運動家の代表格メドガー・エヴァースが暗殺されたのが1963年、マルコムXが暗殺されたのが1965年、キング牧師が暗殺されたのが1968年。ジョン・F・ケネディもその弟のロバート・ケネディも暗殺された。これを見ればこの時代の黒人たちがどのような心境で人生を生きていたかが見えてくるだろう。
だから登場する黒人俳優は、差別的な目を向けられて当然という態度を示し、自然な振る舞いをする。ちなみにこのシドニーポワティエは、黒人俳優としての先駆者的存在のひとりで、男優としては初めてアカデミー主演男優賞を受賞した。KBE(大英帝国勲章)を与えられた人物である。
そこまでの実力者である彼が、差別に慣れているように振舞うのを見ると、黒人差別は大分薄まってきたことと、そして間違いなくそれが濃厚に植えついてしまっていたことがよくわかる。更に知りたいなら、『私はあなたの二グロではない』というドキュメンタリー映画を観ればいい。この時代の彼らや映像を見ることができ、平気で暴力を振るわれている映像も多く見ることができる。
また、アポロ計画とは有人月面着陸についてのアメリカの計画で、こ1961年から1972年にかけて実施されたわけだが、映画『ライトスタッフ』、『ドリーム』などを観ると更にこの時の状況が見えてくるようになる。実はドリームで描かれるように、黒人たちもNASAをはじめとする重要な役職に就いて仕事をしていた。だが、当時を描いたそうした映画の職場には黒人がおらず、その理由をドリームで観ることができる。
招かれざる客。それは『歓迎されない客』ということである。当時の白人と黒人の間にあった距離を見てみたい。
黒人、ゲットアウト
『アルジェの戦い』
第27回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、1966年にイタリアで公開されたこの映画は、アルジェリアのフランスからの独立までのアルジェリア戦争を描いている。アルジェリア戦争というのは、1954年から1962年にかけて行われたフランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争だ。歴史的にも価値のある映画となっている。イタリア人が描くフランスとアルジェリアだから、偏りは少ないはずだ。
『ラストエンペラー』は中国とイタリア、フランス、アメリカ、イギリスが製作したが、そこに描かれる日本の描写は、日本が描くそれよりも公正なものである。あの映画では、私が今まで普通にして日本で生きていたら気づけなかった、かつての日本軍の悪事が描かれている。日本ではそれを公共の電波や学校で積極的に教えることはないが、世界規模の視点を持ち、自分の判断に公明正大な説得力をもたらせるためにも、常に真実は包括的な視野から得た純粋なものでなければならない。
1830年以降、フランスはアルジェリアを支配下に置いた。アルジェリアだけではない。地図を見てみよう。アルジェリアは『北アフリカ』で、エジプトやモロッコなどと同じで、あまりアフリカと言われてもピンと来ないエリアでもある。我々が認識するアフリカは動物と砂漠と黒人たちがいる王国だ。
イギリスとフランスは1700年の後半の産業革命、そして1800年の後半にあった第二次産業革命によって
植民地をもっと増やして商品を売らなければ!
という考えに支配されていた。そういう考えが、当時の資本主義国の頭をよぎっていたのである。そんな中、イギリスとフランスの勢いはけた違いだった。
植民地化させた国
イギリス | 約70か国 |
フランス | 約30か国 |
この詳細については下記の記事に書いたのでゆっくりと確認したい。
そうした経緯の中、特にアフリカ、東南アジアという『弱小国家』とされたエリアの人々は、イギリスとフランスを筆頭とする強国に不平等な関係を強制され、このような現象が起きてしまったのである。だが、第二次世界大戦ももう終わり、世界中で植民地の人々が声を上げるようになる。例えば下記は東南アジアについてまとめた表だ。
列強諸国が植民地から手を引いた年(東南アジア諸国が独立した年)
ビルマ(ミャンマー) | 1948年 |
ラオス | 1953年 |
ベトナム | 1945年 |
カンボジア | 1953年 |
フィリピン | 1946年 |
マレーシア | 1963年 |
ブルネイ | 1984年 |
シンガポール | 1965年 |
インドネシア | 1949年 |
東ティモール | 2002年 |
ベトナム戦争が起きたことで、東南アジアの5か国は結束を強め、1967年、各国は『バンコク宣言』を行い、これが『ASEAN(東南アジア諸国連合)』の始まりとなった。詳細は下記の記事に書いたが、こうしてASEANというEU連合よりも大きな連合体が誕生した。
東南アジアで命を燃やした歴史に残る偉人たちと、唯一独立を守り続けた奇跡の国~ASEAN誕生~ | IQ. (a-inquiry.com)
こうした動きと全く同じ動きが、ここアルジェリアでも起きていたということだ。そしてその描写はとてもリアルであり、緊迫感漂う当時の状況が臨場感たっぷりに展開される。
フランスの歴史、アフリカの歴史、
『パットン大戦車軍団』
実在したアメリカの陸軍大将ジョージ・パットンが描かれる。まず『大将』というのがどのくらいすごいのかということを軍隊の階級制度を見て確認してみよう。
軍隊の階級
