『ヒト』を最適化しよう。

2020年鑑賞映画(IQ.)後半

1597作品

2020年

 

『ワールド・オブ・ライズ』

これを最初に観た時は、あまり高い評価をつけることができなかった。基本的に映画に低評価をつける人間は『自分が勝手に想像したもの』との差異を覚えて幻滅した人か、無知な人だ。私は両者であった。何という愚か者だろうか。こんなにも見ごたえのある映画を『あまり面白くない映画』として片づけていた自分は恥だ。だから私は人にも『低評価をつけるのではなく、今の自分にはわからない』と言った方がいいと常々言っているのだ。

 

グリーンゾーン、グアンタナモ、殉教者の気持ち。次々とあの鑑賞後に覚えたキーワードを理解できる自分を確認できる。例えば当時の私は『サラディン』という言葉が何を意味するかすら知らなかった。そして彼が登場する『キングダムオブヘブン』も、その映画でメガホンを取った人物がこの映画と同じリドリー・スコットだということも知らなかった。

 

映画を120%楽しむためには、歴史を学ぶことが必要だ。私は一から学んだが、別に楽しかった。人から教わるのは受け付けないから授業などでは無理だが、自分から学ぶのは楽しかった。ぜひ、自分に合った方法で歴史を学びたい。大好きな映画を最高に楽しむためだ。

 

 

『ザ・タウン』

アメリカで最も強盗が多い街ボストン。強盗が日常茶飯事として起きることは想像できないかもしれないが、だからこそ映画になるわけだ。いや、中国やインドなどに目を向ければ実際にはもっと荒れた場所があるが、アメリカでのそれはどういう状況なのか、想像して観たい。最初に観た時はこの映画は皆がつけているように『★3』程度のものだったが、それは私が浅かったからだ。一人一人のキャラクターの一生を具体的に想像できるようになった今、混沌の街で生きる彼らの人生には、深い哀愁が漂う。

 

彼らがもし、違う街で生きていればどうなっていたのか。数十年前の『日本一巨大な暴力団』の幹部がテレビ番組に向かって言ったセリフにこういうものがある。

 

『生まれ変わったら?そりゃ坊ちゃんでしょ。そうすりゃヤクザなんかやらないで済むんだから。』

 

この言葉の是非や重みは知れている。だが、世に溢れているのは『知れている人間』ばかりだ。

 

 

『ウィンターズ・ボーン』

お金がない。親もいない。幼い弟と妹がいる。もし10代の女性がそんな状況に陥り、娼婦のような真似を『しない』で生きていくとしたら、一体どういう生き方を選べばいいというのだろうか。その方向は考えなかった彼女はもう一つのやむを得ない選択肢として『軍隊』を選んだ。そこである程度の報酬が期待できるからだ。

 

それにもしかしたら、父親は生きているかもしれない。麻薬を売って逃げたとか、怪しい話しか聞かないが、そんな親でもたった一人の親であり男手だ。ギリギリの綱渡りの生活の中、藁をもすがる気持ちで父親を捜索するが、様子がおかしい。核心へと近づけば近づくほど、周囲の人間の態度に異変が見られるのだ。一体父親の身に何が起きたのか。

 

哀愁

 

『ザ・ビーチ』

レオナルド・ディカプリオがあの『タイタニック』の後、100本以上のオファーを蹴って選んだのがこの作品。この年齢特有の体中に蔓延するエネルギーと好奇心が、当時流行した『サイケデリックトランス』というアンダーグラウンドな世界観と結合し、怪しい異彩を放っている。その要素は作中にひっそりとしか出てこないが、当時『レイブパーティ』と言えばドラッグの温床であり、彼らのような類の人々がよく散見された。果たして、彼は生きてそこを帰れるのか。

 

 

『奇跡の人』

目が見えない。それだけでとんでもないことだ。我々の脳が認識している一切の事物が、その人にはすべて無縁の存在となる。本、テレビ、人の顔、花、川、山、木々、ご馳走。子供たちが楽しそうに走り回る微笑ましい光景や、大自然の圧倒的で壮大な芸術に触れ、心が動くこともないのだ。

 

だがこのヘレンケラーにはまだ障害がある。『耳も聞こえない』のだ。こうなるともはや、我々が持っているありとあらゆる常識や道徳、マナーや哲学といった一切の『理性』は無力である。彼女にあるのは『野性』だ。それは同じ病を持って生きた実在の女性を描いた『奇跡のひと マリーとマルグレット』の映画を観ても分かることである。

