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目次
- 2020年
- 『愛と哀しみの果て』
- 『ワーキング・ガール』
- 『レニー・ブルース』
- 『ビリー・ザ・バスゲート』
- 『プレイス・イン・ザ・ハート』
- 『スティング』
- 『大いなる遺産』
- 『オーロラの彼方へ』
- 『エド・ウッド』
- 『お買い物中毒な私』
- 『聲の形』
- 『七人の侍』
- 『しあわせの絵の具 / 愛を描く人 モード・ルイス』
- 『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』
- 『ウォール・ストリート』
- 『紀元前1万年』
- 『しあわせの隠れ場所』
- 『バベル』
- 『グッドナイト・グッドラック』
- 『あなたを抱きしめる日まで』
- 『きみがぼくを見つけた日』
- 『ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命』
- 『17歳の肖像』
- 『リーサルウェポン4』
- 『プラネタリウム』
- 『それでも恋するバルセロナ』
- 『エリザベスタウン』
- 『ミッドナイト・ラン』
- 『フレンチ・コネクション』
- 『俺たちに明日はない』
- 『チャイナタウン』
- 『Mr.ビーン カンヌで大迷惑』
- 『ミッドナイト・サン 〜タイヨウのうた〜』
- 『HACHI 約束の犬』
- 『イエロー・ハンカチーフ』
- 『つぐない』
- 『ジャッジ 裁かれる判事』
- 『小説家を見つけたら』
- 『マザー・テレサ』
- 『ギター弾きの恋』
- 『イングリッシュ・ペイシェント』
- 『us』
- 『スペースウォーカー』
- 『フォー・ウェディング』
- 『ユー・ガット・メール』
- 『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』
- 『ボーン・コレクター』
- 『ノッティングヒルの恋人』
- 『フェンス』
- 『ビッグ』
- 『シングルマン』
- 『ブレイド』
- 『MAD MAX』
- 『コマンドー』
- 『ALI』
- 『追跡者』
- 『僕はラジオ』
- 『ザ・ダイバー』
- 『エリン・ブロコビッチ』
- 『7月4日に生まれて』
- 『レッド・ブロンクス』
- 『キル・ビル2』
- 『キル・ビル』
- 『死亡遊戯』
- 『ドラゴン怒りの鉄拳』
- 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝/アイアンモンキー』
- 『酔拳2』
- 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱』
- 『ナチス侵攻』
- 『アーティスト』
- 『あるスキャンダルの覚え書き』
- 『アイ・アム・サム』
- 『クレイジーハート』
- 『イルマーレ』
- 『きみに読む物語』
- 『スリングブレイド』
- 『シリアスマン』
- 『幸せのちから』
- 『ジョンQ -最後の決断-』
- 『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』
- 『サイドウェイ』
- 『はじまりのうた』
- 『ウォッチメン』
- 『シンデレラマン』
- 『キッズ・オールライト』
- 『ザ・ハリケーン』
- 『ジゴロ・イン・ニューヨーク』
- 『クリムゾン・タイド』
- 『サイダーハウス・ルール』
- 『カポーティ』
- 『死ぬまでにしたい10のこと』
2020年
『愛と哀しみの果て』
2009年まで、デンマークの50クローネ紙幣に肖像が使われていた女性、カレン・ブリクセン。ペンネームは『イサク・ディーネセンもしくはアイザック・ディネーセン』である。その彼女が主人公の映画だ。この映画が名作な理由は、
- 一国の紙幣に使われるような人間の話であること
- 実際にその人生が波乱に満ちていたこと
- メリルストリープとロバートレッドフォードという二大スターが共演していること
などの要素が挙げられるわけである。内容も中々哲学的である。ロバートレッドフォードが演じる男の説明をWikipediaから引用してみよう。
デニスは、ぜいたく・所有・肩書きといったヨーロッパの習慣よりも、雄大な土地で牧畜生活を営むマサイ族の自由で素朴なアフリカを好んでいた。デニスはカレンの家に移ってきたが、カレンの、物や人までも「所有」したいという欲望を批判し、結婚することも自由な生き方をやめることも拒否し、ただ一枚の紙切れに過ぎない結婚が、デニスの彼女への愛を増やすことにはならない、と話す。
そう。波乱に満ちた人生を送る彼女だが、実際には彼女というよりは彼女が生きた『第一次世界大戦』が起きた時代、ケニア(アフリカ)という無限の可能性を持つ広大場所、そしてこの男が持つ一つの哲学的な思想が、中々興味深いのである。
彼女は元々、裕福な身の出身だ。周りに貴族がいることが普通。そして、人生に違和感を覚えて何かを求めてアフリカに。そこで出会ったのが、自分の人生に足りない内科を持っていそうなデニスという男だった。彼の主体的な人生は『自由』なのか。人はどのようにして生きるのが本当の生き方なのか。彼女たちが生活したアフリカの空のように広漠とした大きなテーマが、彼女の人間としての位と格式を引き上げていく。
実話、偉人、女性、豪華(メリル、ロバート)第一次、アフリカ、西洋人とアフリカ(アフリカの女王、)主体的な人生とは(始まりへの旅、パイレーツオブカリビアン)
『ワーキング・ガール』
この映画で一番思い浮かべるのは、BGMだ。妙に心に響く音楽で、歌が入らないから何だか違和感を覚える。(この曲は一体何だ?)調べると、『let The River Run 』という曲で、Carly Simonという歌手の歌だという。それが中々壮大な音楽で、この映画のタイトルにある『働く女性』と何がマッチしているのか分からないのだが、それに不満があるわけではなく、むしろいい仕事をしてくれている印象だ。レベルが引き上げられている。
1930年代前後の大恐慌時代の映画はいくつもあるが、これは逆に、1980年代後半の好景気によるM&Aブームを背景に、ニューヨーク・ウォール街の投資銀行のM&A部門で働く女性の恋と仕事を描いている。この映画は911で失われたあのワールドトレードセンターで撮影されていることもあり、時代の歴史で考えても貴重な作品だ。
主演のメラニー・グリフィスという女性はこの映画以外であまり活躍を観ることはないが、それも無意味な先入観がなくていいかもしれない。ハリソンフォードとシガニーウィーバーという名優が脇を固めていることも重要なポイントだ。アメリカにおいて「映画芸術の遺産を保護し前進させること」を目的とする機関AFIが2006年に選出した「感動の映画ベスト100」において、錚々たる名作ひしめくこの映画界において本作が87位にランクインしていることを考えても、内容のある素晴らしい映画だと言えるだろう。
『プレイス・イン・ザ・ハート』が大恐慌時代をアウトローに走らない女性がどう生きるかというテーマを描くなら、この映画ではその真逆で、好景気の入れ食い時代に社会の猛者たちを相手に女性がどのように働き、キャリアアップしていくか。そんなワンシーンを壮大なBGMと共に客観視していると、この映画に何とも言えない哀愁を覚えた。
哀愁、働く女性、騙し通せ
『レニー・ブルース』
実在の毒舌漫談家レニー・ブルースの生涯をダスティンホフマンが演じる。実は、白黒であり70年代のこの映画に、何の魅力があるのか最初は分かっていなかった。『観るリスト』に登録しておいたが、あまり気が進まない。スタンドアップコメディアンの一生を観て何か面白いのかと、日本の私はまず第一印象としてそう感じてしまっていた。その後、ダスティンホフマンの映画をいくつも観る。
- クレイマー、クレイマー
- ビリー・バスゲート
- トッツィー
- レインマン
- ネバーランド
- 大統領の陰謀
- アウトブレイク
すると、彼がなぜ有名なのかを思い知ることになる。彼は名優に相応しい実力者だ。この映画は、『レインマン』に並んで彼の名作二大巨頭に並べられる価値のある、見応えのある映画である。この爽快さを日本で例えて言うなら『古畑任三郎』だ。田村正和が今もう一度あの古畑任三郎を演じようと思ってもできないだろう。それは現在におけるダスティンホフマンとて同じだ。脂の乗ったこの時期の彼だからこそできた、魂の一作と言えるだろう。ちなみにあのマシンガンのように喋り倒すウーマンラッシュアワーの村本も、このレニー・ブルースに大きく影響されている。
彼は黒人差別や性に関する話題といったギリギリの問題を軽快なトークによって見事に笑いに変えていく。『Mr.ビーン』ことローワン・アトキンソンは言った。
そこにも書いたように、宗教、殺人、差別、麻薬、隠蔽、そもそも、この世にこういう笑えない理不尽な出来事があること自体が、間違っている。信念あるコメディアンは、ただその憂うべく状況を、笑いに変えて中和する、粋な役を買って出ているだけなのだ。
実話
『ビリー・ザ・バスゲート』
大恐慌時代の1935年。ニューヨーク・ブロンクスにはダッチ・シュルツというギャングがいた。これは本当の話である。大恐慌時代のアメリカの不良と言えば最も有名なのがアル・カポネだが、彼はそのカポネとも交流があった筋金入りのアウトローである。ただし、私が個人的に感じる『アウトローが似合わない俳優』として、
- ダスティンホフマン
- ドナルドサザーランド
- ロビンウィリアムズ
が挙げられるので、彼にマフィアの役は似合わない。逆にいい人をやらせたら天下一品だ。だが、そのギャップが逆に『何をしでかすか分からない』というある種の恐怖心を煽る。若く美しいニコールキッドマンとの関係もいい。実際のダッチは33歳で死去したが、作中で50歳になる彼と若い美女との間に生まれる妙な緊張感と怪しい雰囲気が、展開を読みづらくさせ、エンタメ性を引き上げている。
『本当に悪い人は、本当は真面目だ』
と言った人間がいるが、それは確かに一理ある事実である。不良は必ずしも人殺しをしないが、人殺しでニュースを騒がせる人は大体不良ではなく一般人である。ダスティンホフマンの持つポテンシャルと、実在したダッチシュルツのミステリアスで危険な気配が、映画を存分に盛り上げる。
[ダッチ・シュルツ]
実話、不良、豪華共演、大恐慌
※豪華(パブエネ
『プレイス・イン・ザ・ハート』
1935年の大恐慌時代のテキサス州。この時代はまだ黒人差別の真っただ中だ。リンカーンがその70年前に奴隷解放宣言をし、黒人が奴隷として扱われることは当然ではないことを大きく打ち出したが、1960年代にキング牧師、マルコムX、メドガーエヴァースらが白人至上主義によって暗殺されたことを考えても、また、それから更に60年という時間が経った現代においても白人警官が黒人を射殺する事件があることを考えても、この国の人種差別問題というのは根深い。
では女性はどうか。女性もまだ駄目だ。それは全世界的にみてもそうだ。それが『差別』という感覚すらない。性質的にそれが女性に合っているという理由も手伝っている。男性は狩猟採集時代から狩りに出るのが役目で、女性は家で子守りや料理洗濯という家事をし、お互いが身分相応の役割を果たして支え合って家族が成り立つ。この図式は一理あるから、女性は男性に重たい物を持たせ、開けられない瓶の蓋を開けさせるわけである。
だが、それぞれが適材適所につくのはいいが、この理論の元に生きているのが人間である以上、その状況を乱用したり、はき違えてそれぞれを結果的に侮辱することがある。例えば
『女は黙って飯を作ってりゃいんだ!仕事ができねえんだから!俺が食わせてんだよ!』
という発言がそうだ。こうした条件を断片的にピックアップし、まるで女性が無能かのように暴言を吐く。これが『差別』というものである。その反対もしかりである。では、大恐慌という人々が強盗すら正当化しかねない世界的不況にあって、女性が、夫に先立たれ、周囲に面倒を見るべき人間が複数いる場合、どのようにして生きていけばいいか。働くことや仕切ることに慣れてない女性が、私利私欲を持った人間の荒波の中で飲まれずに生きていくとなると、性別を超えた『本来人間に最も必要な要素』にいよいよ目を向けなければならない。
プレイズインザハート。それを和訳するとどういう意味だと思うだろうか。それがこの映画の重要なポイントである。
大恐慌、女性
『スティング』
1973年、つまり50年も前の映画だから、期待をしないで観るのが普通だ。だが、ここに登場するのが名優と名高い2人。アメリカン・ニューシネマの代表作『明日に向って撃て!』で共演したポール・ニューマンとロバート・レッドフォードなのだから、少し期待をしてしまう。では実際の感想はどうか。うーむ、これは面白いと言っていいだろう。というか、このあたりの時代の映画は名作が他にもいくつもある。今言ったアメリカン・ニューシネマの映画などは大体この時代の映画だ。
- タクシードライバー
- カッコーの巣の上で
- ダーティハリー
- フレンチコネクション
- 俺たちに明日はない
枚挙に暇がない。すべて名作である。そう考えると、50年前とかそういうことはあまり関係がないのだ。音楽も有名。誰もが必ず聞いたことがあるユニークな音楽。チャップリンの音楽と言われても不思議ではないほどの名曲で、それもこの映画の見どころの一つだ。
大恐慌、音楽、騙し通せ、意外、不良
※伝説たちの晩年(あなたへ、マイケルダグラス、トレイル、運び屋、ニコルソン、リーグオブレジェンド、)遺作(ダークナイト、ブラックレイン、さらばわが愛、あなたへ、ジェームズディーン)
『大いなる遺産』
イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの長編小説を映画化。イーサンホークがイケメン的な役割を演じて、まるで彼の今後がディカプリオやブラッドピットのように華やかなものになるかのようにメイン軸として起用される。確かにその可能性がありそうだ。そして重要な役どころをやるロバートデニーロの存在感。圧倒的である。彼の存在がこの映画の奥行きを一層深いものにしている。また、キーマンとなるこのイラストでも見ることができる老婦人の役を演じるアン・バンクロフトだが、彼女のこともいくつか知っておくとより面白くなるだろう。
彼女はまず『奇跡の人(1962年)』であのヘレン・ケラーの恩師である熱血女性を熱演。これだけで彼女に向ける目が変わるわけだ。あの壮絶な『教育』は見るものを圧倒させる。それが実話なのだからもっとすごい。更に、『愛と喝采の日々(1977年)』で彼女が演じたのはバレエダンサーだ。この2つの名作を最低でも知っておけば、彼女の怪演ぶりに拍車がかかることになる。
謎の金持ちの老婦人と美女。その2つの要素はそれだけでミステリアスであり、この話を複雑にさせる。そしてそこにデニーロが演じる謎の男が加わるわけだ。彼らの存在感が絶妙に物語をこんがらがせ、無知で純粋な『孤児』である田舎少年の人生を翻弄する。これらの要素が一つでも欠けたら、この物語が成立しなさそうな気もする。その意味で、これは名作だ。映画化されるに相応しい見応えのある物語。
純愛、すれ違い、名作、意外
『オーロラの彼方へ』
『きみがぼくを見つけた日』の感想で、無理があると書いた。この手のシナリオは技術がいるとして、『千と千尋の神隠し』の成功と『メアリと魔女の花』の大失敗について書いた。要は、あんなことはあり得ないわけだ。そういうフィクションたるファンタジーを、いかに現実を生きる我々が無理なく
なんかありえそう・・
と感じられるかは、監督の腕にかかっている。『なぜこのような不思議な現象が起きてしまったのか』ということをもっと明確に視聴者に伝える必要がある。それを考えた時、その映画は少し無理がある。『未来のミライ』然り、なぜそういう現象が起きるのかをきちんと分かるように説明してくれないと、視聴者が置いてけぼりになる。
ではこの映画はどうか。この場合、その問題を上手く解決していると言えるだろう。『声のタイムスリップ』という現象。無線機からかすかに聞こえる声は、『どんな周波数をキャッチするか分からない』というその要素を上手く突いたシナリオである。更にこの時、太陽フレアの活発化(太陽嵐)の影響により、ニューヨークでは異常気象によるオーロラが観測されていた。そういう非日常的な状況もいい。これなら何かが起こりそうだ。宇宙といういまだ特定不能のフロンティア(未開拓エリア)の圧倒的な潜在能力も手伝って、このような現象があってもおかしくはないと受け取れるのである。
だからこそ、物語にすんなりと入っていける。私は久しぶりに次の展開を楽しみにするワクワク感を覚えた。そして、この卓越した緊迫のシナリオを見て、(これはゲーム化されてもおかしくはない)という感想まで抱いた。
一体どうなる?何が真相なんだ!