大元帥元帥
- 上級大将
- 大将
- 中将
- 少将
- 准将
- 代将
- 上級大佐
- 大佐
- 中佐
- 少佐
- 尉官
- 上級大尉
- 大尉
- 中尉
- 少尉
- 准士官
- 准尉(兵曹長)
- 下士官
- 上級曹長(上級上等兵曹)
- 曹長(上等兵曹)
- 軍曹(一等兵曹)
- 伍長(二等兵曹)
- 兵長(水兵長)
- 上等兵(上等水兵)
- 一等兵(一等水兵)
- 二等兵(二等水兵)
組織のトップに大元帥元帥、通称『元帥』という役職があり、その下に『上級大将』というものがあるが、これは国によって存在しない場合もある。したがって、元帥の次にいるのが大将。元帥が、本部で国のトップらと直接つながって軍隊全体の指揮を執るのに対し、大将というのは『現場の大親分』に近い。したがって、軍人からすれば元帥というのは『実態のわからない雲の上の人』であり、『雲の位置にいて常に指揮・指導・管理』する大将の方が怖いのである。
パットン大将というのはTHE軍人のような人間であり、戦争に生き、戦争で死ぬことを覚悟したようなその心構えには『軍神』という名も相応しいように見える。その愚直さゆえに逆に言えば『大将どまり』の人間で、考え方に柔軟性はない。だが、猛進するエネルギーは誰にも負けないということで、彼は大将として異彩を放っているのである。彼の息子もその後の朝鮮戦争等で『少将』として指揮を執った。
第二次世界大戦の運命を決めた『ノルマンディー上陸作戦(1944年6月6日)』。これは、200万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディー海岸に上陸した。現在に至るまで歴史上最大規模の上陸作戦である。
実はこの作戦が成功した陰には、パットン大将の存在があった。いや、彼が直接ここに大きく貢献したわけではない。映画で出てくる内容は、そのまま『ノルマンディー上陸作戦』のWikipediaのページにも書いてある。
イギリス側が上陸を仕掛ける地域を、カレー、ノルマンディー、ブルターニュのいずれかであると推定していた。しかし連合軍の欺瞞作戦により、カレーが上陸地点であると考えるようになった。また『パットン軍団』の存在を重視し、同時多発上陸計画が存在すると確信していた。
つまり敵国であるドイツ側は、パットンという男を非常に警戒して彼の動きをマーク。それによって惑わされ、フランスのカレーなどのエリアに注目。そうした意識の分散作戦が成功し、彼らはノルマンディーに上陸することができたのだ。
したがって、作中で敵国がパットンを高く評価する内容があり、この映画が1970年に作られ『冷戦真っただ中』という状況にあったことを考えると、アメリカ人を鼓舞するための誇大演出があると疑いがちだが、あながち彼という人物はその地位も実力も、世界的に存在感のある人物だったと言わざるを得ないのかもしれない。
非凡、ある指揮官の後ろ姿(クリムゾンタイド)、冷戦
『突撃』
フランス軍のブルラール大将はドイツ軍の堅牢な陣地、俗称『アリ塚』を陥落させようと画策し、ミロー大将の師団に攻撃を命令する。このように、『この陣地を取れば戦況がこちらに優位になる』という話は覚えておいたほうがいい。様々な戦争映画によく出てくるシチュエーションだ。往々にして、そこを取るために命がけで戦い、多くの人が命を失われる。『戦争の最前線』として多くのドラマが生まれる舞台でもあるので、スポットライトが当てられやすいのだ。
情報というものは包括的に集めなければ実態が見えないわけで、この1957年の『突撃』と並び『フルメタルジャケット』も「反戦映画」と称される事があるが、キューブリック監督自身にはいずれにも「反戦映画」という意識はなく、脚本家マイケル・ハーはキューブリックから「戦争そのものを映画にしたい」という企画意図と『突撃』が「反戦映画」と見なされていることに対する落胆を聞いているという。
これは『フルメタルジャケット』のWikipediaにある情報だが、しかし実はキューブリックのWikipediaページには『反戦映画の突撃』とある。動画配信サービスにも『反戦映画の名作』とあるが、恐らく彼のことだから『反戦映画ではない』というのが正解だろう。なぜそう言えるのかというと、『時計仕掛けのオレンジ』の宣伝コピーを、
『レイプとウルトラ暴力とベートーベンがオレの生きがい。』
というセンセーショナルなものに作り上げた時の話だ。この映画に触発され、犯罪に走る若者が増えた。だがキューブリックはこう答えた。
『芸術家は作品の芸術性にだけ責任を持てばいい』
彼は人間の持つ『生のカオス』にスポットライトを当てたかったらしく、その他と違うある種非常識な考え方があるからこそ、彼の作品は異彩を放つのである。
第一次世界大戦、あの山を取れ(二百三高地、父親たちの)
『続・夕陽のガンマン』
クリント・イーストウッド主演、セルジオ・レオーネ監督作品のマカロニ・ウェスタン3作品の一つ。『ドル箱三部作』と言われるこれらは、
- 『荒野の用心棒』(A Fistful of Dollars、1964年)
- 『夕陽のガンマン』(For a Few Dollars More、1965年)
- 『続・夕陽のガンマン』(The Good, the Bad and the Ugly、1966年)