 

大変なのは当人だけではない。当人を『導く』ための教師もまた、壮絶な人生を強いられることになる。この二つの作品は軽はずみに見ることはできない。最低でも『4人』の人たちの壮絶な人生を覗くことになるからだ。だが、この世に存在する親も含めたすべての『教師』は、彼女たちの人生を直視しなければならない。

 

それで何を思うかだ。それがその人が親、そして教師に相応しいかどうかを決める試金石となる。

 

ヘレンケラーは言った。

 

実話、女性、壮絶、教育

 

『ドリーム』

『ライトスタッフ』を観たことがある人にとっては楽しめるポイントがいくつもある。これは『ガガーリン』、『ライトスタッフ』、『スペースウォーカー』、『アポロ13』、『ファーストマン』とセットで米ソの宇宙競争、あるいは冷戦という形で観て楽しめる映画である。だが、今回はそれらと違って女性がメイン。これらの映画を観れば分かるが、この地球最前線の職場には『黒人』も『女性』もいない。

 

では、それらの人々は本当にそこにいなかったのだろうか。いや、いた。それも天才級の黒人女性が最低でも3人はいて、彼女たちは『彼ら』の活躍に欠かせない存在だったのだ。この映画の原題は『Hidden figures』。意味は『隠された人物』である。

 

女性、実話、天才、黒人

 

ライトスタッフ

ライトスタッフの意味は『正しい資質』だ。映画全体としての意味は、『選ばれた人間』というところ。宇宙飛行士になれる人間はごくごくわずかしかいない。『アポロ計画』よりも前に存在した『マーキュリー計画(宇宙に人間を送り出す国家プロジェクト)』を題材として、アメリカ人がソ連の『スプートニク』、そして『ガガーリン』の世界初の有人宇宙飛行の成功等に急かされながら奮闘する時代を描く。

 

このあたりの物語はぜひセットで観たい。『ドリーム』、『ガガーリン』、『ライトスタッフ』、『アポロ13』、『ファーストマン』である。これらで直接描かれるわけではないが、私は事前情報としてこれらの計画が『米ソ冷戦』に関連しているという話を押さえていた。そうした目線で見てみると、確かに水面下で彼らは確実にそれを意識している。その詳細記事がこれだ。

 

人類が月に行った理由は戦争における『空の優位性』が欲しかったからだった!

 

抜粋してみよう。

世界の人間と経済を支配するのは誰かを見極める闘争の渦中で、共産主義ソ連と資本主義アメリカが第二次世界大戦から学んだことは、より高く飛行できる方が敵の行動を監視する優位を得て、兵器の力を制御して、ついには世界の軍事的覇権を勝ち取れるということである第三次世界大戦すなわち『冷戦』においては、ドイツのロケット工学に刺激された米・ソは地球外宇宙空間に砲台をもっとも多く保持する者が、全地球上の軍事力を制御できると考えていた。月は、まさに『永遠の』空の優位性をもたらす星だったのである。

 

知らなかった人は、ぜひこの目線を踏まえた上でもう一度この米ソの宇宙競争を見てみよう。

 

実話

 

アポロ13

現代を生きる人はこのキーワードを聞いても『古い』というイメージしかよぎらない。だが、1960年から70年代の時代を生きた人からすれば、こんなにも心が躍るキーワードはない。『アポロ計画』である。人類が初めて地球以外の惑星に行く。あの、空を見上げるといつもそこにある『月』に行こうというのだ。このあたりの物語はぜひセットで観たい。『ドリーム』、『ガガーリン』、『ライトスタッフ』、『アポロ13』、『ファーストマン』である。

 

果たしてアポロ13号は、月へたどり着けるのか。

 

実話

 

ニクソン

リチャード・ニクソン。彼ほどアメリカ史を騒がせた大統領はいない。確かにブッシュJr.は唯一パレードで卵を投げつけられた男だが、彼が『ポンコツ』ならこの男に相応しい揶揄たる言葉は『悪質』である。ベトナム戦争、ウォーターゲート事件。同じ時代にちょうど起きた公民権運動といった黒人差別の問題も、彼とは無縁ではないだろう。その意味で、確かにこの映画の主演を務めるのはアンソニー・ホプキンズしかいない。彼ほどの威厳ある俳優でなければバランスが取れない。それほど彼がしでかしたことというのは致命的なのである。