私は素晴らしい映画に出会ったのだ。
不思議な時間、絆
『エド・ウッド』
「史上最低の映画監督」と言われた映画監督エド・ウッドの物語。監督のティムバートンが彼のファンであり作られた映画だ。主役はその相棒とも言える仲のジョニー・デップである。そして出演者には実在した有名な関係者たちがズラリと並ぶ。そしてこの映画で『魔人ドラキュラ』などの戦前のホラー映画界における大スター、ベラ・ルゴシ役を演じたマーティン・ランドーが各映画賞を総なめし、第67回アカデミー賞でアカデミー助演男優賞を受賞、またアカデミーメイクアップ賞も受賞した。
だが、そんな事情を一切知らない私からすれば、『一体何だったんだ』という映画だろう。「史上最低の映画監督」と言われるのも無理はないという、わけのわからない『うろつき』を見せられるわけである。だが、あのスタンリー・キューブリックも影響を受け、映画界の名作と言われる『市民ケーン』の話も出てくるし、映画関係者やマニアックな玄人からすれば鳥肌ものの価値を見出すのだろう。
だが、私は市民ケーンの良さが全く分からなかったし、登場人物全員を知らなかったし、ドラキュラの映画も古すぎるから観るつもりはないほどジェネレーションギャップがあるので、この映画の評価も低くなってしまう。
映画を作りたい、実話、非凡
『お買い物中毒な私』
『お買いもの中毒な私!』(Confessions of a Shopaholic)は、2009年の映画。原作はソフィー・キンセラの『レベッカのお買いもの日記』。女性の多くが彼女の衝動に共感を覚えるのではないだろうか。私も20歳前後の時はそうだった。ブランド物を持つと自分の格が上がった気がするから、他人が持っていない新作のアルマーニやプラダの服を見ては買い物をしていた。
誰もが一度は通る道。もちろん彼女の場合は私よりも重症だ。お金がないのに買ってしまい、友情さえ傷つけてしまう。酒、麻薬、恋愛、お喋り、タバコ、甘いもの、お菓子、これらの共通点は衝動買いと同じだ。脳内の『ドーパミン』という報酬系物質が放出される。だから私の場合、買い物をしたらそれで気が済んでしまうところがあった。つまり私は買い物というより、ドーパミン中毒だったのである。
『脳とこころのしくみ』にはこうある。
ネズミは、最初の頃はボタンを押した後に一旦はボタンから離れるが、次第に自由に歩き回れるにもかかわらず、ボタンから離れず、体が衰弱するまで押し続けるようになる。これを自己刺激行動という。ドーパミンがもたらす快感はそれほど魅力的なのだ。
上記の記事に『クレプトマニア』について書いている。この病気も、実はこのドーパミンが関係している。我々が『やめられない止まらない』状態に陥っている時、実は脳内では『重度の麻薬依存症』と同じ現象が起きているのだ。この映画も、大体の人も、その根幹には目を向けずに表層だけでてんやわんやすることになる。それは直接根幹に問題解決の働きかけをしないためだ。だから行くところまで行ってしまう。そしてそれがドラマになるのだ。
こうした目線を一つ持つと、映画の奥行きが変わってくる。
女性、依存
『聲の形』
先天性の聴覚障害を持つ少女を描くアニメだ。彼女は小さい時にいじめられてしまう。小学生時代、私にも身に覚えがある。補聴器をつけた女性の真似をして、馬鹿にしたわけである。だが、彼女はこのアニメキャラのように『エロさ』もなく、髪の毛もピンク色ではなかった。もちろん、そういうキャラクターじゃなければ人気は出ない。これが地上波で放送されたということは、それだけ人気を得たということ。そしてその人気は、『不細工な女性の聴覚障碍者』を描いた話では、得られなかったのが残酷だが決定的な事実だ。
ただ、こうした問題に注目を集める為にはこういう手法で正解なのではないだろうか。これなら子供、つまり当時の私のような小学生にも伝わるし、論理的思考が甘いその頃、絵のタッチとアニメのインパクトで映像として頭に焼き付けば、学校でそれが脳裏をよぎり、問題を未然に防ぐことに繋がる。価値のある映画ではないだろうか。
精神、病気
『七人の侍』
この映画を過大評価する人が多いように見受けられる。これを本当に現代の人が観て大絶賛するのだろうか。私は、よくいる『名作を褒めると通っぽく見える』という馬鹿が意味も分からず評価しているようにしか思えなかった。映画『ボディガード』では、ケビンコスナーがこの映画を何十回も観たと言うし、黒澤映画は世界の映画だ。『世界で有名な日本人』のトップ10には、尾田栄一郎、鳥山明、宮崎駿などが名を連ねるが、黒澤明は亡くなっているにもかかわらず鳥山明よりも上の『4位』という認知度だ。
映画評論をするyoutubeの動画でも黒澤映画と『アベンジャーズ』の映画を比べている外国人がいて、前者の描写や背景には意味があるが、後者には意味がないと酷評。とにかくこの映画を称賛しない時が済まないという雰囲気がまかり通っていて、だからこそ私も今の今まで観ないで取っておいたのだ。映画がわかるようになってからたっぷりと楽しみたいと。
だが、過大評価なんじゃないだろうか。まず音声がモノラルで聞こえづらく、昔の喋り方や訛りで何を言ってるか分からない。話が無駄に長いような気もする。3時間だ。確かに命の使い方を悟った男たちの話ではあるが、演出からなにから、アベンジャーズのエンドゲームでのアイアンマンの最期の方が、私には心が動かされたのが事実だ。
そこで考えたのだが、もしかするとこれは『外国人が字幕で観る』方が伝わりやすいのではないだろうか。外国人は、日本に対し畏怖と称賛の念を向ける。日本という国は唯一『神道』という宗教を重んじていて、恥をかいて生き永らえるくらいなら自らの命を絶つ。アメリカの文化人類学者ルーズ・ベネディクトは、『菊と刀』という著書の中で、
『欧米の文化=罪の文化。日本の文化=恥の文化』
という表現をしている。日本人が失敗し、恥をかき、誇りを失う結果になるぐらいなら、切腹によって自ら自決する。そういう思想と行動は、欧米人から見て不気味の一言だった。そして、『侍、忍者』という世界規模のキーワード。『東洋の奇跡』と言われた日露戦争における東郷平八郎の『東郷ターン』に、その戦争での大国ロシアへの勝利。そして、第二次世界大戦では日独伊三国同盟で世界的悪役となり、悪い意味でも大きな爪痕を残した。そして、世界で唯一核爆弾を落とされ、そしてその後の復興でGDPを世界2位まで上昇させ、二度目の『東洋の奇跡』を果たす。この計り知れない潜在能力を持つ日本人の『血』を形成した武士が生きる時代の、『武士道精神』というのは、全世界の男たちの心を鷲掴みにする。
そして字幕だ。あれなら『何を話したか』を聞き逃すことはない。自分たちの国の言葉に置き換えられて翻訳された分かりやすい言葉の一つ一つに無駄がなく、説得力がある。更には時代だ。白黒映画が当然だった時代なら、別に現代人が感じる違和感は感じない。そういう、いくつかの要素が重なり合ったこと、またあるいは、その当時の時代にあったその他の映画と比べ、『唯一無二』の独創的な路線が描かれ、そこに黒澤明の『劇中で読まない手紙の中まで作りこむ』ような細部への徹底ぶりが加わり、この映画を総合的に引き上げたのではないだろうか。
だからこの映画をリメイクして『荒野の七人』、『マグニフィセントセブン』という作品が作られるわけだ。私から見るとそっちの方が見やすかった。それらの映画を先に観ているから、七人の侍の大体の流れが分かったほどである。だが、確かにそっちの映画を観ると、とても見応えのあるシナリオだ。名もなき男たちが、自分が信じる信念の為に命を張り、生き永らえるくらいならと、負け戦でも戦いから逃げない。シナリオ自体は、世界に通用する素晴らしいものだ。
そして、黒澤映画を批判するわけではない。彼の他の映画を観たが、実は映画を観る時、多くの映画を観たせいか大体の流れが分かってしまうものは『ながら見』をすることがあるのだが、『蜘蛛の巣城』、『乱』あたりの映画は、私にそれをさせなかった。思わずテレビの真正面に私を座らせる、そういう力を持っていたのだ。だから彼の映画の実力は十二分にあると言っていい。
命の使い方
『しあわせの絵の具 / 愛を描く人 モード・ルイス』
主人公となる女性のモード・ルイス(1903年3月7日-1970年7月30日)とはカナダのフォークアートの画家である。この映画の主人公は絶世の美女というわけでもないし、活動拠点も小ぢんまりした小さな小屋で、見る人が見ればとても地味な作品となる。相棒となるイーサンホークも『渋い俳優』の演技派として有名だが、彼がトムクルーズのようにど真ん中で活躍するような映画は今はもうなく、近年の映画も『渋い映画』を確実にこなす、という傾向が見られている。
更に、そのような要素がある中でこの映画でのイーサンホークは、冒頭でかなり正確の悪い男を演じる。したがって我々は、Wikipediaにも詳細ページがないようなこの映画で、カナダのなんたらという地味な女性を、地味な顔の女性が気が小さそうに演じ、それをいじめるイーサンホークの姿を見なければならない。正直、映画鑑賞中につまらないと思ったら帰ってしまうような文化がある国では、もはや冒頭の段階でほとんどの人がいなくなってしまうのではないだろうか。
・・だがとんでもない。騙されたと思って最後まで観るのだ。私は多くの映画を観て、それをジャンル別に分けてランキングしたり、とにかく人や自分が見やすいようにまとめているが、その中で『感動編』のジャンルに組み込まれる映画はそう多くはない。100個もないだろう。だが、この映画はそこに分別されたのだ。そう。我々は冒頭の段階からすでに、彼らの術中にハマっていたのだ。
感動、実話、女性、アート、絆、
『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』
カントリー・ミュージシャンのジョニー・キャッシュの伝記映画で、特に彼の2人目の妻となった歌手のジューン・カーターとの関係を描いている。アメリカでは有名な話だが、彼のことを知らなくてもエルヴィス・プレスリーという男の名前は知っているだろう。彼と同時代を生きた破天荒な男の物語である。だからこの映画に出てくる登場人物はほぼ実在する有名人で、知る人には豪華なアメリカンヒストリームービーとなっている。彼らの後に出てくるのがボブディラン、ビートルズという面々である。
世界的に脚光を浴びたエルヴィスに隠れ、ジョニーキャッシュ自体もかなり波乱に満ちた人生を送っている。その奇天烈ぶりをホアキンフェニックスが見事に怪演。あるワンシーンなど、実際にドラッグをやっているのではないかと思うほどの迫真の演技を見ることができる。
銃やドラッグが簡単に手に入るアメリカでは、自由の権利と引き換えに、事件に巻き込まれ、中毒死したり人生を転落するリスクが高い。『ロケットマン』、『ボヘミアンラプソディー』でもエルトンジョンやクイーンにおける同じような展開を見ることができる。名声を得て、お金を得て、そのお金で夢にまで見た私利私欲を満たす。その時アメリカでは、そこにドラッグがあることがある種常識的な光景なのだ。果たして、彼の人生は一体どうなるのか。
ドラッグで転落、音楽、
『ウォール・ストリート』
1987年の映画『ウォール街』の続編。注目するべきはこの映画が2010年の映画ということだ。23年という時間が経って金融市場はどのように変化があったか。そしてその間に起きたサブプライムローン問題(2007年)はこの映画にどう影響を及ぼすか。だが、最も注目したいのは『チューリップバブル』というキーワードだ。
経済学の巨人と言われたガルブレイスは、1636年のチューリップ狂の経験以来、 何も変わらないある法則を見極め、こう言っていた。著書『バブルの物語』にはこうある。
『個人も機関も、富の増大から得られるすばらしい満足感のとりこになる。これには自分の洞察力がすぐれているからだという幻想がつきものなのであるが、この幻想は、自分および他の人の知性は金の所有と密接に歩調をそろえて進んでいるという一般的な受け止め方によって守られている。』
このチューリップバブルの話が作中に登場する。ゲッコーの家にこれを記載した張り紙があるのだ。その意味で、非常に教訓性の高い内容となっている。
金融、教訓
『紀元前1万年』
- マンモスを狩る
- シャーマニズムがある
- 動物を神格化する(アニミズムがある)
- 紀元前1万年を描く
このような要素があるだけで、この映画の価値は高い。歴史映画をズラリと並べてみればわかるが、ここにスポットライトを当てた映画がほぼないので、人間と地球の歴史を考える際に非常に重要である。これが正確かどうかはさておき、全体像をつかむためには十分だろう。例えばよく知る四大文明、
- メソポタミア文明
- エジプト文明
- 中国文明
- インダス文明
これらは古くても紀元前2,3000年。今から5000年前ほどである。それよりも更に7000年も前なのだから、これは貴重である。キリスト教徒イスラム教の元祖ユダヤ教の創始者であるモーセが息をしたとされるのが紀元前1300年頃だ。映画で言えば『エクソダス神と王』の時代。世界で初めて公式に記録された戦争『カデシュの戦い』があったのもその時だ。中国の始皇帝も三国志ももっと遥かに後。孔子やブッダやソクラテスも紀元前500年頃。
この時代、確かに狩猟採集をして生活をしていた人間には『神話』があり、それはシャーマニズムやアニミズムという形で蔓延していた。何が神で、何を重んじるかは自由だった。自由に想像するからこそ『大きな存在』である自然や動物が神格化されたのだ。その後、人間が集団で暮らし始め、倫理とルールを必要として論理的な『宗教』へと移り変わる。さて、この時代の人間の様子を見てみよう。
『しあわせの隠れ場所』
2009年のNFLドラフト1巡目でボルチモア・レイブンズに指名されて入団したマイケル・オアーのエピソードに基づく実話ベースの映画である。『僕はラジオ』、『小説家を見つけたら』、『グッドウィルハンティング』などと同じような内容で、それらの映画が好きな人はきっと感動できるだろう。同じような内容と言っても詳細は全く違うから心配はない。要は、こんな奇跡の出会いってあるのかなと、とても幸せな気持ちになるのだ。
生きる希望を見出せる。絶望的状況に陥ることは誰の人生にも起こり得ることである。そんな時、こういう映画の一つ一つが網を張り、人々に夢と希望を持ち続ける勇気をもたらしてくれる。
実話、フットボール
『バベル』
映画には前もって情報を入れておかなければ理解できない作品がある。例えばこの『バベル』を最初に観た時の若き私は、『意味が分からない映画』として『低評価』をつけていた。だが、次の説明を見るとどう感じるだろうか。
バベルは『旧約聖書』創世記第11章にある町の名。町の人々は天まで届くバベルの塔を建てようとしたが神はそれを快く思わず、人々に別々の言葉を話させるようにした。その結果人々は統制がとれずばらばらになり、全世界に散っていった。この故事を背景に、「言葉が通じない」「心が通じない」世界における人間を描く。
‥これがこの映画のテーマである。これを知ってから映画を観ると、我々の頭に
この映画は世界の人々の間で言葉が通じない、心が通じないもどかしさや不安、不便さなどに焦点を当てたんだな
と焼き付くことになる。 ブラピ夫妻に不和がある 世界各地の人々が描かれる メキシコ人が犯罪者と疑われる 耳が聞こえず意思疎通できない女性がい。これらの理由もこの映画のテーマがあるからなのである。 私がもしこれを知ってから観ていたら、『低評価』などつけなかっただろう。あの頃の私はバベルを『日本人とブラピが共演したらしいから』というだけの理由で観た。そんな浅薄な心構えだけで観たから映画のテーマを理解できず、『低評価』をつけてしまったのだ。
映画のキャッチコピーは「届け、心。」、「神よ、これが天罰か。」。我々人間はなぜ異なる言語と文化を持って生きているのか。意思が通じない、統制が取れない人間はなんと愚かで、無力で、無様なのか。我々人間は本当はどう生きるべきなのか。そういうことを考えさせられる教訓性の高い映画なのである。