最初の2作のタイトルに「ドル」(Dollar)が入っているのでそう呼ばれているようだ。これらの映画はWikipediaに『続編』として、つまり『2』として繋がって紹介されているが、全く繋がっていないのでややこしい。監督と主演が同じで繋がっているように見え、繋がっていたり繋がっていなかったりしてよくわからないので、そこだけがこのシリーズの失敗したところだ。もちろん、邦題をつけた日本人の失敗だろう。
一つ一つはとても面白い。だが、もう60年も前の話で部隊も荒野で武器も当時のものなので、これらはいずれ現在における『白黒映画』のような過去の遺物という位置づけになってしまうだろう。ただ一つ言えるのは、この手の映画を現代版にリメイクしても、オリジナルは超えられないという奇妙な現象があるということだ。だとしたら、この『不鮮明な過去の遺物』の状態にこそ、歴史的な意味があるのかもしれない。
『続・荒野の用心棒』
『続・荒野の用心棒』(ぞく こうやのようじんぼう、原題 Django)は、1966年のイタリアの映画。セルジオ・コルブッチ監督。クリント・イーストウッド主演、セルジオ・レオーネ監督作品のマカロニ・ウェスタン3作品は
- 『荒野の用心棒』(A Fistful of Dollars、1964年)
- 『夕陽のガンマン』(For a Few Dollars More、1965年)
- 『続・夕陽のガンマン』(The Good, the Bad and the Ugly、1966年)
で、その『荒野の用心棒』と同じように見えるが、原題を見ると『A Fistful of Dollars』と 『Django』なので大きく違うことがわかる。これは邦題をつけた日本人が間抜けとしか言いようがない。当時、このあたりの言葉を使ってれば『よくわからないけど面白そうだ』とでもなったのだろう。その時の歪みが残ってしまっている。
それならタランティーノのように『ジャンゴ』というタイトルをつけた方がいい。正当な続編ではないが本作に影響を受けたクエンティン・タランティーノが「Django Unchained」(邦題 ジャンゴ 繋がれざる者)を作った。「Django」で使用されたエンリオ・モリコーネの劇中曲を採用し、本作で主演のフランコ・ネロも端役で出演している。
この映画は喧嘩シーンのリアリティがすごい。60年も前なのにチープさというよりは、むしろ原始的な不変の迫力が伝わってくる。 いつの時代もエネルギッシュな人間たちがいたということを再認識させられる。
ジャンゴセット
『夕陽のガンマン』
クリント・イーストウッド主演、セルジオ・レオーネ監督作品のマカロニ・ウェスタン3作品は『ドル箱三部作』と言われる。これは普通に考えれば彼らのコンビがたくさん稼いだのだと思うだろう。私だってそう考えてしまう。
- 『荒野の用心棒』(A Fistful of Dollars、1964年)
- 『夕陽のガンマン』(For a Few Dollars More、1965年)
- 『続・夕陽のガンマン』(The Good, the Bad and the Ugly、1966年)
というこの映画の原題を見ればわかるように、最初の2作のタイトルに「ドル」(Dollar)が入っているのでそう呼ばれているようだ。また、『マカロニウエスタン』とは、『イタリア人が作ったアメリカの西部劇』で、実際には『スパゲッティウエスタン』だった。それを映画評論家の淀川長治が「スパゲッティでは細くて貧弱そうだ」ということで「マカロニ」と呼び変えたと言われている。
この3つは全て続編として続くわけだが、名前がジョーだったりモンコだったり、何が続きで何がそうじゃないかがわからない。その辺りの問題が解決すれば、一つ一つのエネルギーは感じられるので見応えがある作品だ。
西部
『ブレイド2、3』
ブレイドシリーズを一挙に見てしまおう。2,3で劇的に話が変わるわけでもないので、これらを3つ揃って観ることで6時間もエンタメな時間を満喫することができる。
2は暗黒の騎士(ダークナイト)
『マッドマックス2,3』
1がヒットしたことで、約10倍の費用をかけて製作されたというこの作品。これでようやく製作者側が本当に描きたかった世界が描けるというわけだ。だが、世界はそう簡単じゃなく、実際には『ギリギリの状態で作られた一度目』の方が良かったりする。ゲームでも映画でも、1を超えることなく終わってしまうものもたくさんある。今回の売り上げで考えても、1が$99,750,000に対し、今回は$23,667,907とある。3分の1以下に終わってしまっている。
確かに今回でマッドマックスの世界が急変する。オーストラリアの荒野から、荒野や荒野でも『核戦争後の荒廃した世界』が舞台となっているので、『風の谷のナウシカ』や『ウォーターワールド』と同じ世界となる。事実『ウォーターワールド』は主要なインスピレーションとしてマッドマックス2を引用した映画で、脚本を書いたデヴィッド・トゥーヒーもマッドマックス2のファンだったのでそのことを認めているという。私はこの映画とそれを観て、
マッドが砂漠で、ウォーターが水か・・
という感想を持ち、『地球荒廃後の世界』というセットでこの2つの映画をまとめていたのだが、今調べると実際にウォーターワールドがこの映画に影響を受けていたというので、似ていたのは当然だったことになる。『北斗の拳』にも影響を与え、この時代を生きる人々からすれば伝説的なインパクトがあったことは間違いないだろう。