だがその映画がヤフー映画では『3以下』となっていて、そのレビューのほとんどが『当時の私』と同じ位置にいることが露呈している。まるで的を射ていないのだ。ヤフー映画は万人受けのツールだ。だからそれはまあいい。だが、『映画好き』を唄うつもりなら、Wikipediaでちょっと情報を仕入れるくらいのことはできるだろう。 私は映画好きの人に、『本当に』映画を好きになってもらいたいだけなのだ。もちろん私もこれからもっと好きになるつもりだ。
教訓
『グッドナイト・グッドラック』
『赤狩り』とは、政府が国内の共産党員などを公職を代表とする職などから追放することを言う。この時代にあった冷戦とは、
『アメリカを筆頭とする資本主義VSソ連を筆頭とする共産主義』
で、そのソ連共産のシンボルマークの色が赤いことから、『アカ』とか『赤狩り』などとして隠語が当然のように飛び交っていた。
これは、その「赤狩り」の猛威が吹き荒れる1950年代のアメリカを舞台とする実話で、実在したニュースキャスターであるエドワード・R・マローとCBSの番組スタッフが、真実の報道のために赤狩りの代表格である政治家、ジョセフ・マッカーシーと「マッカーシズム」に立ち向かう姿を描いたノンフィクションドラマである。マッカーシーとそのスタッフは、「マッカーシズム」と呼ばれたアメリカ合衆国政府と娯楽産業における共産党員と、共産党員と疑われた者への攻撃的非難行動で知られている。
では、このエドワードは共産主義なのか。違う。実はマッカーシーは、自分の意にそぐわないものを「共産主義者」と決めつけ攻撃する暴挙が有名だった。そんなマッカーシーの手法に対して疑問をもつ良識的なアメリカ人も多かったが、誰もが自分自身が標的にされることを恐れ、マッカーシーの手法を表面だって批判する者はいなかった。
そんな中、彼はニュースキャスターという逃げ場のない立場にありながら、真正面からマッカーシズムに対立する。この映画のタイトル『グッドナイト&グッドラック』というのは彼が務めるそのニュースでのお決まりの挨拶だ。この問題が起きる前なら聞き流すような言葉だが、覚悟を持って勇気ある行動に出た彼の放送の後に口にされるこの言葉からは、彼の仕事に対する信念と覚悟を感じることができる。
当時の状況をよりリアルに体験するために全編が白黒であり、ド派手な銃撃戦はないが、信念と覚悟の人間の生きざまはいつの時代も別次元の異彩を放っている。
[エドワード・R・マロー(本人)]
冷戦、実話、非凡
『あなたを抱きしめる日まで』
10代で未婚の母となり、幼い息子と強制的に引き離された女性フィロミナ・リーの実話が描かれる。なぜ彼女はそんな目に遭ったのか。修道女として生活する彼女はその厳しい教えに沿って言うことを聞くしかなかったが、もしかするとこの話の裏には、恐ろしい事情が隠されているかもしれない。ジュディ・デンチの演技力も手伝ってこの映画の映画批評家からの評価は高い。だが、本作におけるカトリックの描写に関して問題が起きる。ニューヨーク・ポストのカイル・スミスは本作を「カトリックへの悪質な攻撃である」と評し、制作者であるハーヴェイ・ワインスタインがニューヨーク・ポストに全面広告を出して抗議するなど、世間を騒がせた問題作となった。
だが、『スポットライト世紀のスクープ』同様、カトリックだからといって何をしていいわけではなく、その世界的権力の影に隠れて、越権行為に走る人間は多い。つまり、この作品が世間を騒がせた問題作なのか、はたまたカトリック教会自体が腐敗しているのか。それが問題だ。
実話、女性
『きみがぼくを見つけた日』
無理があると言えるだろう。何でこうなってしまうのかが納得がいかない人が多いはずだ。この手のシナリオは技術がいる。例えば『千と千尋の神隠し』だ。あれは上手い。その上手さは弟子的存在でもあるアリエッティやマーニーの監督米林宏昌の独立後の映画『メアリと魔女の花』の大失敗を見て思い知った事実である。要は、あんなことはあり得ないわけだ。そういうフィクションたるファンタジーを、いかに現実を生きる我々が無理なく
なんかありえそう・・
と感じられるかは、監督の腕にかかっている。千と千尋の神隠しでは、まずトンネルをくぐり、千尋が違和感を覚え始め、妙に大人との距離が空き、絶妙な不安感が漂い始める。そして久石譲の壮大な音楽と共にハクが湯屋に向かって魔法のようなまじないをかけ、日が落ち、灯りがともり『何かが動きだす』と同時に、何か得体の知れない世界が広がりだすという感覚に陥る。
だが、メアリの場合、平凡な日常があったはずなのい急に箒が空を飛び、急に魔法を使う人々が暮らす魔法の世界へと移動する。一番いけないのはメアリがそれを受け入れるスピードだ。千尋の場合はそれを受け入れまいと抵抗し続けるが、メアリの場合はあっけらかんとそれを受け入れる。私も最初、好意的に映画を観るからその状況を受け入れたが、やはりそれはNGだった。その急激な展開が今回の作品同様、
無理があるな・・
という感想を抱かせてしまうのだ。それは、サマーウォーズで有名な細田守の映画『未来のミライ』でも同じだった。なぜか急に未来の姉が現れたり、犬が喋りだしたり、自分にも犬のしっぽが生える。狙いとして、前作の『おおかみこどもの雨と雪』のパターンを展開したかったのか何なのか分からないが、同じく
無理があるな・・
ということにしかならなかった。したがって、『なぜこのような不思議な現象が起きてしまったのか』ということをもっと明確に視聴者に伝える必要がある。その点、同じくレイチェル・マクアダムスが出演する『アバウトタイム』では、同じように不思議な時間現象が起きるが、これも無理があると言えばあるが、その教訓性の高さ、メッセージ性の強さから、感動する心で満たされ、あまり不満で終わらない。
同じように細田守の『時をかける少女』も不思議な時間現象が起きるが、これは『あり得るかもしれない』という展開と演出が散りばめられていて、アニメということもあり、悪い感想を持つことはない。実写ともなればアニメよりも厳しい目で見られるわけだから、非現実的なこういう展開をする場合は、もっと無理のないようにする必要があるだろう。
『ベンジャミンバトン』、『イルマーレ』、どれも不思議な現象が起きる映画だが、それらとの違いをハッキリと感じる映画となってしまっているだろう。ただし、原作の小説は『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラーリストに28週連続トップ10入りを果たし、映画版公開前の2009年3月までにアメリカとイギリスで合計250万部近くが売れたという。小説で読むと、また違った感想を持つのかもしれない。
最後のシーンは感慨深いものもあるので、妙に惜しさを感じる映画である。
製作総指揮ブラッドピット、不思議な時間
『ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命』
アントニーナ・ジャビンスカという実在した女性がモデルになっている。第二次世界大戦のあの時期にユダヤ人がどのような目に遭うか。それを知るのは簡単なことである。それだけ世界的に有名なのだ。日本の広島、長崎が有名であるくらい、ユダヤ人がこの時に受けたホロコースト(ユダヤ人迫害)の歴史というのはあまりにも凄惨なものだった。しかも舞台はワルシャワ。ポーランドである。第二次世界大戦というのは、ヒトラー率いるナチスドイツが、隣国であるこのポーランドに侵攻(1939年)して開幕したに等しい。その悲惨かつ緊迫のエリアでユダヤ人を助けるというのはどれほどのリスクがあるか。
すぐ近くには強制収容所があり、そこではユダヤ人たちが人間の尊厳を完全に奪われ、人体実験の道具として『使用』された。スープを飲んでいると隣の窓に、朝話をしていたはずの顔見知りが死体として外に積み上げられているのが見える。だが、囚人はスープを飲む。生きる為に数少ない食事を食べなければならないからだ。子供が壊死した足の指をペンチで引っこ抜き、自分たちの糞便を運んでいる最中にそれが飛び散り、思わず顔を拭くと殴られる。
なぜお前は人間のふりをしているんだ
これが彼らユダヤ人たちが味わった地獄の経験である。その強制収容所からほど近いワルシャワで、いくら動物園という『穴場』だからといって彼らをかくまうのは背筋が凍るほど怖い。果たして、彼女たち動物園のスタッフたちは、本当にユダヤ人を救えるのだろうか。誰も死者は出ないのだろうか。
実話、非凡、シンドラー
『17歳の肖像』
主演のキャリーマリガンは、この時23歳。とてもキュートで17歳と言われても文句は出ない美貌を持っている。だが、実は現在(35歳)の彼女の写真を見ると、あまり当時のように素直にはそう言えない劣化が起きてしまっている。これは悪口でも何でもない。ただ写真写りが悪い人というだけなのかもしれない。だが、何十枚と写真を見つけたが、この時の彼女を超える写真はなかった。
酷な話だが、あのオードリー・ヘップバーンでさえ20代の写真しか注目が集まらない。彼女とて、年を取ってからも活躍していたし、その時の写真もある。だが、人々が目を向けるのはどうしても最盛期。それが現実だ。逆に言えば、若者はその事実を利用して、若い時にしかできないことをすれば利益を得られる。そのように考えるのが賢明だろう。
キャリーマリガンのその後の作品は、ドライヴ、華麗なるギャツビーといくつかあるが、それも含めてそれ以外の代表作を、ファンではないあなたがどれだけ言えるだろうか。しかし、確かにキュートな彼女がいて、その時に作り上げた作品がある。そこにぜひとも注目をしたいのである。私とて、そして誰もが、若い時にしかできないことがある。アスリートは30歳になれば多くの人が引退を余儀なくされるように。
さて、主人公の彼女はタイトル通り17歳。しかし、まずは16歳から物語が始まる。これを冷静に考えるとちょっと気持ち悪い。『ロリータ』という、この世に『ロリコン 』という言葉を捻出した作品があるが、『愛を読むひと』同様、これも正直ギリギリのロリコン話である。ピーターサースガードがその気持ち悪い男役をはまり役として演じ切っている。彼のうつろな目は変態にピッタリだ。言い方は悪いが、何を考えているか分からない目をしているので、彼が演じられる役は多い。その意味でとても有能と言えるだろう。彼の活躍ならよく見かけるのである。
では、その変態野郎にキュートな16歳がどのような目に遭ってしまうのか。誰もが少年少女時代には、一日でも早く大人になりたいと願い、子供扱いされるのを嫌がる。大人扱いをしてもらいたいのである。
サルトルは言った。
『青春とは、奇妙なものだ。外部は赤く輝いているが、内部ではなにも感じられないのだ。』
大人はその逆で、一歳でも若く見られると気分がいい。これは、10代のうちに観ておきたい、無知な青春時代の教訓である。
女性、教訓
『リーサルウェポン4』
シリーズ最後の映画。・・と思いきや5が展開されるというのである。私もそれを知って急いで全シリーズを観ることにした。メル・ギブソンと言えば、マッドマックスかリーサルウェポンだ。ブレイブハートと言う人もいるだろう。どれも名作である。ただ、刑事もののシリーズはビバリーヒルズコップ然り、後になるにつれてどんどん内容が薄くなっていく。大体が3で終わる中、これは4まで出て、そしてその22年後を描く5まで出るというのだから、それだけ観る人を魅了させる魅力がある珍しい映画だと言えるだろう。
『プラネタリウム』
何だかよく分からないと感じる人が大勢いるだろう。実はナタリーポートマンは絶世の美女として絶大な人気を誇るが、外れ映画にも多く出演している。映画批評家たちの評価もすこぶる悪いので、あまり期待しないで観るのがいいだろう。ただ、リリーローズデップというジョニー・デップの娘が出ること、そして彼女の美しさが異彩を放っていて、絶世の美人姉妹ということで、それを楽しむことはできるだろう。
『それでも恋するバルセロナ』
ウディ・アレンの映画だ。違う映画の感想でも描いたように、ウディ・アレンの映画というのはやはり好き嫌いが分かれる。基本的に、あまり日本人の性質とは合わないかもしれない。往々にして彼の映画では性的な要素をユニークに描くが、海外ではそういうことがジョークで住んでも、奥ゆかしい性質を持つ日本人からすると『破廉恥』であり、美しくはない。
この映画でもまた性に関して乱れている。そういう人間関係を観たい人は面白いだろう。日本でも昼ドラなどはドロドロとしていて、それが主婦層に人気があったりするわけだ。私のように映画を現実と同じように考える人間と違って完全に切り分けて考えている人もいるわけだから、ウディ・アレンの映画が好きな人もいるに違いない。
乱れた政(ルーム、ウルフオブウォール、ドンジョン、アメリカンサイコ)暗い過去(さらばわが愛、スリーパーズ、ミスティックリバー、ウォールフラワー)
『エリザベスタウン』
キルスティンダンストという女優は、実は『スパイダーマン』の時にはあまりヒロインとしては違和感がある美貌だった。なぜ彼女が選ばれているのかわからない、例えば『アベンジャーズ』で『キャプテン・マーベル』を務めたブリーラーソンもそうだ。彼女がもしワンダーウーマンを務めたガルガドットだったら彼女の人気はもっと伸びただろう。アメリカではとても人気がある女優さんらしいが、全世界的に見るとそうでもない。オードリー・ヘップバーンが世界的な美女として認められるように、世界規格というものがあり、酷な話かもしれないが、その規格から漏れる人がいるのが事実だ。日本でもよくその規格から漏れる役者を『個性派俳優、演技派俳優』などと呼んでいる。
だが、実はそれは私が無知だっただけで、彼女は『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』という映画でトムクルーズやブラッドピットらと一緒に共演している過去があり、子役時代から活躍していた名優なのである。だからそんな彼女がスパイダーマンに選ばれるのは自然なことなのである。
さて、そんな彼女だが、しかしこの映画では全く違う顔を見せる。正直、彼女の出ている映画で一番キュートなのはこの映画ではないだろうか。もしかしたら彼女のような展開が嫌いな人もいるかもしれないが、無意識に彼女のような女性が可愛いと刷り込まれている私は、この映画を彼女が一番可愛い映画としてお勧めしたいと考えたものである。
誰にでも失敗はある。だが、主人公の彼はあまりにも大きな失敗をしてしまったようだ。その規模が桁違い。環境次第では、数万人の人が路頭に迷い、最悪の場合は命を落とすこともあったかもしれない。そんな人生の窮地に偶然にも自分の父親が死に、絶望と現実のはざまのギリギリを生き永らえながら、何とか自分の故郷エリザベスタウン(ケンタッキー州)へとたどり着く。
では、そのキルスティンダンスト演じる女性はどのようにして彼に関係するのだろうか。そして、遺された遺族や親族、故郷の人々。彼らは彼に、何を与えてくれるのだろうか。
キュート(ウォールフラワー、猟奇的な彼女、ジョジョラビット)
『ミッドナイト・ラン』
調べてから分かったのだが、このタイトルの意味は『深夜に走り回る』というような直訳から連想される『眠れないほど忙しく大変な一日』のようなものではなく、「一晩で終わる簡単な仕事」、「仕事は簡単」、「ちょろい仕事」という意味のスラングだという。だが、奇しくも私がそう連想してしまったように、この刑事はそのちょろい仕事を容易にはこなせなかったようだ。
だが、その難易度と二転三転する展開がドラマを生み、この物語の結末に哀愁を持たせる。
意外
『フレンチ・コネクション』
アメリカン・ニューシネマの代表作の一つ。この情報は私は見る前に知りたかったが、1961年に発生した、ニューヨーク市警察本部薬物対策課のエドワード・イーガンとサルヴァトーレ・グロッソがフランスから密輸された麻薬約40キログラムを押収した実在の事件がモデルとなっている。フレンチコネクションとはトルコからフランスを経由して米国に輸出されていたヘロインの密売ルートおよびその組織のこと。イーガンとグロッソはアドバイザーとして制作に協力しており、両者とも本編にカメオ出演を果たしているという。これを知ってから観た方が映画を楽しめると言えるだろう。
やはり実話であると知れば見応えも全然違う。作られた世界はいくらでも作れるが、実話はリアルだ。リアルだからこそ細部の何でもない場面まで意味を持つようになり、見応えに雲泥の差が出るのだ。
実話
『俺たちに明日はない』
世界恐慌時代の実在の銀行強盗であるボニーとクライドの実話である。アメリカン・ニューシネマの一つとされる作品で先駆的作品として有名。この作品が他のアメリカン・ニューシネマと違うのは、やはり実話ベースだからである。では、アメリカン・ニューシネマの代表作ということで、ここにWikipediaからそれらの作品の詳細を引用しよう。
『ディア・ハンター』『地獄の黙示録』なども、ニューシネマの末期に付け加えることが可能である。
タイトル/原題 | 公開年 | 監督 | 出演 | あらすじ、補足等 | |
---|---|---|---|---|---|
俺たちに明日はない Bonnie and Clyde |
1967年 | アーサー・ペン | ウォーレン・ベイティ フェイ・ダナウェイ |
世界恐慌時代の実在の銀行強盗カップル、ボニーとクライドの無軌道な逃避行。 | |
卒業 The Graduate |
1967年 | マイク・ニコルズ | ダスティン・ホフマン アン・バンクロフト キャサリン・ロス |
年上の夫人に肉体を翻弄される若者の精神的葛藤と自立。サイモン&ガーファンクルの「ミセス・ロビンソン」や「サウンド・オブ・サイレンス」も有名。 | |
ワイルドバンチ The Wild Bunch |
1968年 | サム・ペキンパー | ウィリアム・ホールデン アーネスト・ボーグナイン ロバート・ライアン |
西部を荒らしまわる強盗団「ワイルドバンチ」の壮絶な最期。 | |
イージー・ライダー Easy Rider |
1969年 | デニス・ホッパー | ピーター・フォンダ デニス・ホッパー ジャック・ニコルソン |
社会的束縛を逃れて自由な旅を続ける若者たちが直面する社会の不条理と無残な最期。 | |
明日に向って撃て! Butch Cassidy and the Sundance Kid |
1969年 | ジョージ・ロイ・ヒル | ポール・ニューマン ロバート・レッドフォード キャサリン・ロス |
西部を荒らしまわった実在の強盗の友情と恋をノスタルジックに描く。ラストシーンと主題歌が著名。 | |
真夜中のカーボーイ Midnight Cowboy |
1969年 | ジョン・シュレシンジャー | ジョン・ヴォイト ダスティン・ホフマン |
ニューヨークの底辺で生きる若者2人の固く結ばれた友情とその破滅に向う姿を描く。 | |
女王陛下の007 On Her Majesty’s Secret Service |
1969年 | ピーター・R・ハント | ジョージ・レーゼンビー ダイアナ・リグ テリー・サバラス |
英国秘密情報部員と犯罪組織の娘の恋と結婚。そして、その娘の死。 | |
M★A★S★H マッシュ M*A*S*H |
1970年 | ロバート・アルトマン | ドナルド・サザーランド トム・スケリット エリオット・グールド サリー・ケラーマン |
朝鮮戦争での野戦病院の人々を描いたブラックコメディー。 | |
小さな巨人 LITTLE BIG MAN |
1970年 | アーサー・ペン | ダスティン・ホフマン フェイ・ダナウェイ |
121才の主人公がその生涯を語るアメリカ先住民として、また白人として生きた男のアメリカ史。 | |
いちご白書 The Strawberry Statement |
1970年 | スチュワート・ハグマン | ブルース・デイヴィスン キム・ダービー |
学園紛争に引き裂かれていく男女2人の恋。 | |
ファイブ・イージー・ピーセス Five Easy Pieces |
1970年 | ボブ・ラフェルソン | ジャック・ニコルソン | 裕福な音楽一家に育ちながら、他の兄弟とは異なる流転の青春を送る男の心象を淡々と描く。エンディングが印象的な作品。 | |
フレンチ・コネクション The French Connection |
1971年 | ウィリアム・フリードキン | ジーン・ハックマン ロイ・シャイダー フェルナンド・レイ |
麻薬組織に執念を燃やす刑事の活躍。若者や反体制側でなく、体制側の視点から社会病理を描く。 | |
バニシング・ポイント Vanishing Point |
1971年 | リチャード・C・サラフィアン | バリー・ニューマン クリーヴォン・リトル |
デンバーからカリフォルニアまで、15時間で陸送する賭をした男の「消失点」を描いた物語。 | |
ダーティハリー Dirty Harry |
1971年 | ドン・シーゲル | クリント・イーストウッド アンディ・ロビンソン |
殺人を犯しながら無罪放免になった犯人と刑事との攻防を描き、加害者と被害者の人権問題を提起している。 | |
時計じかけのオレンジ A Clockwork Orange |
1971年 | スタンリー・キューブリック | マルコム・マクダウェル | 近未来のイギリスを舞台に、欲望の限りを尽くす荒廃した自由放任と、管理された全体主義社会とのジレンマを描く風刺的作品。 | |
ハロルドとモード 少年は虹を渡る Harold and Maude |
1972年 | ハル・アシュビー | ルース・ゴードン バッド・コート |
19歳の自殺を演じることを趣味としている少年と、79歳の天衣無縫な老女との恋を描く。 | |
破壊! Busting |
1973年 | ピーター・ハイアムズ | エリオット・グールド ロバート・ブレイク |
麻薬組織と癒着した警察に反旗を翻す刑事2人の活躍と挫折。 | |
ダーティ・メリー /クレイジー・ラリー Dirty Mary Crazy Larry |
1973年 | ジョン・ハフ | ピーター・フォンダ ヴィック・モロー |
カーレース用の車を手に入れるために現金強奪に成功した若者3人組と、それを追う警察とのカー・アクション。 | |
スケアクロウ Scarecrow |
1973年 | ジェリー・シャッツバーグ | ジーン・ハックマン アル・パチーノ |
偶然出会った二人の男のロードムービー。荒くれ者のアウトローと「スケアクロウ」な生き方をする陽気な男。正反対の二人が織り成す奇妙な交流と友情、そして悲劇。 | |
ロング・グッドバイ The Long Goodbye |
1973年 | ロバート・アルトマン | エリオット・グールド | 探偵のフィリップ・マーロウが友人の死をきっかけにある事件に巻き込まれていくレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説の映画化。 | |
ペーパー・ムーン Paper Moon |
1973年 | ピーター・ボグダノヴィッチ | ライアン・オニール テータム・オニール |
||
さらば冬のかもめ The Last Detail |
1973年 | ハル・アシュビー | ジャック・ニコルソン ランディ・クエイド |
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ミーン・ストリート Mean Streets |
1973年 | マーティン・スコセッシ | ハーヴェイ・カイテル ロバート・デ・ニーロ |
||
セルピコ Serpico |
1973年 | シドニー・ルメット | アル・パチーノ | ||
ラストタンゴ・イン・パリ Last Tango in Paris |
1973年 | ベルナルド・ベルトルッチ | マーロン・ブランド | ||
カンバセーション…盗聴… The conversation |
1974年 | フランシス・フォード・コッポラ | ジーン・ハックマン | ||
チャイナタウン Chinatown |
1974年 | ロマン・ポランスキー | ジャック・ニコルソン | ||
ハリーとトント Harry and Tonto |
1974年 | ポール・マザースキー | アート・カーニー | ||
カッコーの巣の上で One Flew Over the Cuckoo’s Nest |
1975年 | ミロス・フォアマン | ジャック・ニコルソン ルイーズ・フレッチャー |
精神異常を装って刑期を逃れた男と、患者を完全統制しようとする看護婦長との確執 | |
狼たちの午後 Dog Day Afternoon |
1975年 | シドニー・ルメット | アル・パチーノ | ||
タクシードライバー Taxi Driver |
1976年 | マーティン・スコセッシ | ロバート・デ・ニーロ シビル・シェパード ハーヴェイ・カイテル ジョディ・フォスター |
社会病理に冒され、異常を来した男の憤り。 |
これらの作品は名作と言われる作品が多い。タクシードライバー、カッコーの巣の上で、狼たちの午後、チャイナタウン、時計仕掛けのオレンジ、ダーティハリー、枚挙に暇がない。確かにそれらも相当に強い映画だが、やはりこの映画と『ダーティハリー』が二大巨頭だ。それはやはりその二つに実話が盛り込まれているからだ。狼たちの午後やフレンチコネクションもそうだが、全体的に言えばやはりこの映画が強い。
以下はこの映画の主人公、ボニーとクライドの写真である。大恐慌時代の1930年前後と、アメリカン・ニューシネマの1970年前後の2つの時代を代表する顔を持つ、歴史に残る名作と言えるだろう。
実話、恐慌時代、この強盗の行方、衝撃、アメリカン・ニューシネマ、テルマルイーズ
『チャイナタウン』
アメリカン・ニューシネマの一つとされる作品。だが、名作と書かなかったのは、別に私はそこまで名作とは感じなかったからだ。確かに見応えのあるシーンはあるが、全体として観るとどうか。それが、続編である『黄昏のチャイナタウン』が失敗したことの背景と繋がっているのではないか。アメリカン・ニューシネマというのは当時の時代背景に影響している。ベトナム戦争という国の理不尽な決定に逆らうかのように、こうした終わり方をする映画が多く製作されたのだ。
だから『カッコーの巣の上で』然り、これらがずば抜けて名作だと言えない理由は、これらの作品が『流れの中の一つ』に過ぎないからだろう。当時はさておき、今には通用しないのであれば、そこにあるのは流行である。
真犯人
『Mr.ビーン カンヌで大迷惑』
1998年公開の映画『ビーン』の続編。確かに、Mr.ビーンという男の話は有名でもちろん私の耳にも届いていた。だが実際にはどうか。チャップリン同様、何だか気が乗らない。それは私が映画に対して求めているのが、ホラーやコメディといった要素ではなく、人生の教訓だからかもしれない。しかし、いざ観るとそれまで長い間勝手に距離を置いていたその時間が何の意味もない時間だったと思い知った。
映画館で笑うことはほとんどない。泣くこともない。周りにつられることもない。むしろ『周り』が嫌いだから、なるべく平日に一人で映画館にいくぐらいである。そしてそれを13年間毎週連続で継続するという筋金入りだ。そんな私がだ。
ゲラゲラと笑ってしまうのだから。
笑う
『ミッドナイト・サン 〜タイヨウのうた〜』
2006年の日本映画『タイヨウのうた』のハリウッド・リメイク。しかしそれもまた1993年の香港映画『つきせぬ想い』を原案としたものという。更に、その映画はこの設定は伊・日合作映画『ラストコンサート』とまったく共通している内容があるという。珍しい状況の話ゆえどれを観ても見応えがあるのだろうが、その『リレー』のせいなのかなんなのかグラデーションがついているのかいないのか、徐々に薄くなってしまったのかもしれない。批評家からの評価は高くないようだ。
だが私はこれが初見であり、彼女が負っている奇病に対しても無知だから、余計な色眼鏡なしにこの映画が描きたい、伝えたいメッセージを純粋に受け取ることができ、中々良い印象を得た。10代の青春を描いた映画としては、映画に相応しい内容と言えるだろう。細かいことはさておき、要は命の尊さに目を向けたいのだ。そう考えた時、『音楽』という儚く美しい存在は、そのメッセージと強くリンクする。
タイヨウのうた、リメイク、病気、
『HACHI 約束の犬』
1987年(昭和62年)に公開された日本映画、『ハチ公物語』のリメイク作品。私はオリジナルを観ていないので、この映画で大いに感動してしまった。私も犬を飼っていて、亡くなった後にその名前を会社名にして起業した。そしてそれ以来15年以上犬を飼っていない。それが私と犬との関係だ。安易には近づけない。それほど愛おしくて、守るべき、尊い存在なのだ。
かつて、本当にそういう犬がいた。そしてそれが渋谷駅のハチ公となって今も街のシンボルとしてこの世界で主人を待ち続けている。私も正確には知らなかった。きっと多くの人とて同じだろう。知らずして待ち合わせ場所にして、ハチ公のことより待ち合わせている恋人との時間のことしか考えない。ハチに思いを寄せる人は1割いるかいないかだ。
それを俯瞰・客観視点で1000倍速で見たい。とんでもない数の人が行き来し、あっという間に夜が来て、かと思ったら朝が来て。秋になり、葉が落ち、冬になり、雪が積もり、春になって温かい希望のエネルギーに満ち溢れ、そうして一年が過ぎ、二年が過ぎる。しかし、周りに一時的に集まる人たちは流行の波に流されながら服装や言葉遣い、持ち運ぶアイテムは変わるが、やることは同じだ。知らずして待ち合わせ場所にして、ハチ公のことより待ち合わせている恋人との時間のことしか考えない。ハチに思いを寄せる人は1割いるかいないかだ。
しかし、ハチ公はじっと動かない。銅像だからではない。彼は生前もそうして待ち続けていたのだ。その狂おしいほどの健気さが愛しくて、私は逆に、泣かなかった。泣いて感動して満足し、自己満足に陥るのは失礼だと判断した。私は敬意をもって彼の一生と向き合った。
犬が可愛い、実話、リメイク、感動
『イエロー・ハンカチーフ』
山田洋次監督と高倉健の名作『幸福の黄色いハンカチ』のリメイク版だ。桃井かおりもカメオ出演していて、嬉しいシーンもある。原作と比べて評価をつけたがる人もいるだろうが、私は切り離して観ることができるから、これはこれで一つの作品として見応えのある内容だった。
黄色いハンカチ、リメイク
『つぐない』
例えば、『黄昏(1952年)』という映画がある。この映画で主人公のカップルは、悲惨な最後を迎える。観方によっては哀愁があるが、決してハッピーエンドとは言えない、なんとも言えない結末となる。この『つぐない』もそれに似て、妙な人生を見せられる。誤解した少女が一人の人間に罪深いことをしてしまい、それを償いたいという、そういう内容である。両者とも確かに普通ではない。普通とは、家庭を築いて、一軒家を持ち、家族全員が五体満足に暮らし、父親は少しでもいい給料を貰えるよう日々努力し、子供が元気で学校に通い、・・というそういう『型』のことである。
だからそれと比べて普通ではない。いや、普通を壊してしまったのだ。そして壊されてしまった人の人生は過酷になった。そんな、普通ではない狂った人々の人生に興味がある人は、覗いてみるといいだろう。
『ジャッジ 裁かれる判事』
大物俳優のロバート・ダウニー・Jrとロバート・デュヴァルがついに親子を演じたというから、同じ『ロバート』と名が付くので実の親子共演かと思ったら、よく考えたら向こうでは名前が先にくるので、名字は同じではなかった。しかし、大物タレントが共演したという事実は間違いないことである。特にデュヴァルの真に迫った演技がすごい。年老いたら年老いたでこういう演技ができるようになり、これは若者にはできない。そういう声が聞こえてきそうである。事実彼はこの映画でアカデミー賞助演男優賞に選ばれたようだ。