シリーズの第3部に該当する『マッドマックス/サンダードーム』では、売り上げも$36,230,219まで伸びる。だが最初の売り上げと比較すればわかるように、パワーダウンしたことは紛れもない事実だろう。更に、2で出てきたキャラクターが3でも出てきているように見えるが別人だったりと、何だかよくわからない。『1』がMAXだったのだろう。
- パワーオブワン
- ワーキングガール
- マイフレンドフォーエバー
- 普通の人々
- スリングブレイド
- ピアノレッスン
- ダンサーインザダーク
- チョコレートドーナツ
- ライフイズビューティフル
- ニューシネマパラダイス
タイタニックでもレオンでもそうだけど、一発作品で強いのはたくさんあって、でもそれが2や3に発展すればどうなるか分からないところが本音だ。
『炎のランナー』
走ることによって栄光を勝ち取り真のイギリス人になろうとするユダヤ人のハロルド・エーブラムスと、神のために走るスコットランド人牧師エリック・リデルという、実在の二人のランナーを描いている。時は1919年。そして1924年パリオリンピックが舞台だ。音楽がとても有名で、アスリートが活躍するイベント、オリンピックなどでこのBGMを聞いたことがある人は、世界中に大勢いるだろう。
当時の時代背景の中で権威主義的排他的なイギリスを描きながらもイギリス的尊厳を彫り込んだ作品になっているということなので、イギリスの歴史を垣間見る映画としても重要な作品となるだろう。戦争、貴族、アスリート、庶民、色々な角度から描かれる映画を観ることで、総合的に考えた時その実態の把握が正確になる。
音楽、実話、イギリスの歴史
『恋人たちの予感』
この映画でのメグライアンの、カフェでの『喘ぎシーン』は有名なシーンだという。確かに私も2000本近く映画を観てこれと同じようなシーンがある映画を観たことはないので、目立つシーンだった。それと個人的には挿入歌の『トマト、ポテト』というルイアームストロングの歌がお気に入り。何だかこの映画の雰囲気はとてもいい。また、この映画をクリスマスの映画として認識されることは少ないだろうが、最後にクリスマスのシーンがあれば皆クリスマス映画になる。
テーマとしてもそれにふさわしい。この映画の中で過ぎる時間は10年以上。つまり『そのクリスマス』にたどり着くまでに10回のクリスマスを過ごすわけだが、そこまでの過程が物語を盛り上げるのだ。誰もが自分の運命の伴侶を探し求めている。『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。
喜劇作家であるアリストパネスは演説でこう言った。
『かつて人間は二つの肉体が背中合わせとなった存在であった。』
一体となっている二つの肉体のどちらも男である場合、どちらも女である場合、そして男と女である場合(両性具有=アンドロギュロス)があった。残念なことに、ゼウスの決定により、彼らの肉体は二つに分断された。それ以来、私たちは分離されてしまった片割れを求めている。元の肉体の組み合わせにより、求める片割れは男もしくは女である。アリストパネスによると、この探究こそが私たちが愛と呼ぶものである。愛とは、失われた原初の結合を回復しようとする欲求である。愛によって自分と一体であるべき片割れを見つけ出し、私たちの本来の姿を完全に回復できた時、私たちは最高の幸せを手に入れることが出来る。
アリストパネスの話はもちろん神話だが、今よりもうんと知識も事実も明確じゃ無い頃から、我々はこの『不思議な吸引力』について、神がかり的で謎めいた奇跡を見出していた。
クリスマス、こじれた恋愛、屁理屈、運命の相手
『オール・ザット・ジャズ』
監督であるボブ・フォッシー監督の自伝的作品。何が何だかよくわからないものを見せられたという人も多いはずだ。過激なシーンが多いのでエネルギーは感じるのだが。
『NINE』
名作と名高い『8 1/2』をミュージカル調にして映画化した作品。とにかくそのキャストがすごい。
- ダニエル・デイ=ルイス
- マリオン・コティヤール
- ペネロペ・クルス
- ジュディ・デンチ
- ファーギー
- ケイト・ハドソン
- ニコール・キッドマン
- ソフィア・ローレン
豪華絢爛である。だが、私はそもそも『8 1/2』や『市民ケーン』の良さが分からないのでこの映画もよくわからなかった。だが、最後のシーンにはどこか哀愁たる面影を覚えた。
ミュージカル、豪華キャスト、82/1
『ムーラン・ルージュ』
この映画でニコールキッドマンが歌う『ダイヤモンドは女の親友』という歌は、かなり聞き捨てならない言葉である。ネガティブなことではない。聞き捨てならない、つまり軽はずみに無視できない話ということである。それは、『花の命は短い』ことをよく理解しているすべての女性の、よく知るところではないだろうか。私は、某有名な『バラエティの女王』が30歳になったとたんに『干された』のを目の当たりにした。
まさかあの女優が干されるとは。こうも年齢の壁というのは大きいのか。確かに彼女以降に登場した女性は皆フレッシュで、若い女性は星の数ほどいるということを思い知ったのである。ニコールキッドマンも絶世の美女で、『観るべき名作映画』の大体に彼女が登場するほどの名優。中には、『ビリーバスゲイト』だったりこれだったり、その美貌の美しさだけで選ばれているような映画もあり、だとすると、それは『期間限定』を意味し、その儚さと、彼女が劇中で歌う歌が妙に深く突き刺さり、感慨を覚えたのである。一つ言えることは、ニコールキッドマンの美貌がより光り輝いて見えるのは、