父親が裁判官。息子が弁護士。両方とも信念を持って、有能であればあるほど、それは推進力があるということだ。アインシュタインは言った。
その言葉通り、彼らの間には確執が起きていた。だが、いざとなればどうだ。例えば、そんな父親がボケる。あるいは、重病を負う、投獄される、またあるいは、過失致死を犯せばどうだ。男親子の意固地な間柄を柔らかくほぐすのは女性だ。だが、そんな妻であり、母はもうこの世にいない。男の絆が試される。D・H・ローレンスが言ったように、
緩んでしまった家族の絆が、試される。
確執、大物共演、
『小説家を見つけたら』
この映画の監督は『グッドウィルハンティング』と同じ監督であり、展開が似ている。一方がハマらなくても、もう一方がハマる場合もあるから、ぜひ併せて観たいところだ。私は好きな映画である。その映画同様に哀愁があり教訓性があり、心温まる。『良い映画』として人に勧めることができる、素敵な映画だ。
絆、哀愁、人生の師
『マザー・テレサ』
彼女ほどの大人物の映画なのに、Wikipediaにその映画詳細が無いのは不思議だ。インドにおいて、宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀は、1997年9月13日にインド政府によって国葬として荘厳に行われた。インド人ではない、ギリシャ、マケドニアの彼女がインドで国葬されるということが、彼女がどれだけの人物だったかがわかるワンシーンだ。2011年にサイババが国葬されるまで、唯一彼女だけがインド人以外で国葬された人物だった。
それだけではない。1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた、1996年にはアメリカ合衆国史上5人目の名誉市民に選ばれている。全世界からその活動を称賛されたその大人物の映画がWikipediaにないのが不思議だということだ。
『マザーテレサからの手紙』を先に観ていた私は、その内容と比べながら観たわけだが、あまり大差は無かった。どれも残された記録を元に作ったのだろう。多少角度が違うので、二つ観れば彼女のことをよく理解できるわけだ。私の両親はクリスチャンを名乗る人間で、もう30年以上は教会、あるいは集会に通い続けている。だから私には彼女らのような人間の行動は非常に興味がある。そして、やはり名だけではなかったのだ。タゴール、ジャワハルラール・ネルー、チャンドラ・ボースらを考えても、ガンジー、そしてマザーテレサを超える人間は、そう簡単には出ないだろう。
偉人、女性、宗教、実話、
『ギター弾きの恋』
1930年代、ジャズ全盛期のシカゴ。ジプシージャズの天才ギタリストのエメット・レイを描いた実話である。・・と見せかけてそういう人物はいない。それは調べるまで分からなかったからつい実話だと思って観てしまっていた。実際にこういう人がいたのかと。ウディ・アレンの映画というのはやはり好き嫌いが分かれる。基本的に、あまり日本人の性質とは合わないかもしれない。往々にして彼の映画では性的な要素をユニークに描くが、海外ではそういうことがジョークで住んでも、奥ゆかしい性質を持つ日本人からすると『破廉恥』であり、美しくはない。
少し前の日本人は着物を着て、男は外で稼いで女は家を守った。それはもちろんもう時代遅れだが、日本で古くから蔓延しているこの文化と性質が完全に『入れ替わる』までまだまだ時間がかかる。あと100年もすればだいぶ変わるだろうが、まだウディ・アレンの描く大っぴらな世界は日本人とは合わないだろう。合う人もいるというくらいだ。
『イングリッシュ・ペイシェント』
第69回アカデミー賞で最多12部門にノミネートされ、作品賞をはじめ最多9部門受賞。第54回ゴールデングローブ賞では最多7部門にノミネート、ドラマ部門作品賞と作曲賞を受賞した。・・という輝かしい功績ゆえに『観るべき映画』としてリスト入りしていたわけだが、内容が不倫なだけに意見は分かれる。何をやったところで不倫の話に賞を与えるということはその正当化にも近い感覚があり、眉をひそめる人もいるだろう。私は特にそうではないが、多少そういう倫理があり、かつ完璧主義者ゆえ、
いや、不倫やん
として、一つでもそういう問題がある以上、あまりこの話を美化することはできない。それさえなければいい。その要素さえなければドラマチックなシーンがいくつもある。
不倫、戦場医療、この死を非難(プライベートライアン、世界一キライな、グラントリノ、スペースカウボーイ、アルマゲドン)、間に合うか(グリーンデスティニー、128時間)、戦場の哀しいピアノ(戦ピアニスト、動物園)
『us』
この監督の前作に『ゲット・アウト』というものがある。それはとても見応えのある内容だった。単なる人種差別の話ではなく、メッセージ性が高く、エンタメとしても面白いものがあった。今回、映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには459件のレビューがあり、批評家支持率は94%、平均点は10点満点で7.94点。サイト側による批評家の見解の要約サイト側による批評家の見解の要約は
「ジョーダン・ピール監督の第二作は野心的かつ斬新なホラー映画に仕上がっている。『アス』は「デビュー作で脚光を浴びても、2作目はパッとしない」というジンクスを打破したのである。」
ということだそうだ。だが、私の意見は真逆で、『デビュー作は素晴らしかったが、2作目はパッとしない』ものだった。映画評論のプロたちとこうも意見が真逆になることは珍しいが、それは私が『偏っている』ことが原因だろう。いや、私は実は偏りが嫌いな人間である。それは、クリスチャンの両親に育てられ、それを強要され、それを追従しなければ家を出ていくしかないとまで言われた私だからこそ、無宗教を貫き、それに徹底し、キリスト教系でやる妹の結婚式にすら行かなかった筋金入りで、偏らないことを徹底している、『という偏り』が、今回浮き彫りになったのではないだろうか。
三島由紀夫は言った。
私はホラー映画を観ない。ホラーを映画として観ていないのだ。時間の無駄だと考えている。私も10代にはよく観た。むしろ、その手の映画がメインだった。そしてそれを女性とイチャイチャする道具として使ったり、ケラケラ悪友と笑いながら、馬鹿にするかのように眺めていたのである。
得たものは何もない。人が簡単に死に、肉体がバラバラになる姿を見て『ゾクゾクする』とヘラついた顔で言うような奴は、SNSでも即ブロックすることになる。私の人生がそういう『中途半端』な人間と違って、ホラー映画顔負けの波乱に満ちたものだったということも関係しているかもしれない。『笑えない』のだ。堕ちるところまで堕ちた人間は。
そして、人生の最深部に堕ちた人間は、上を見上げるしかない。最上部にいるのは、『四聖』と言われる儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の、四名の歴史的賢人である。彼らの教えを見て、人生の真理を理解した人間は、ホラー映画などで時間を『浪費』する時間はないと悟るのである。
その『偏り』が、私をこの『ホラー映画』に徹したusという映画を、低く評価したのだ。
『スペースウォーカー』
まずおさらいしよう。米ソで行われたこの星の『宇宙開発競争』はまずソ連の人工衛星『スプートニク1号』の打ち上げ成功から始まった。
- 1957年10月:ソ連、最初の人工衛星スプートニク1号
- 1961年4月:ソ連、宇宙に最初の人間ユーリ・ガガーリン
- 1961年5月:アメリカ、宇宙に最初のアメリカ人アラン・シェパード
- 1963年6月:ソ連、宇宙に最初の女性ワレンチナ・テレシコワ
- 1965年3月:ソ連、最初の宇宙遊泳アレクセイ・レオーノフ
- 1966年2月:アメリカ、最初の月着陸ルナ9号ロボット無人探査機
- 1968年12月:アメリカ、月の軌道に最初の人類アポロ8号宇宙飛行士たち
- 1969年7月:アメリカ、月に最初の人類アポロ11号飛行士ニール・アームストロングとバズ・オルドリン
※アポロ飛行計画の成功は、宇宙開発競争の終わりのはじまりとなった。
この映画は、太字であるアレクセイ・レオーノフの実話を、本人監修のもとに映画化した伝記ドラマである。
宇宙開発競争、ソ連の歴史
『フォー・ウェディング』
この作品の見どころは、脚本のリチャード・カーティスが実力者であるとういことだ。下記にまとめるのは、上が脚本、下が彼が監督を務めた作品である。
- ローワン・アトキンソンのブラックアダー Blackadder (1983年 – ) テレビシリーズ 脚本
- Mr.ビーン Mr. Bean (1989年 – ) テレビシリーズ 脚本
- フォー・ウェディング Four Weddings and a Funeral (1994年) 脚本
- ビーン Bean (1997年) 製作総指揮・脚本
- ノッティングヒルの恋人 Notting Hill (1999年) 脚本
- ブリジット・ジョーンズの日記 Bridget Jones’s Diary (2001年) 脚本
- ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月 Bridget Jones: The Edge of Reason (2004年) 脚本
- ドクター・フー Doctor Who (2010年) テレビシリーズ 脚本
- 戦火の馬 War Horse (2011年) 脚本
- トラッシュ! -この街が輝く日まで- Trash (2014年) 脚本
- イエスタデイ Yesterday (2019年) 脚本・製作
- ラブ・アクチュアリー Love Actually (2003年) 兼 脚本
- パイレーツ・ロック The Boat That Rocked (2009年) 兼 脚本
- アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜 About Time (2013年) 兼 脚本
- レッド・ノーズ・デイ・アクチュアリー Red Nose Day Actually(2017年)兼 脚本
どれも名作ばかり。私もこれを調べて初めて知ったのだが、確かにすべての映画に似たような気配が漂う。どれも『心温まる』もが特徴で、彼がきっと心優しい人なんだろうと思うばかりである。
本当の相手、リチャード・ヒューコンビ(ノッティングヒル、ラブアクチュアリー)
『ユー・ガット・メール』
『ユー・ガット・メール(メールが届きました)』。かつて、このキーワードは『最新』だった。公開時の1998年は、まだEメールが普及したてであり、最前線。大きなパラダイムシフトによってこの世界の形が変わったこのタイミングで、この手の映画が出るのは必然的でもあっただろう。この映画は1940年に製作されたエルンスト・ルビッチ監督の『桃色の店』のリメイク作品で、そこでは「手紙で文通」である。手紙での文通も、パソコンで『ユー・ガット・メール』と鳴り響くEメールも、2020年の今考えると、かつて通った道である。そうなると、もしかしたらいずれこの次の展開がリメイクされるのかもしれない。そんなことを考えながら観るのも、一つの楽しみ方である。
人間がそこにいる限り、どんな時代でも起きることは同じだ。流行というソフトは違っても、人間というハードは未来永劫変わらない。ぜひ、ソフトにとらわれずにハードに目を向け、彼らが織りなす恋愛関係を見て、ハラハラドキドキしたい。
犬が可愛い、こじれた恋愛、本当の相手
『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』
天才の人生というのは見ていて面白い。常識的な人生に退屈さを覚える人は、天才の才能がある。もちろん、変人の可能性もある。私が見出した言葉に
『結果を出さない変わり者は『変人』と言われ、結果を出した変わり者は『天才』と言われる。』
というものがある。記事のリンクも張っておこう。天才というのはそれでいてごく一握りだ。ただ列からはみ出すだけではだめなのである。
そんな彼もまた、悪友たちと『はみ出し者』としての刹那的な人生を送る日々を過ごしていた。この映画の見どころは、ノーベル賞の数学版、フィールズ賞受賞者でマサチューセッツ工科大学数学科教授の教授が出した、数学の超難問を軽々と解答してしまうレベルの天才の生きざまと、その天才の生き方、そしてその人生の『密度』だ。彼は天才だ。だが、人間だ。それは映画の最後の最後まで目を離さなければ、見えてくる哀愁である。
暗号、天才、精神、トラウマ(ミスティックリバー)人生の選択肢(YESマン)
『ボーン・コレクター』
安楽椅子探偵(あんらくいすたんてい)という言葉があるらしい。現場に行ってその足で情報を収集することはせずに、室内にいたままで、来訪者や新聞記事などから与えられた情報のみを頼りに事件を推理する探偵などのことを言う。その意味で、古畑任三郎、江戸川コナン、刑事コロンボなどとは全く違う探偵のことになる。だが、彼の場合、意図せずしてそうなってしまった。怪我をしてしまったのだ。生きていただけでも奇跡なのである。
彼がタッグを組んで一緒に操作することになった相手は、一人の優秀な女性捜査官だった。高い評価を受けているわけではない。だが、安楽椅子探偵を務めることができるクラスの彼の直感が、彼女を高く評価したのである。だが、彼女はとあるトラウマを抱えている。女性ということもある。それが物語に危険な緊張感を漂わせる。
そしてついに彼らはこのタイトルにあるような『危険な犯罪者』まであと一歩まで迫るようになる。よく考えてみる。そんな危険な犯罪者に立ち向かう主軸が、身動きできない怪我人の探偵と、トラウマを抱えた女性捜査官だということを。
『ノッティングヒルの恋人』
イギリスはロンドン西部のノッティング・ヒル。そこを舞台にした映画だ。イギリスの映画には往々にしてヒュー・グラント、あるいはコリン・ファースが活躍する。英国が誇る2大スターだ。彼は超一流なのにコメディからシリアスまで幅広く演じる。だからこういう役柄を担っても視聴者側は何も違和感なくそれを見ることができる。例えば日本なら木村拓哉が、『何をやってもキムタクだ』と言われるだろう。本人もそれを気にしているようだが、彼が大事にしているものが『プライド』ではなく『見栄』だと気づけば、彼はそうは言われなくなる。
ある時、タモリと中居正広の特別番組で、キムタクが桐谷健太と腕相撲をする状況があった。生放送的(かそれに近い放送)で彼は明らかに桐谷健太に負けそうになったが、あろうことか肘を浮かせて体重を乗っけて無理に勝利を掴むという執着心を見せた。彼はきっと(キムタクは負けちゃいけない)として、ファンをガッカリさせないようにやっただろう。背負うものも大きい。だがそれは『見栄』であり、真にプライドがある人間とは、自分の弱さ、無知を認め、それを人にさらし、無知の知を理解して日々謙虚さを軸にしながら勉強、探究を積み重ねていく人間のことである。
それが分かれば、彼は次のステージに行くだろう。彼は私よりもうんとタレントとして才能がある。だが、こと人間のことに関して言えば、それを勉強した人間が一枚上手となる。ヒュー・グラントたち超一流も、少し情けないこの手の男を見事に演じ切ることが一流の俳優だと理解している。そういう背景が、この映画の価値を引き上げている。
好きになった女性が高嶺の花。そういう状況に直面した時、常々自分の情けなさを自覚している自信のない人間が取るべき行動とは、一体どういう行動だろうか。フランスの作家プレヴォは言った。
音楽
『フェンス』
これはかなり玄人受けの映画だ。だから、日本ではアカデミー賞にノミネートされても劇場公開されなかったり、逆に受賞をきっかけに公開が実現した作品は過去に前例があるが、本作では受賞したにも関わらず劇場公開が見送られた稀な事態となったという。アメリカの批評家の評価もすこぶる高く、批評家支持率は93%、平均点は10点満点で7.8点となっている。
だが、確かに劇場公開されなかった理由もうなづける少し変わった映画である。『行動範囲』が狭いのだ。ほとんどが家の付近だけで終わっている。しかし、後で冷静に考えてみると、もしかしたらその事実もこの映画のメッセージの一つなのかもしれない。
『フェンス』というのは作中では普通のあのフェンスのことだと説明がある。あるというか、フェンスを作っているから、ついそうであるという風に感じる。だが、よくよく考えてタイトルと映画の内容を照らし合わせてみると、まさかそのフェンスのことではないと気が付くことになる。では一体どういう意味なのか。ここがこの映画の深いところであり、これを見抜いた時に感じる感慨を得られない人は、この映画の評価を低くすることになるだろう。
明言されている説明文をどこかで見ているわけではないので推定になるが、恐らくキーワードは、
- 黒人の可能性(人種問題)
- 死神対策(病気で死が近い)
このあたりになるはずだ。普通フェンスをすると、ここで出た死神対策のように、例えば動物などの害から身を守ることができる。泥棒もそうだ。メキシコでは家の窓に鉄格子があるのが普通だが、日本人はそれを理解できないだろう。フェンス(柵)は普通、ガードの役割を果たしてくれる。だが、今の鉄格子の話を聞いて、どこか心に閉塞感のようなものを覚えなかっただろうか。恐らく、それがもう一つのこの言葉の意味だ。
彼はフェンスを作っている。どうして作っているのか。自分はそのつもりだろう。だが、実際にそのフェンスは、自分の人生に何をもたらしたのだろうか。
黒人、哀愁
『ビッグ』
大きい。それがビッグという言葉の意味だ。何が大きいのか。それは『子供』である。子供なのに2mくらいある人間の話だろうか。違う。では、子供なのに大きな器を持った人間の話だろうか。それも違う。それは映画を観始めればすぐに分かることだ。常識ではあり得ない展開が待ち受けていることになる。
だが、これは単なるファンタジーの話で終わらない。それは、教訓性に富んでいるからである。妙な感覚に包まれる。現在の自分の既成概念や固定観念、思い込んでいるすべての常識を、再検討したくなる。そして、自分にとって何が一番大切で、本来人は、どんなことに魅力を感じ、それに忠誠を誓っていくべきか、そういうことを思い知ることができる。
ほのぼの
『シングルマン』
監督のトム・フォードは世界的なファッションデザイナーとして知られている。彼は次の作品『ノクターナルアニマルズ』でヴェネツィア国際映画祭審査員大賞を受賞しているが、どの作品も中々癖のある作品だ。私は全容を知らないが、それはファッションデザイナーの彼の私生活と思想が関係しているのかもしれない。彼を浅く調べても同性愛者だとは出てこないが、例えば彼が関与するイヴサンローランの創立者であるイヴサンローランは、そうだった。
デザイナーやクリエイターには本当に性別不合である人が多く見受けられる。ダンサー、デザイナー、アーティストの世界で群を抜くためには、『非常識』さが一つのカギとなる。常識とは往々にして『多くの人に当てはまる概念』だから、マイノリティ側にいる彼らのような人は、その点で少しだけ有利なのかもしれない。
刺さる人には深く突き刺さる。そういう映画である。
性別不合
『ブレイド』
マーベル・コミックの『ブレイド』を映画化したもの。『ウォッチメン』も『ファンタスティックフォー』もすべてマーベルだが、どうして『アベンジャーズ』だけがヒットし、これらの作品が妙に『マイナー』な印象があるのか。それは、元々漫画やアニメを作るような人が、『引きこもり』同然の生活を長期間送るような、そういうスーパーインドア派で、内向的で、自然とマニアック向けな内容を作りだすことが多いことが関係している。
爆笑問題の太田光も『自分たちも引きこもり同然』として、ネタ作りをする自分を自虐的に話したが、物書きでも漫画家でも同じことが当てはまる。漫画家育成ゲームなどをやればそれをよく理解することだろう。寝て起きて机に向かって漫画を描き、期限に間に合うように編集者から急かされながら漫画を描く。そうういう日々を送り続ける。それが苦ではない人は、必然的に内向的になるわけで、どちらかというとこの世界に溢れるのはそうではない人が多い。
ブレイドは、ヴァンパイアが活躍する漫画で、血もたくさん出てくるし、ウェズリー・スナイプスという体格のいい黒人というだけで、それを観慣れない人からすれば『威圧的』だ。それゆえ、この映画にあまり
自分に近いものを感じるなあ。没入できそうだなあ。感動できそうだなあ
と感じれる人は、そう多くはないのだ。
しかしアベンジャーズはその辺りを上手く演出し、マニアックな話であるはずの物語を世界規格に引き上げることに成功した。そこには素人には分からない実に多くの戦略が隠されているだろうし、緻密に計算されているはずだ。ブレイドは、いざ鑑賞するともちろんつまらないということはない。だが、万人受けはしないだろう。しかしこういう映画はハマる人にはどっぷりとハマる。
『MAD MAX』
私はあまりヘビメタとかヘビーなロックの世界を好きになれない。たくさんピアスを開けたり、モヒカンにしたり、革ジャンを直で着たり。そういうのを見てあまり感想が出ない。それは日本の暴走族を見て生きてきたと言うことも関係しているかもしれない。だからこの映画の顔とも言えるそういった暴走族の彼らを、あまり好きになれない。トム・ハーディのリメイク版でも、かかる音楽がそういう方向だし、私のあまり好きではない方向だと再認識した。
うるせえな・・
単純にそういう感想を抱いて終わりである。だが、やはり名作ということで観ておかなければならない。すると、そうした私の先入観によって身構えた私の心は、物語終盤で鷲掴みにされてしまっていた。
アメリカン・ニューシネマとは、1960年代後半から1970年代半ばにかけてアメリカでベトナム戦争に邁進する政治に対する特に戦争に兵士として送られる若者層を中心とした反体制的な人間の心情を綴った映画作品群、およびその反戦ムーブメントである。この『流行』は、当時のアメリカ人に『自由』を与えた。この時製作された様々な映画に『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』、『時計仕掛けのオレンジ』、『カッコーの巣の上で』などがあるが、わかる人にはこれらの映画の共通点からアメリカン・ニューシネマがどのような流行だったかが見えてくるだろう。
1979年に上映されたこのMAD MAXにも、どこかその面影がある。したがって、強烈なインパクトを与える。それがこの作品が伝説の映画となった理由の一つでもあるだろう。
復讐
『コマンドー』
シュワちゃんの映画は父親の影響で家に『プレデター』を筆頭とするビデオがたくさんあったのでよく見ていた。バトルランナー、コナンザグレート、ツインズ、キンダガートンコップ、ゴリラ、トゥルーライズ、ラストアクションヒーローなど、ほとんどを観ただろう。コマンドーもそうだ。だが、大人になってからもう一度観るべきだ。そう考えて視聴を試みた。
シュワちゃんは、ビルドアップされた肉体と、それを存分に活かしたアクションを披露し、この作品で正義の味方としてのイメージを確立し、アクションスターとしての地位を不動のものにしたという。また、日本でのこの映画の人気は異常で、本作が(2013年当時で)地上波テレビ放送洋画最多作品であると紹介されている。日本ではテレビ放映されるたびに、インターネット上でいわゆる「祭り」になるほど人気が高いと報じられていて、インターネット掲示板「2ちゃんねる」での実況板ではピーク時には毎分2,000レスポンスを記録する、関東ローカルの昼の放送にもかかわらず30スレッド(1スレッド1000書き込み)を消費する、サーバーがダウンするといった事象が発生するという。
だが、実際にはあまり大したことはないだろう。アクションをド派手にかます映画のジャンルだが、今の技術で彼を演出した方がもっと強そうに映るはずだ。『ワイルドスピード』だとか、『エクスペンダブルズ』だとか、これを超えるアクション映画の方がむしろ多いと言える。だが、主人公のメイトリックスの強さということで考えると、一人でマフィアさながらの敵陣地に乗り込むくらいだから中々のものだ。だが、それでも『ランボー』を超えることはないだろう。そういう映画である。勧善懲悪と、わかりやすい展開ということが多くの人に訴求できたことが人気の要因かもしれない。
『ALI』
この映画の評価が低かったため、常に評価を疑っている私であっても、やはり思い込みによって遠ざけてしまっていた。偶然にも動画配信サービスに存在しないこともそれを手伝ってしまっていた。(つまらないから登録されてない)のだと。だが、実際には非常に興味深い内容だった。いつも思うのだが、そもそも皆は映画の『何を見て』評価をつけているのだろうか。
60~70年代というのは、多くの黒人指導者が亡くなったわけである。黒人の公民権運動家の代表格メドガー・エヴァースが暗殺されたのが1963年、マルコムXが暗殺されたのが1965年、キング牧師が暗殺されたのが1968年。ジョン・F・ケネディもその弟のロバート・ケネディも暗殺された。彼はマルコムXと非常に仲が良い人間だったから、ムスリムでもあり、彼の名を取って『カシアスX』として活動。このアメリカの重要な歴史を考えても、モハメド・アリという人物をピックアップすることは非常に価値のあることである。
したがって、評価は決して低くない。
黒人、実話、ボクサー
『追跡者』
ハリソンフォードの名作『逃亡者』のスピンオフ作品。そこに登場するトミーリージョーンズ演じるジェラード連邦保安官上級代理たちの目線で、あの世界の中をもう一度満喫することができる。私は前者しか知らなかったので何だかとても得をした気分だ。どうも『2』とか、『連続ドラマ』というよりもこういうかたちの方が気分が上がるらしい。スピンオフとしても十分見応えのある内容だった。今やトップスターのアイアンマンことロバートダウニーJr.も重要な役で出演する。
逃亡者
『僕はラジオ』
ジェームズ・ロバート・ケネディという男がいる。彼は妙だ。妙な動きをしていつもその辺りをうろついていた。だが、悪気はないらしい。知的障碍者のようだ。彼のような人間は『誰に出会うか』が運命を決める。悲惨な末路を迎えた実話もある。韓国の『7番房の奇跡』の主人公は、無実の罪なのに刑務所に入れられてしまった。転んで頭を打ち死んでしまった少女を生き返らせようとして、血流の確保の為にズボンのチャックをおろし、人口呼吸をする。だが、それを偶然見てしまった老婆に、その光景を『完全に誤解』されてしまった。彼はその事情説明をきちんと行うことができず、当時の警察たちの恣意的推論によって冤罪として懲役刑を受け、いわれもない最低なレッテルを張られ、人権を侮辱されたのだ。
ケネディもまた、一歩間違えればそうなるリスクを負っていた。彼は『ラジオ』というあだ名をつけられた。それは一体どういうことだろうか。彼はとても素晴らしい人間関係を築き上げられたようだ。彼の持つ健康状態、その当然ではない『奇跡の出会い』、そして、『彼ら』が生み出した奇跡とは。
何故か温まる、実話、フットボール、感動、絆
『ザ・ダイバー』
実在の人物「カール・ブラシア」(1931年-2006年)を描いた物語である。彼はアメリカ海軍史上、アフリカ系黒人として初めて『何か』をした潜水士であり、それを映画を楽しみながら観ていきたいわけである。彼の生年月日を見てわかるように、彼は黒人差別の真っただ中を生きた。例えば60~70年代というのは、多くの黒人指導者が亡くなったわけである。黒人の公民権運動家の代表格メドガー・エヴァースが暗殺されたのが1963年、マルコムXが暗殺されたのが1965年、キング牧師が暗殺されたのが1968年。ジョン・F・ケネディもその弟のロバート・ケネディも暗殺された。
その頃、ちょうど人類の視線は『地球の外』に向けられていた。『月面着陸』である。ソ連が打ち上げた衛星『スプートニク』を皮切りに、米ソの宇宙戦争が始まった。冷戦真っただ中でもあったその時期、より高い位置に行く技術を持っている国が強い。衛星写真や、ミサイルなどの設置や確保で優位性を得て、外交を有利に運ぶのである。そこには多くの資本家(大金持ち)たちも関与していただろう。
黒人問題もそうだ。白人至上主義(KKK)たちは黒人が世に出ることを許さない。黒人たちを暗殺する裏には往々にしてこういった人物たちの私利私欲、あるいは思想が関係している。カールもまた、潜水士という舞台でその『向かい風』を強く浴びてしまっていた。だが、彼は映画化されたのだ。一体彼の、何が稀有なポテンシャルだったのか。この映画は人種を超え、多くの人間に勇気を与えるだろう。
実話、黒人、病気、絆、非凡、不屈
『エリン・ブロコビッチ』
大手企業PG&E。『P&G』ではない。この企業に対し、エリン・ブロコビッチという女性がある記録的な事実を作り上げる。多くの女性に勇気を与えるだろう。女性だけではない。一般人とは言ったが、その中でも結構『はみ出し者』に近いような生き方をしていても、まだあきらめる必要はない。何を隠そう、彼女こそがその類の人間だったのだ。彼女は一見すると非常識で目立ってしまうが、どうも心底に『一本の槍』を抱えていたらしい。その槍がアメリカという強大な国に根を張る巨大組織に、どれだけ通用するか。見応えがある。
実話、女性、裁判、健康被害、非凡、巨大組織
『7月4日に生まれて』
ロン・コーヴィックの同名の自伝的小説を映画化。『プラトーン』で有名なオリバー・ストーンが監督を務める。主演のトム・クルーズは役作りのため、約1年間車椅子に乗って生活した。凄絶な真実を描くオリバー・ストーンが扱うトム・クルーズは新鮮でとても見応えがある。1989年の作品ということもあるが、28歳だった彼もあれから30年経って58歳(2020年)。もはや超一流になった彼がこうした役を演じるのを見ることはなさそうだ。あるとしたら人気が落ち始め、あるいは高齢になり、『できることに限りがある』としてお払い箱となってしまうその時、『斬新な角度』としてあり得るかもしれない。
実話だ。だから壮絶である。ベトナム戦争というだけではない。戦争がどれだけ悲惨なものなのかということを、『戦後の障碍者』という切り口で伝えている。だから戦争のシーンはほんのわずかだ。それならプラトーンで描かれている。戦争映画というのは戦場を描いてしまうとどの映画も同じようなものになってしまう。私は多くの映画を観たから分かるが、各戦争映画で抜きんでる作品は、どれも差別化を意識している。『戦闘機、戦車、スナイパー、海軍、空軍、陸軍、ドローン』など、様々な切り口に特化して描くことで差別化を図り、新鮮さを与えることに成功している。今回は戦後の障碍者だ。
だからとても重苦しいシリアスな内容である。それがこの映画が『ミッションインポッシブル』よりも有名ではない理由だろう。だが、いざ映画を観るとこういう映画にこそ人生の教訓があることを思い知るのだ。アメリカは第二次世界大戦に勝った。だからその息子世代はベトナム戦争という新しい戦争で、父親たちの影を追う。ここには、日清戦争、日露戦争に勝って自惚れた大日本帝国に近い自惚れや過信があっただろう。
ケネディやニクソンという国のリーダーの影響もあった。雰囲気全体がもう、『ベトナム戦争に行くべき』だった。だが、すべてが間違いだった。それに気づいたときにはもう、五体不満足の体だった。
戦争、病気、命の使い方、教訓
『レッド・ブロンクス』