- ムーランルージュ
- コールドマウンテン
の2つだということだ。
ミュージカル、病気、儚い恋、結核女と才能男子(風立ちぬ
『グリース』
同名ミュージカル『グリース』を原作とした1978年の学園ミュージカル映画で。ジョン・トラボルタは『サタデーナイトフィーバー』といいこれといい、中年になってからの重鎮ぶりとは違い、完全に若者代表のキレのある動きと声色を魅せている。私はミュージカルは好まないが、『レ・ミゼラブル』でそのイメージを完全に一新させられる。では、『マンマミーア』や『ロックオブエイジズ』はどうかというと、それは特にそうでもない。したがって、ミュージカルにも当たり外れがあるのだ。『イントゥザウッズ』など史上最低だった。
ではグリースはどうか。これは相当いい。ユニークなダンスとコミカルな動きからは、若者のエネルギッシュなパワーを感じるし、全体的にかなりハッピーだ。ジョン・トラボルタの代表作として、私はサタデーナイトフィーバーよりもこっちを挙げたいくらい、前向きで明るく、価値のある映画だ。ちなみにこの映画の前日譚が、Netflixによって描かれるという。
ミュージカル、ダンス(フットルース、フラッシュ)
ファントム・オブ・パラダイス』
『オペラ座の怪人』『ファウスト』『ノートルダム・ド・パリ』『ドリアン・グレイの肖像』などの古典を元にしたロックンロール・ミュージカルなので、それについて造詣が深い人が観れば楽しい映画となるだろう。知らない人からするとチンプンカンプンだ。
『ウエスト・サイド物語』
この名作映画を観た時、(ロミオとジュリエットに様子が似てるな)と思ったので、その2つを『ロマンチックで危険な恋』というレシピで、セットで紹介していこうと今の今まで考えていた。しかし、今調べると、ウエストサイドストーリーの原作は、まさにシェイクスピアのその『ロミオとジュリエット』を元にした、レナード・バーンスタインの音楽による同名のブロードウェイ・ミュージカルだという。
この映画は、1963年5月17日まで511日にわたるロングラン上映となり、前年の『ベン・ハー』を凌ぐ記録だという。そしてそれは2012年9月15日に公開された『祈り〜サムシンググレートとの対話〜』が1192日のロングラン記録を達成するまで更新されなかったという。だがそれは、1位の記録を持つ2015年(平成27年)7月1日に公開された日本映画『未来シャッター』然り、
なんやねんその映画
ということなので、『ベン・ハー』と聞くとインパクトがあるが、あまりよくわからない結果になってしまっている。だが、そういうことは抜きにしても、やはり根幹にシェイクスピアがいるということも手伝って、クオリティは高い。そこにミュージカルという要素を取り入れたことで、唯一無二の境地を得ているのである。
不良、ミュージカル、ロマンチックで危険な恋(ロミジュリ)
『叫びとささやき』
1973年のスウェーデン映画で、実に様々な賞にノミネートあるいは受賞している。ではその内容を見てみよう。
賞 | 部門 | 候補 | 結果 |
---|---|---|---|
アカデミー賞 | 作品賞 | イングマール・ベルイマン | ノミネート |
監督賞 | ノミネート | ||
脚本賞 | ノミネート | ||
撮影賞 | スヴェン・ニクヴィスト | 受賞 | |
衣裳デザイン賞 | マリク・ヴォス | ノミネート | |
ゴールデングローブ賞 | 外国語映画賞 | ノミネート | |
カンヌ国際映画祭 | フランス映画高等技術委員会賞 | イングマール・ベルイマン | 受賞 |
英国アカデミー賞 | 撮影賞 | スヴェン・ニクヴィスト | ノミネート |
助演女優賞 | イングリッド・チューリン | ノミネート | |
ゴールデン・ビートル賞 | 作品賞 | 受賞 | |
主演女優賞 | ハリエット・アンデルセン | 受賞 | |
特別業績賞 | スヴェン・ニクヴィスト | 受賞 | |
ボディル賞 | 非アメリカ映画賞 | 受賞 | |
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 | 外国監督賞 | イングマール・ベルイマン | 受賞 |
特別賞 | ハリエット・アンデルセン イングリッド・チューリン リヴ・ウルマン カリ・シルヴァン |
受賞 | |
ナストロ・ダルジェント賞 | 外国監督賞 | イングマール・ベルイマン | 受賞 |
全米映画批評家協会賞 | 作品賞 | 3位 | |
監督賞 | イングマール・ベルイマン | 3位 | |
主演女優賞 | ハリエット・アンデルセン | 2位 | |
助演女優賞 | 4位 | ||
脚本賞 | イングマール・ベルイマン | 受賞 | |
撮影賞 | スヴェン・ニクヴィスト | 受賞 | |
ニューヨーク映画批評家協会賞 | 作品賞 | 受賞 | |
監督賞 | イングマール・ベルイマン | 受賞 | |
主演女優賞 | リヴ・ウルマン | 受賞 | |
ハリエット・アンデルセン | 次点 | ||
脚本賞 | イングマール・ベルイマン | 受賞 | |