何度も観ていたということは、鑑賞を始めたら思い出してきた。コンビニの感じ、不良のレース対決の感じ、何となくの雰囲気で脳に刷り込まれていた。子供の頃に何度も観ていたのだろう。では、大人になって見識がついてから観るとどういう感想に変わるか。見応えはある。だが、『酔拳』でウォンフェイフォンの母をユニークに演じた彼女の良さがほぼゼロだし、中国仕様に帳尻を合わせると違和感が生じる。ただ、ジャッキー・チェンはこの映画で世界全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げ、米国中でジャッキー・チェンブームを巻き起こした。そういう意味で初見のインパクトとしては『つかみは成功』だったのだろう。
ただ、ジャッキー・チェンの実力は完全に生かしきれてはいない。違うエリアで積み上げてきた『型』を、違うエリアに受け入れられる『型』に当てはめ変えるところに無理が生じ、ちょっとした違和感が生じるのだろう。これが、ハリウッド映画以外が全世界規格として通用しない理由の一つだ。その意味で、『パラサイト半地下の家族』というのは世界規格に当てはまる印象を受けた。それもこれも、ジャッキーら先駆者たちの積み上げてきた失敗や成功といった基礎があってこその栄光だと言えるだろう。
復讐
『キル・ビル2』
これは尻すぼみとなった。日本での売り上げも半分に落ち、世界でも少し落ちた。だがまあ『搾り取る』ことには成功しただろう。もちろん3までには発展しない。ここまでが限界だ。映画の2としてはインパクトが弱いが、ドラマの2話目とするなら何の文句もない。大体2というのはそういうものである。1でついたファンを楽しませるのが目的だ。その役目は果たすことになるだろう。
『キル・ビル』
音楽だけは何度も聞いて、着信音にもしていた時代があるというのに映画は観ていなかった。だからその音楽のシーンが流れたときには鳥肌が立った。だが、このBGMが主題歌のように扱われていたが、一瞬で終わるし、タランティーノらしく様々なシーンで様々な音楽が流れるので、主題歌ということではなかった。その辺り、ハリウッドにしがみつこうとする日本の二流さが出てしまった場面だ。
だが、布袋寅泰の音楽はインパクトがあった。数ある音楽の中でも観客の耳に焼き付かせることに成功しただろう。もちろんそう考えるのは『日本でよくあの曲を聞いた私』だからであり、各国で同じような現象が起きている場合、違う国では違うことを言っているのだろうが。
殺陣をいくら千葉真一がやったからといって、ルーシー・リュウが出ているからといって、すべてにおいて『三流日本演出』である。ウルヴァリンのSAMURAIに出てくる看板やちょうちんに『だるま』と書いてあるくらい妙な違和感がある。ジョンウィック3のカタコトの日本語と同じだ。実はそのカタコトの彼は日本語がペラペラらしいが、あえてカタコトにしたようだ。となると、この私が言った『三流演出』は、世界から見たら『それが世界規格だ。お前が言う一流日本演出は、世界では通用しないよ。ドォモォ、アリガァトォが世界規格なのだ。発音しやすい。
例えば『PPAP』。あれが世界ヒットした時海外の人は『単語が3つしか出てこないだろ?シンプルなのはいいことだよ』と言った。トランスフォーマーでは日本製のコピー機に対し『日本は何でもかんでも複雑にすればいいと思ってる!』と、確かに感じているのであろう揶揄をするシーンがある。つまり、我々にとっての『三流日本演出』は、世界からすれば『一流日本演出』なのである。
日本を舞台にした有名映画は少ないのでどうしてもそういうことに目が行くが、そんなことを考えながら映画を楽しむのであった。すべてにおいて斬新なので、そういう意味で最後まで飽きない作品だ。
死亡遊戯、復讐、音楽、女性
『死亡遊戯』
この作品の途中でブルース・リーが急逝。1972年秋にクライマックスのアクション・シーンのみを撮影後中断、急逝により未完となった。だから途中から彼の代わりに違う役者が演じている。有名なこの黄色ジャージを着て相手の陣地に乗り込むシーンは彼が演じている。1984年に登場したゲーム『スパルタンX』は、ステージは全5階で構成され各階にいるボスを倒していくものだが、この構成がこの死亡遊戯に近いものとなっている。ファミコンだが『アター』という効果音が出るので、ブルース・リーを気取りながらゲームをすることができる。
ちなみに、『ドラゴン怒りの鉄拳』と合わせて観ることで2倍内容が楽しめる。そこで出てくるシーンが、ここでも出てくるからである。
怒りの鉄拳
『ドラゴン怒りの鉄拳』
ブルース・リーのヒット作一連のカンフー映画の第1作目にあたる『ドラゴン危機一発』が大ヒットとなり、続くこの『ドラゴン怒りの鉄拳』で、リーの人気を不動のものにした。だが実は、内容としてはあまり質が高いとは言えない。日本人が悪役になるが、当時人気が出たのも、大日本帝国の余韻が残る『悪の顔』を潰す爽快感がそこにプラスされたように見える。ただ、そういう事情を考えても『クソ映画』とはならないのは、やはりこの男の持つ圧倒的な絵力のおかげだ。ジャッキー・チェンというのは、何と2020年になっても『最も稼いだ男』としてハリウッドスターに並ぶほどのトップに君臨する人物だが、若くして死去したブルース・リーをいつまでも超えられない、という印象が何となくあるのは、この男のインパクトが計り知れないからだろう。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝/アイアンモンキー』
ワンチャイシリーズの主人公は『酔拳』と同じ、伝説の武道家ウォンフェイフォンだが、今回は外伝ということで彼の父親、黄麒英(ウォン・ケイイン)が主役である。ワンチャイで敵役を務めたドニー・イェンが演じる。ジャッキー・チェン、ジェット・リー、ドニー・イェンというのは中国3大カンフースターと言えるだろう。もちろん、全世界的に見ればジャッキー・チェンが群を抜いているのだが。しかし、作品を見ると彼にあるユーモアさがないだけで、彼らはストイックに武道家を演じていて迫力がある。世界には女性もいるわけだから女性ウケがどうなるかはわからないが、実在した人物なわけだから、見応えがある。
中国
『酔拳2』
全作品にある『酔拳』から2となるが、続いているわけではないのでここから観ても問題ない。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』同様、伝説の武道家ウォンフェイフォンをジャッキー・チェンが演じる。その作品が『シリアスな一面』を描くのに対し、この作品では彼の『ユニークな一面』を描いている。二つとも同時代から存在していたが、日本人の子供である私に届いたのは酔拳の方だった。だからジャッキー・チェンのような演技は世界規格だったと言えるだろう。
ジャッキー・チェンの動きはすごい。格闘技に少しでも触れたことがある人なら自分の限界をよく知っているが、あの動きは相当な鍛錬を積まなければできない。ブルース・リーもウォンフェイフォンも、ジェットリーもドニー・イェンもそうだが、中国はこの一面をもっと現代版にアレンジして展開すれば、唯一無二の境地を得るだろう。
爽快
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱』
このシリーズの第二弾である。今回伝説の武道家ウォンフェイフォンは、白く怪しい宗教『白蓮教』の台頭や若き日の孫文と接触することになる。中国の歴史としても貴重なシーンだ。だが、カンフーアクションがメインとなってしまうので、途中から次の作品に至るまで、現実離れした『悪い中国の一面』が出るようになり価値を落としていく。いや、子供の頃ならこういう世界が好きだったのだが、今はもう通用しないだろう。中国はこうした『虚偽の表層』を剥がして真実で勝負した時、世界を震撼させる『レッドクリフ』のような映画を打ち出す。
中国
『ナチス侵攻』
ドキュメントだ。1911年のヴィルヘルム2世が第一次世界大戦を、1939年にヒトラーが第2次世界大戦の引き金を引き、ドイツというのはこの世界に大きな混乱を招いた。戦争真っただ中に作成された参考映画だから偏りを懸念したが、気になるほどではない。当時の人々の気持ちになりながら観れば、当然というくらいの演出しかなく、あまり癇に障るようなことはない。つまり、この手のドキュメントに『中国侵攻作戦』など他の似たような作品もあるが、どれも懸念したような偏った内容はなく、できるだけ真実を伝えるようにしているのが伝わる。
そう考えると、今後多くの歴史戦争映画を観る時に役立つ貴重な資料である。どのようにしてドイツが戦争の引き金を引いたのか。ポーランドはなぜ被害国なのか。ドイツの近隣諸国の事情と、当時の戦争の詳細な成り行きを確認することができ、例えば学校で視聴するとしても役に立つ資料映画となるだろう。
ドイツ、戦争
『アーティスト』
白黒映画というのはカラーに慣れた世代からすれば『ワンランク格下』という印象になる。あえてそういうのが好きという玄人ぶったことは言えるが、万人はそうなる。多くの映画を観ている私でもそうなる。だが、実は白黒映画も見始めると一切そのことを忘れてしまう。(これがカラーだったらなあ)という感想は浮かんでこない。第一印象は悪いが、内容にはそれはほとんど影響してこないのである。
1927年から1932年までのハリウッドを舞台とし、トーキーの登場でサイレント映画の時代が終わった時代。ちょうど世界ではチャップリンの全盛期だと言えるだろう。彼はイギリス人だ。その後、40年代になって映画はハリウッド全盛期になる。アメリカだ。その後、50年代にマリリン・モンロー、オードリー・ヘップバーン・グレース・ケリー、エリザベス・テイラーといったアメリカのビッグスターが登場。映画の歴史の流れはそうなっていくわけだ。
では、そんな時代の変化の真っ只中にあった当人たちは、一体どのような心境でトーキー映画へと移り変わっていったのだろうか。いつの時代にも通用する流動変化の真理。それと直面する人間は、知性と勇気が試される。
教訓(流動変化)、不思議、すれ違い、犬が可愛い
『あるスキャンダルの覚え書き』
これは今調べて私も驚いたが、アメリカ合衆国で起きたメアリー・ケイ・ルトーノーの事件がモデルになっているという。その事件の概要は内容に触れるので書かない方がいいだろう。それを知らなくても中々見応えのある内容だった。女性がメインの作品で男の私にそう印象付けさせるのは中々だ。特に私は多くの映画を観ているので、中途半端な内容ではそうはならない。
また、印象に残ったのはケイト・ブランシェットのトイレのシーンだ。私はいたってノーマルだが、(なんでいちいちトイレのシーンを流すねん)と思いながらそのわずか数秒を見るのだが、汚らしいという感想を一切持たなかった。更にジュディ・デンチだが、よく彼女に『さすがベテラン』という評価があるのを見るのだが、特にその時の映画ではそうは感じなかった。だが、この作品ではそれを感じた。実は、偶然にも同時期にエリザベス1世を演じたことがあるらしく、二人の演技合戦がスタッフの間で噂されたという。そうした事情もあったかなかったか、この二人の切磋琢磨する実際がにじみ出て、こちらにその迫力が伝わってきたのかもしれない。
女性、実話、孤独
『アイ・アム・サム』
父親が知的障碍者である。そんな事実を考えた時、世間一般はまず見て見ぬふりをしたい。それだけ困難な状況がそこにあるのがわかるからである。自分の人生でもこんなに大変な思いをしているのに、そんなところにまで目を配ることはできないのだ。私の兄の結婚式があったとき、ある女性が私に近づいてきて何かを催促した。ご祝儀がどうのという話だったのだ、こっちはこっちで様々な事情を抱えていて、それどころではなかった。式の時間が書いてある紙が、お洒落な演出からか手紙の中の小さなメモに入っていてそれを私が見落として、式に出られなかったのだ。
私は元々人に合わせない性格だし少年時代は荒れていたから、多くの人々は私を悪く思っただろう。わざと出なかったとか、だらしないとか。しかし私は30分前に着いて、隣の公園で読書をしていたのだ。私は人一倍念入りに用意をしたはずなのに、その真逆の印象を与えてしまったのである。とにかく複雑だ。その女性が何を目的としているとかそんなことはどうでもよく、とにかく皆が集まる会の方には間に合った。
そうして帳尻を合わせながら落ち着こうとしたその時、女性が私に暴言に似た捨て台詞を吐き、私のそばを離れたのである。正直、ぶん殴ってやりたいくらい理不尽だった。怒号をまき散らし、胸倉をつかんで地面にたたきつけ、『なぜ今俺に暴言を吐いた?』と脅してやりたいくらい、理不尽だった。
・・さて、『世間一般』の人間の人生を少し覗いてみた。人は往々にしてこんなものだ。皆自分本位であり、人生に余裕はない。であるからこそ、彼のようなハンデを負った人のことを気遣おうという発想は生まれないのだ。
だが違う。そういう人こそこうした映画と向き合わなければならない。それは映画を観ればわかることだ。何を焦っている。何を欲している。我々が本当に大切にすべきことはなにか。思い出すべきである。
絆、病気、裁判、
『クレイジーハート』
『ハリウッドで最も過小評価されている俳優』ランキングでNo.1に選ばれていた主演のジェフ・ブリッジスは、この映画で見事アカデミー主演男優賞を獲得。ずば抜けた何かを得られるわけではない。だが、哀愁がある。
孤独、似た哀愁(ロングトレイル、マイレージマイライフ、サイドウェイ
『イルマーレ』
2000年の韓国映画『イルマーレ(時越愛:シウォレ)』をリメイクした恋愛映画。確かに違和感を覚える。キアヌリーブスのようなアメリカ人が、日本や韓国のような発想のシナリオの中で演じているのが、少し妙だ。だがそれは文句ではない。アメリカではなかなか発想されない展開だから、それをハリウッドスターが演じることはとても新鮮な絵に見え、斬新である。
ふと考えたのだが、我々アジアの映画は『宇宙』について描くものが少なく、どちらかというとこの映画のように『時間(タイムスリップ)』とかその手の映画が多いイメージがある。外ではなく内で起こる不思議な現象。それはもしかしたら仏教や儒教、またガラパゴス的島国の環境も関係しているかもしれない。もちろん単純にCGの技術不足かもしれない。『宇宙戦艦ヤマト』は大失敗だったように、単純にヘタなのだ。
だが、トムクルーズが演じた『オール・ユー・ニード・イズ・キル』、あるいは『アリータ:バトルエンジェル』、『ゴースト・イン・ザ・シェル』、『トランスフォーマー』、『ATOM』のように、ロボ、あるいは時間関連のシナリオは得意だ。いずれ、世界各国のその得意同士のタレント(才能)たちが集まって、ドリーム映画のようなものを作ってほしいと、考えるのである。
ちなみに、この映画を朝早くの静かな時間から見た。すると、とても清々しい気分になった。湖畔の静かな空気感が、環境とリンクしたのだ。
犬が可愛い、不思議な時間
『きみに読む物語』
私はいつも『恋愛映画が嫌い』というのだが、実は洋画であまり嫌いな恋愛映画というものはないのだ。ただ、先日日本の恋愛映画を観たら思い出した。私が嫌いなのは『空想を煽る非現実的な恋愛ごっこ』だ。本音が飛び交わない、恋愛の綺麗な部分だけ、つまりうわべだけを切り取った真実味のないキュンキュン映画には、男の私が胸を躍らせることはできない。
いや、日本の恋愛映画すべてがNGというわけでもないのだが、『狭い』のだ。だが洋画の場合はターゲットが往々にして全世界だから、遠い異国の男性である私にも響く内容が詰め込まれている。もちろん、日本語だと『絶妙に腹が立つ言い方』などに細かく気づいてしまい、英語だとそれが一切わからずテキストだけで観るから、余計な考え方にむしばまれないということも関係しているかもしれない。
さて、この映画の恋愛はどうか。中々類まれな状況である。映画として相応しいインパクトとシナリオ、そして見応えがある。『キュンキュン映画』という狭い価値観を大きく超えた、『命の使い方』という深遠なテーマが、ここにある。
命の使い方、
『スリングブレイド』
私は映画をたくさん観た。その中で、『教訓編』の第一位に13年間君臨し続けた映画にジョディ・フォスター主演の『ブレイブワン』というものがある。そして、誰もが心をかき混ぜられた『ダンサーインザダーク』という映画があるだろう。これは、それらの映画に似た角度から我々の心に訴求する、衝撃的な映画である。正直、この映画を浅い人に教えたくない。浅い感想でこの映画の純粋さを汚されたくない。私は今回、そんな映画に出会ったのだ。
衝撃、哀愁、絆
『シリアスマン』
コーエン兄弟の映画は『トゥルーグリット』、『レディキラーズ』、『ノーカントリー』といくつか観て、この映画もどこかのレビューで傑作だとあったのだが、あまり映画の悪いところを言わない私も、彼らの映画に大きく心が動かされたことがない。レディキラーズの際に、『批評家たちからの評価は高くとも一般受けはしないという兄弟に貼られたレッテルを返上した』というが、私はまだまだその『一般側』のようだ。あまり『ファーゴ』は衝撃的なシーンがあるが、後の場合はあまり大きく波が立たず、すーんという感じで映画が終わっていく。これが彼らのスタイルなのかもしれないが、やはり、興行収入ランキングのトップには食い込まないあたり、描き方がユニークだと言えるはずだ。だからこそ差別化となり存在感を出せるのだが。
『幸せのちから』
クリス・ガードナーという実在する人物の半生を描いた作品である。その男の人生がどういうものかということは、映画を観れば分かる。映画になるような人生を生きたのだ。波乱に満ちていた。あえて俯瞰で観たい。するとやはりこの物語にも当てはまるのは、『強いられて発揮された潜在能力』である。実は、偉人とは往々にして強いられている。病気、貧困、戦争、迫害、こうした様々な『負荷』を負い、そしてそれをはねのける為に力強い生きるエネルギーを発揮させるのである。
それはもちろん結果論だ。道中、そんな理論を冷静に説かれたところで、もがき苦しむ人間がそれを受け止められるかは分からない。だが、だとしてもその理論が人を救うこともある。この映画の原題はアメリカ独立宣言における「幸福の追求(The pursuit of happiness)※実際はHappyness」に由来するもの。幸福を求めない人は、既に幸福な人生を生きているか、幸福の持つ価値を理解していない人だ。彼があのようにして必死に幸福を追い求めることができたのも、『幸福の元へ向かうべきだ』という確固たる何かが、衝き動かしたからだ。
幸せになっていいんだ。幸福を追求してもいいんだ。それくらいなら余裕がなくてもいつでも願える。そして結果的にそこに向かう強いエネルギーが気運を呼び込み、自分の人生にスポットライトを当てるのだ。
実話、お金が必要、教訓、父親、レイジングブル
『ジョンQ -最後の決断-』
最初にこの映画を知ったときは、まだ20歳やそこらか、その程度だった。その時の私の頭の中は欲望でいっぱいだったから、映画を観るとして刺激的なもの。何も考えなくていいものがメインだ。だからこの手の映画は自然と自分の身から遠ざけてしまっていた。だが、心底の声は言っていた。本当はこういう映画を観るべきだと。映画を真剣に観ることができるようになった今、再びこの映画と真剣に向き合うのだった。
この映画は『教訓』映画でもある。その理由はアメリカ人ならすぐに理解できることだろう。切実な悩みだからだ。だが日本人がこの映画を教訓映画と位置付けるためには勉強がいる。アメリカの医療事情についてである。実はアメリカでの自己破産の原因第一位は、医療費の未払いなのだ。国民皆保険が適用されない彼らは、すべての治療に保険を効かすことができない。だからこそこうした事態に発展してしまうことも、いささか非現実的とは言えないのである。
命を救いたいと思って医者になった者が、いつの間にかこの国のシステムに支配され、大儀を忘れてしまっていた。この映画に出てくる『本当の医者』とは、一体誰のことだと思うか。
命の使い方、病気、教訓、父親、お金が必要
『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』
この映画の父親役には、ジーン・ハックマン、ロバート・デ・ニーロ、ロバート・デュヴァル、ジャック・ニコルソンなどの大スターが計画されていたという。確かにそれだとこの映画のレベルは大きく引きあがったと言える。だが、そうじゃない、(私にとっては)無名の俳優が演じることによって、それはそれで味が出て、物語の方にスポットライトを当てやすくなった。それは、この監督の映画『サイドウェイ』を鑑賞したからということも関係しているだろう。
確執があるわけではない。けど、親子の絆がとりわけ強いと断言できそうもない。そんなごく平凡の親子の絆を持った二人が、半ば強制的に決まった『無意味な旅路』で見つけた『意外なもの』とはなにか。
『サイドウェイ』
途中まで、正直何を見せられているのかという感覚も確かに感じてしまうことになる。それはその他の『王道映画』に登場する人物が、トムクルーズやジョニー・デップ、ブラッドピットやジョージクルーニーといった美男子であることも関係しているだろう。しかしこの映画に出てくるのは『おっさん』だけなのである。だからそこに映画の魅力を置いてしまっている人は、少しあっけにとられる。『鼻で笑う』ような、見下すような、そういう下品な感覚も浮き出てくるのかもしれない。
だが、私の場合それがよかった。いやしくも確かにそういう思い上がった心が浮き出ていた。だが、だからこそこの男性が最後に取った行動を見て、自分の恥ずかしさを思い知ったのだ。一体、何を思い上がっていたのか。私は『人間』だった。彼もブラッドピットもまた、同じ『人間』だった。
哀愁
『はじまりのうた』
全米五館での上映が口コミで人気を獲得し1,300館にまで広がったという実力派の映画。映画ファンにもこの映画が好きな人が多い印象だ。特に女性である。それはやはり女性が主人公であるということも関係しているだろう。シンデレラストーリーにも似た流れがあるし、誰もが共感できる恋愛のいざこざもある。私は個人的に、主役の二人が小さなライブハウスで出会うシーンが好きだった。男が彼女が歌う声を聴き、『演奏』が頭の中に鳴り響いたシーンである。きっと映画館で観たら鳥肌が立っただろう。
女性、音楽、歌いたい
『ウォッチメン』
マーベル漫画の実写化なのだが、『アベンジャーズ』と当然比べることになる。だが、そうなるとやはり後者の方がヒットすることになるだろうと、すぐに分かってしまう。何というか、これの場合は『原作に忠実』。だが、後者の場合は『ヒットする要素が盛り込まれている』印象だ。例えば、原作でドロドロとした不気味なキャラクターが出てくるからといって、それを忠実に描いても、『万人受け』の枠の中に入らなければそれはマイナーな階層へと転落することになる。
原作を見てないから『原作に忠実』かどうかは知らないが、どちらにせよヒットさせる気であれば、キャストからキャラクターから、その登場の演出から、もっと視聴者のニーズを満たしてハラハラさせる必要がある。これがこの映画が後者よりも目立たない理由の一つだろう。せっかく後者の無敵の大ボス『サノス』よりも強い(下手したら瞬殺レベル)のキャラクターが出てくるのに、もったいない。
『シンデレラマン』
大恐慌時代の1929~1935年に活躍したプロボクサー、ジェームス・J・ブラドックを描いた作品。正直に言って、私はあまり格闘技の映画は観ない。だからロッキーという名作ですら見るのに大分時間がかかった。その理由は、私が男だからである。結果私は、剣道とボクシングを経験した。もちろんロッキーも全部観たし、ランボーだってこのシンデレラマンだって観た。結果はもちろんそうだ。
だが、男というのはそう簡単な生き物ではない。私が向き合った世の8000の言葉の中で最も好きな言葉に、
『力に屈したら男に生まれた意味がねえだろう。俺は決して人生に悔いは残さない。』
というものがあるが、女性が『美』を常に求め続けるように、男にも常に求めるものがある。その魂から目を反らさず、常に愚直に磨き続ける人のことを、人は『硬派』だとか『男らしい』と言う。そう。感情移入しすぎるのだ。男として、煮えたぎる何かを抑えきれなくなる。それと同時に、老化によってその求めるべきものを求められなくなる決定的な現実に打ちひしがれ、悔しくなるのだ。
彼もまた、大恐慌という世界的な不況と怪我、そして年齢といういくつものハンデを負いながら、自分の人生と向き合う。男としてこの世界をどう生き、どう死ぬか。そんな健気で儚い、それでいて尊い一人のボクサー(戦う男)の物語である。
ボクサー、感動、お金が必要
『キッズ・オールライト』
レズビアンカップルと二人の子供。そして精子を提供した男性。こういう複雑な家庭状況を描くことで、ニッチが埋まる映画となりアメリカでは高評価を得た。人種のるつぼであるアメリカでは特に多様性を重視する傾向があるから、LGBT然り、こうしたマイノリティも『少数派』とは捉えず『個性の一つ』として捉える様子である。例えば日本人は『あの人と比べて自分の収入が上なら幸福を覚える』傾向があるのに対し、アメリカ人は『どれだけ自分らしく生きているか』を重視する傾向があるという。
日本にもレズビアンはいるはずだ。だが、我々はテレビでそういう人をよくは見かけない。あまり万人受けしないのだ。だがそんなアメリカでもマイナーなケースであることは事実。多様性を重視するはずの国で、人種差別が根深く残っているのだから。だからこそこうしたニッチ(隙間)にスポットライトを当てると目立ち、高評価を得やすくなるのだろう。
性別不合
『ザ・ハリケーン』
この映画の主人公ルービン・カーターは11歳のとき、白人男性の時計を盗んだとして、州の少年院に送られる。数年後、カーターは少年院を脱走し軍隊に入隊。これだけでも映画が一本できる。だが、彼が一味違うのは、そこから更に波乱に満ちた人生を送ったことだ。二度に渡りヨーロッパのライトウェルター級チャンピオンとなる。そしてリングネームを『ハリケーン』とし、ルービン・ハリケーン・カーターを名乗るようになった。
だが、やはり1960年代のアメリカ。黒人として生まれたハリケーンは、アメリカの根幹にあるその根深い黒人差別に苦しめられる。1966年6月17日、ルービン・カーターは、ニュージャージー州で3人の白人を銃で撃ち殺したとして逮捕された。これが『ルービン・カーター事件』である。だが、凶器もない。証言者も妙だ。しかし陪審員は全員が白人であり、時代の波も手伝ってカーターは有罪とされ、終身刑に服する事となった。
黒人の公民権運動家の代表格メドガー・エヴァースが暗殺されたのが1963年、マルコムXが暗殺されたのが1965年、キング牧師が暗殺されたのが1968年、60年代は影響力のある黒人たちがこぞって狙われ迫害された。ジョン・F・ケネディもその弟のロバート・ケネディも暗殺された。それが60年代のアメリカという国だ。
果たして、ハリケーンはこの理不尽な状況かつ、終身刑の絶体絶命となった窮地を乗り越えられるのだろうか。
黒人、絆、正義、実話、ボクサー、凡人ではない
『ジゴロ・イン・ニューヨーク』
ウディ・アレンの映画というのは好き嫌いが分かれる。とりわけ、日本人との相性はあまりよくないのかもしれない。例えば経済紙や専門家のれっきとした本を読んでいると、さらっと内容に『日本人は離婚したら失敗者という烙印を押される。でもアメリカは違う。離婚したら次を考えればいいと考える』と出てくる。確かに、ドラッグ一つやっただけで日本はもう完全に冷たい目で見られることになる。だがそのたびにアメリカの生活を知っている人たちからすれば、
ちょっと厳しすぎじゃない?
という感想を抱くことになる。確かに、映画を観ていても母親がドラッグ中毒者というケースをよく見かけて、中にはそれで死んでしまったという話も出てくる。日本はそうした事態を未然に防ぐために予防線を張っているのであり、いささかどちらが正解とも断言できそうもない。自由を追求した結果が銃の所持や少量の麻薬の私的な使用だ。国民皆保険がないから医療費が未払いで自己破産になる確率は高くても、ギチギチに固められた人生を送るよりはいい。自己責任のリズムを得るためにも、そうした自由とその代償は必要だ。そういうアメリカ人の主張も、一刀両断はできない。
性についても考え方は違う。日本であまりジゴロが活躍している様子は見受けられない。例えば万人受けのテレビ番組にはそういう人はピックアップされない。出てきても誰かがそれを批判して出づらくし、表に出てくることはできない。
ただし、とある性器やED・あるいは性的な事実を調査した専門書には『日本人はSEXに対して満足度が低い』というデータが記載してある。そう考えると、我々『奥ゆかしい』日本人は我々なりに美徳を持ち、世界に誇る生き方をしているが、根底のところではウディ・アレンが描くようなテーマについて、興味津々なのかもしれない。
『クリムゾン・タイド』
この映画を観ておく前にぜひこの事実は知っておいた方がいいだろう。私は調べずして映画を観たが、結論は観た方がいい。それはこういう内容だ。
ヴァシーリイ・アルヒーポフは、ソ連海軍の軍人。キューバ危機の際、アメリカ海軍への核魚雷の発射を防いだ。当時、核魚雷の発射には乗艦する三人の士官の承認が必要だったが、小艦隊司令および副艦長であったアルヒーポフだけがその承認を拒否した。この事実は、2002年に初めて公になった。
ヴァシーリイ・アルヒーポフ。このソ連の軍人がやったことがどれだけ重要か。日本人にそれを言う必要はないだろう。『キューバ危機』にどれだけの危機があったかを我々は正確に知らない。こうした事実とて40年経って初めて公開されたのだ。これはその彼をテーマにした映画だ。私は知らずして映画を観たが、それでも妙にリアルで緊迫感があり、見応えのある映画だと感じた。
それがまさか現実にあった話だとは。これこそが映画だ。
核(ピースメーカー、ウォッチメン、13デイズ)、実、冷戦、キューバ危機
『サイダーハウス・ルール』
サイダーハウス。それは『リンゴ農園』のことである。孤児院で生まれた男が、その父たる存在である医師の技術を学ぶが、自我の衝動によって反発が起き、家を出る。そこでたどり着いたのが、その孤児院で治療を受けて絆が繋がったカップルの、リンゴ農園だった。それは『家出』なのだろうか。女性の方に興味をそそられていることから考えると、『駆け落ち』なのだろうか。父たる存在との間に起きたことは『確執』とも言える。
彼なしでも生きていくことができる。
それは、孤児院で生まれた人間の、健気で尊い、心の叫びだったのだろうか。果たして、彼は『その旅』に何を求めるのか。彼は自分のその人生に、何を見出すのか。
音楽、絆、心温まる、確執
『カポーティ』
作家のトルーマン・カポーティ。彼はあの『ティファニーで朝食を』の原作者だ。これは、彼が代表作『冷血』を取材し書き上げるまでを中心に描いた伝記映画でもある。幼馴染で『アラバマ物語』の女性作家ハーパー・リーも出てくる。だから、それらの映画とセットで見ると、よりこれらの時代と世界観を満喫することができるだろう。アラバマ物語に出てくる『ディル』という少年のモデルは、カポーティなのである。
カポーティは同性愛者であった。作中では明言されていないので今調べるまでわからなかったが、秒で納得する『癖のある喋り方』をするので不思議ではない。映画を知ってる人には当時の裏事情などが知れて贅沢な作品だ。だが、もちろんそこには映画になるほどの難しい問題があった。
作家、実話、
『死ぬまでにしたい10のこと』
この手のテーマはよく見かけるはずだが、実は別に10個も20個もあるわけではない。一番有名なのがモーガン・フリーマンとジャック・ニコルソンの『最高の人生の見つけ方』だ。そのことをまず頭に浮かべる必要がある。そしてすぐに理解するべきなのは、この女性が23歳だということだ。だからヤフー映画でレビューを低くつけた人は、自分に『想像力』がどれだけあるか自問するべきである。すべて経験し終わった高齢者の話ではないのだ。
女性、命の使い方、病気(ガン