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 | 監督賞 | イングマール・ベルイマン | 受賞 |
外国語映画賞 | 受賞 | ||
カンザスシティ映画批評家協会賞 | 監督賞 | イングマール・ベルイマン | 受賞 |
外国語映画賞 | 受賞 |
だが私の場合、ちょっとよくわからなかった。
『イヴの総て』
男性の成り上がり映画はいくつもあるが、女性のそれは少ない。それは往々にしてテストステロンという男性ホルモンが関係している。このホルモンは女性には男性の20分の1ほどしかなく、代わりにあるのはエストロゲンやプロゲステロンといった女性ホルモンである。したがって、これらを故意に注射して濃度を上げることによって、髭が生えたり、怒りっぽくなったり、そういう現象が起きるわけだ。性転換の際にも必ず考えるポイントとなる問題である。
このテストステロンというのは『男性らしさ』の元であると言えるだろう。実は、街中でクラクションを鳴らす人間の9割以上が男性で、その他傷害罪などの暴力行為、そして、弁護士などでバチバチに『戦う』ために必要な要素の一つが、このテストステロンなのである。したがって、女弁護士やキャリアウーマンといった男性顔負けの女性たちには、テストステロンの濃度が高いと言われている。これが、男性の成り上がり映画はいくつもあるが、女性のそれは少ない理由の一つだ。
そしてそれは、実際にキャリアアップしていこうとする女性にとっては都合がいい話だ。なにせ、常に自分の都合のいいような『勘違い』を、勝手に周りがしてくれるのだから。それで競争優位性を得れば、展開はなるべく自分の思い通りになる。
成り上がり、
『エデンの東』
エデンの東は、ジョン・スタインベックが1952年に発表した長編小説。旧約聖書の創世記におけるカインとアベルの確執、カインのエデンの東への逃亡の物語を題材に、父親からの愛を切望する息子の葛藤、反発、和解などを描いた作品である。ジェームズ・ディーンはこの映画で初めて映画に出て主演。そしてこの作品で名実ともに一躍スターの地位を不動のものとした。
『理由なき反抗』のレビューに書いたのだが、彼の当時の23、24歳という年齢、そして映画初出演ということを考えると、才能の塊としか表現しようがない。私は他の人がいいとか、名作として有名だという理由で映画や人を褒めることはなく、むしろそういう浅薄な人を今言ったように『浅薄だ』と揶揄する側である。その私が言うのだ。そしてその援護射撃をしてもらおうとして確証バイアス的に情報を集めると、
『さよなら、さよなら、さよなら』
で有名な「シュワちゃん」の名の生みの親、淀川長治は、父に豆相場で儲けた大金を贈ろうとして父に拒絶されるシーンで
「身体中から悲しみの声を振り絞り、男泣きに泣き出してしまうところのディーンのセリフと演技は、まさに彼の他にあれだけ悲劇的な詩情を匂わせる役者はいない」
と語っていたという。そう。『理由なき反抗』で見せた彼とは全く違う色の彼を演じられるあたり、そこに『才能がある』と言わざるを得ないのである。
名作、確執
『理由なき反抗』
伝説の俳優ジェームズディーンの演技を見るのはこれが初めてだった。ディーンは、本作公開の約1ヶ月前に交通事故により死去した。まだ24歳という若さだった。彼が伝説ということについて、椎名林檎は暗にこう述べている。『若くして死んだ人は伝説になる』と。これは、hide、尾崎豊、シドヴィシャスなどもそれに該当することになるだろう。だが、伝説になる要素はそれだけじゃなく、実力や才能もそこに加味されるべきである。ここに挙げた者は全員それを持ち合わせていたと言えるだろう。
ではジェームズディーンはどうか。私はここまでに1800本の映画を観たが、その私からすると、かなりの才能があると言っていいだろう。年齢は考えなければならない。そして、同じ時代にあった他の映画や当時の時代背景も考える必要がある。当時のことを詳しく知るわけではないが、同じ1950年代の映画をいくつも観ているが、それらに登場する役者たちと彼の演技を比べてみても異彩を放っている。
いや、カリスマ的に光り輝いているとまでは言わないのだが、明らかに才能があるのがにじみ出ているのである。『こなしている』。そういう印象を得る。そしてそれはもちろん違う作品を観て確信に至るわけだ。この後に『エデンの東』を観たのだが、そこでの彼はこの映画の彼と違う表情を見せていた。この男、現代を生きていたらいったいどのような映画に出演し、どのような演技をしてみせたのか。そんなことまで想像させる、稀代のタレントである。
不良、10代
『戦場にかける橋』
題名の「戦場にかける橋」とは、タイ王国のクウェー川に架かるクウェー川鉄橋を指す。この映画の原作者ピエール・ブールは、1943年に日本軍の捕虜となり、1944年に捕虜収容所を脱走し、イギリス軍の水上機で脱出している。この映画に彼の名前を持つ人間は出てこないが、この作品の内容に瓜二つの過去を経験していることから、その小説が自己の体験に基づき書かれたものであり、それを基に作られ、脚色されたこの映画の本質には、真実が含まれていることになる。
捕虜が奏でる口笛の音色『クワイ河マーチ』があまりにも有名で、これを知らない人は、ビールか何かのCMの音楽かと思うだろう。それくらいよく耳にする曲であり、それがこうした危機的状況で歌われたものだとは想像できないだろう。ちなみに、この後に1989年にイギリスで制作された映画『戦場にかける橋2/クワイ河からの生還』(原題:Return from the River Kwai)は、原題・邦題共に本作の続編であるかのようなタイトルだが、実際には無関係の作品で、本家権利元から商標侵害について訴訟を受けているという。
そのようにして思わずおこぼれを貰いたくなるほどインパクトのある一作だと言えるだろう。この映画によって、『イギリス人は日本人に捕虜にされた』という事実が印象付けられたのではないだろうか。その他、『レイルウェイ』、『戦場のメリークリスマス』、『アンブロークン』なども同じ状況であり、ぜひこれらの作品すべてを見て、当時の状況をなるべく正確に把握したい。
BGM口笛、レいるウェイ、戦めり、橋を壊せ(アンナと王様、族夕陽のガンマン)
『裏窓』
この女性役の俳優に妙に違和感を覚えたのだが、彼女がグレースケリーであるということは調べてわかった。私が観慣れている彼女は下記の写真なので、これとはちょっと違う印象を覚えたので、違和感だけしか得られなかったようだ。要は、少し斜めになっているだろう。この映画では彼女の全体が見えるが、彼女の輪郭はもう少し『四角形』に近いので、『顔がでかい』とまではいかないが、小顔で三角形の華奢な女性の印象というよりは、少しがっしりした印象を持つ。このポスターを見ればその感じが少し伝わるだろう。
しかし、それを踏まえても美女は美女だ。この映画の一つの見どころがグレースケリーだと言っていいほどである。また、男役が『素晴らしき哉人生』のジェームズ・スチュアートであるからして、これは豪華共演が楽しめる映画と言えるだろう。
さて内容だが、時代限定のシナリオと言ってもいい。他にこのような切り口の映画を観ないので新鮮さはあるが、一度観ればもう違う映画で同じような手は使えないというような、そういう印象である。そういう意味で、『サイコ』で有名なヒッチコックが監督ということもあり、この当時の初見インパクトは大きく、当時の人からすれば十分見応えのあるサスペンスだっただろう。1954年の映画である。
豪華共演
『危険な関係』
やはり私が苦手とする不倫の話なので、あまり感想は出ない・・
不倫
『蜘蛛巣城』
シェイクスピアの戯曲『マクベス』を黒澤明がリメイク。正直、この作品の映像があまり好きではなかった。基本、日本の時代劇を幼少期に祖母か何かの影響で観すぎたこともあって、ちょんまげなり、着物なり、そういうものに拒絶反応が。海外の人は逆に新鮮で唯一無二だから美しいと感じるだろうが、彼らとて見過ぎた地元の国の時代劇を見るのに飽きた人も大勢いるはずだ。
だが、この作品はその他の時代劇とは一線を画す。やはり黒澤明という人物は実力者なのだということを、自然と理解する映画となっている。私のように一歩距離を置き、冷めた目で見る、正直なことを言おうとする人間にこう言わせるのだからすごい。原作の世界観に能の様式美を取り入れているところは別にどうでもいい。能も、歌舞伎も、一度も観に行ったことはない。それが正直な感想だ。
だが、亡霊が出てくるシーンや、ラストシーンなど、私をテレビの真正面に黙って座らせるだけの迫力と異質な雰囲気を見事に作り上げている。そして、実は調べて今知ったのだが、ラストに主人公の三船が無数の矢を浴びるシーンがあるのだが、このシーンは実際に三船やその周囲めがけて本物の矢を射って撮影したという。いや、確かに私も
これはどうやって撮影してるんだ・・
と思いながら観ていたのだが、まさか本当に射ていたとは。細部までこだわるのが黒澤明だとは知っていたのだが、まさか本当に射っていたとは知らなかった。だとしたらこれは衝撃的な映画だ。ここまでやるから人の心をわしづかみにする。海外ではシェイクスピアの映画化作品で最も優れた作品の1つとして評価されている。
シェイクスピア、衝撃
『ジュリアス・シーザー』
ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の映画化作品。ただ、この話はシェイクスピアの名作というよりは史実を描いているわけだ。
『ブルータス、お前もか!』
もシェイクスピアの空想話ではなく、歴史の専門書にも普通に出てくることだ。占い師だとか、悪夢を見た妻カルプルニアだとか、そういうこともすべて専門書に出てくる。だからこれは単に、紀元前44年のローマ帝国の重要なワンシーンを描いた、歴史的資料に等しい。
シェイクスピア、名作、
『ハムレット』
『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ』
という言葉の真意をついに理解する時がきた。この言葉が『誤訳だ』という検索結果が多く出ていて、本当は 『このまま生きるべきか否か』 という翻訳が正しいというのが前後の文脈で判断できるという。そしてその記事の人の感情が入って 『そもそも死ぬってなんだよ死ぬって』 とある。物語の全体的な文章が入っていて、更に演劇に詳しそうな人なので、この人の説得力があるように見える。だがこの1948年の映画を観ると、ハムレットはこういう言葉を言っている。
『自殺を禁じた神が恨めしい』『この世は何と卑しく‥』
敬愛していた父が死に、すぐに母が叔父と再婚した現実に嫌気がさし、ハムレットは間違いなく 『この人生に生きる魅力を感じない』 と考える。一語の誤訳ではなく、全体的にそういう方向で話が進む。そして、父の亡霊を見るが、護衛が『死後の世界に連れていかれる』と心配する中、ハムレットはその心配を振り払い、亡霊の元に歩いていく。ここでみられるのは、
- 護衛:保守的な一般人
- ハム:革命を求める人間
という対比である。つまり、例えばハムが自分の地位などにしがみついて命が惜しければ、わざわざ冒険はしない。するのは、現状の人生が取るに足らないものだと感じていたからである。最悪、死んでもよかったのだ。だからこの記事の筆者の 『死ぬってなんだ』 という言葉は、あまり信憑性がない個人的なものであり、この言葉の真意には関係ない。
映画でこの言葉を言うシーンでは、ハムは断崖絶壁にいる。どちらにせよ、彼が死を意識していたことは間違いなく、これは誤訳ではなく、この一行で見て分かるそのままだと解釈しても問題ないだろう。 ソクラテスは言った。
『”死”は”終わり”ではない。”解放”である。』
モンテーニュは言った。
『賢者は、生きられるだけ生きるのではなく、生きなければいけないだけ生きる。』
ソクラテスはこうも言った。
『わたしは、善いことかもしれない死を、はじめから、よくわからないのに恐れて逃げることは絶対にしない。』
『生に執着しない』言葉はこの世にもっとたくさんある。演劇『だけ』しか観ていない人では包括的な視野の上に成り立つ真実の洞察はできない。私が7年前に内省したモンテーニュのその記事では、 『目の前で子供が車に轢かれそうになるシーンを見た』時の話で考えている。 『見て見ぬふりをして生き永らえるか、死を覚悟して子供を救うか』 全ての人間が問われる問題であり、それがモンテーニュの言葉の真意である。
つまり、『ハムレット』の物語だけで考えてもこの言葉は『生と死の両方を考えている人間の言葉』である。 そうじゃないシーンで断片的に考えても、あらゆるシーンに通用する感慨深い哲学的な言葉である。
名作、復讐。シェイクスピア
『波止場』
1954年という古い映画としては中々見応えがある。男が巨大組織に立ち向かい、信念を貫くという行為は不変的な価値があるものである。それはもちろん男というだけではない。『スポットライト世紀のスクープ』、『インサイダー』、『ニュースの真相』などで巨大組織(カトリック教会、巨大タバコ企業、国家)に立ち向かう男女の姿を見ることができるが、それらも全く同じで、価値があるものだ。
この場合でピックアップするならば、彼は元ボクサーのチンピラということ。そうなると、チンピラで終わるか、大物マフィアになるか。それとも、マフィアにそもそも大物などいないか。そういった男としての哲学と、人間としての生きる哲学がこの話に介入することになり、その大きな人間の決断が、見ている人の心を揺り動かすことになる。
したがって、彼が最後に取る行為に大勢の人が注目することになる。ゴッド・ファーザーで有名なマーロン・ブランドは「20世紀最高の俳優」と言われるが、そのいわれるゆえんが垣間見える力作と言えるだろう。
巨大組織、アウトロー
『悪魔のような女』
「鑑賞後、ストーリーを決して口外しないように」。こういうテロップが流れるこの映画は、そこが一つの見どころである。このタイトルのインパクトもすごい。何とも、現代版で、これとは全く違うストーリーでこのようなタイトルの映画をやってほしいものである。最近の映画にそういうものはないので、新鮮な感覚になるだろう。展開としては、『古畑任三郎』などそうした類の映画でよく見かける内容である。
そういう意味でも、やはり古い映画というのはそれだけ現代人にとってはチープに映る。(これが何で高い評価なの?)という感想を抱く。当時からすれば斬新で怖かっただろう。それは、フォード車のようなクラシックカーが『最新』だったころのその感覚に等しい。我々は現代のハイクオリティな車に乗り慣れているので、古い車に乗ってもクラシック的な価値以外に価値を見出すことはできない。
だが、こうした映画が映画人に影響を与え、クリエーターに影響を与え、そうやってリレーのように繋いで、紡いで、例えばその『古畑任三郎』などに繋がってるはずだ。そういう敬意を持ちながら、過去の作品に触れたい。
『奥さまは魔女』
『奥さまは魔女』の魔女には、どこかキュートな印象がないだろうか。『うる星やつら』とは、浮気者の高校生・諸星あたると、彼を愛する一途な宇宙人美少女・ラムちゃんを軸に描かれる物語だが、魔女や宇宙人といった恐ろしげな存在も、『人間の男性を一途に愛する』という健気なポテンシャルを持っていて、かつ容姿が人間の好みの範囲内に収まる場合、なぜか許せてしまうものである。
それどころか、愛らしい。それは、拒絶するこの彼にも伝わるだろうか。そこが一つの見どころである。
魔女、魔法
『深夜の告白』
1944年の映画にしてはかなりよくできていると言える作品だ。ここまで古いと正直何もかもが低クオリティに見えてしまうが、そういうことを考えてもなかなか見応えのある映画である。いつの時代も、金と女には注意が必要だ。なぜか。それはそもそも、男が金と女を過小評価してしまうからである。自業自得というものだ。例えば相手がマフィアの大ボスであれば、安易に近づくだろうか。近づかないのなら、人は差別している。だからそれらをきちんと正当評価している人間には当てはまらないのである。
では万人はどうか。その意味で、多くの人の背筋を凍らせることになるだろう。
その女に注意(きょうめろ