 

『大統領の陰謀』、『ザ・シークレットマン』、『J・エドガー』、『7月4日に生まれて』といった直接的に関係ある映画はもちろん、ベトナム戦争について悩んだ兵士たちの話を入れるなら、彼の時代に関する映画はあまりにも多い。アメリカ環境保護局(EPA)の設置、麻薬戦争を掲げた麻薬取締局 (DEA) の設置などの功績もあるが、全く色々な意味で、確かに映画のような人生を送った人間である。

 

また、調べると彼はあのウォルト・ディズニーなどから多くの支援を受けていたという事実が存在しているようだ。これは私の推論に過ぎないが、だとするとベトナム戦争を描いたキューブリックの名作『フルメタルジャケット』で、最後に兵士たちが不気味なまでに行進しながら歌う『ミッキーマウスマーチ』には、キューブリックによるニクソン政治への何らかのメッセージがあるのかもしれない。本人は『反戦映画ではない』と言っているらしいが。

 

 

実話

 

ペリカン文書

義利合一』。その意味を知っている人は少ない。だが、真理である。意味は『義を守りながら利益を得よ』ということだ。孔子の教えである。つまり2500年も前からこの世に見出されている人間の真理だ。私はこれを次の一万円札の顔となる渋沢栄一の本から学んだ。彼はまさにこういう言葉を残している。

 

 

だが実際にはどうか。人間というのは『詰め込み、積み上げる』だけではだめだ。『掘る』ことが必要である。それをしない以上、この世に世界平和が実現されることは永久に来ない。そして逆にそれを全人間がするなら、その達成に極めて近づくことができる。では今回、この映画で、誰が、どんな道を踏み外したのだろうか。

 

正義

 

ジョーブラックをよろしく

私は基本、ファンタジーを好まない。だから私の家にある500冊の本の中に、小説や物語の類は一冊もない。しかし私は映画をこよなく愛している。映画にはファンタジーも多いしほとんどがフィクションで、ノンフィクションであってもいくつかの演出が施されているものである。

 

矛盾している。だから私がファンタジーが嫌いなのはこの世界に蔓延する人為的な『常識』に影響されているのであり、自律心を鍛えて人格者を目指す道にそれが存在しないからというだけだ。芸術やファンタジーに造詣が深くなくても人格者にはなれる。そういう一つの人間としての道義が、私にそういう常識人のような性格を与えているだけで、実際には心にジレンマを抱えているのである。

 

この映画はファンタジー要素が含まれている。現実世界ではまずあり得ないことが起こる。だから常識通りの発想で言えば、こんなもの観る価値のない現実逃避の要素の一つでしかなく、もっと他の現実的なものに目を向けた方が良さそうだ。

 

だがおかしい。なぜこのような常識を持つ私が、この映画によって大きく心を動かされるのだろうか。とても信じられない。現実的ではない。きっとこの彼女にもそういう常識があったことだろう。それがあるから常識ある社会人かつ大人でいられて、スマートな立ち居振る舞いができる。そこには人間としての品格が反映される。彼女は常識をよく知っている人物だからこそ、知的で品格があるように見え、高潔な存在に見えるわけだ。

 

それなのに、彼女は察知した。自分が愛した存在は、目の前にいる『彼と同じ姿をした人』ではなかったという、あまりにも非常識な現実を受け入れた。そのコペルニクス的転回とも言える大きなパラダイムシフトは、よほど知能指数が高い人間でなければできることではない。大抵の人は頭が真っ白になり、その直面する現実を受け入れ、整理することができない。

 

では、なぜ彼女はあのわずかの時間でそれができたのか。それは彼女が『彼』を心の底から愛したからである。愛という『存在』は、およそ『常識』などという人為的で脆い概念では計り知れないものだ。不可能を可能にし、人間に確信という安穏を与える。こうした愛の奇跡に触れるたびに私は、正しい方向に一歩前進する実感を持つ。ファンタジーに抵抗を持つ私の『常識的な穿った考え方』は、固守するほどの立派なものではないのだ。

 

純愛、孤独

 

デイズ・オブ・サンダー

私は全くレースなどに興味がないのでこの手の映画も後回しになってしまった。だが『ラッシュ』や『フォードフェラーリ』などを実際に観るとそれは単なる食わず嫌いだと理解する。実は、ボクシング経験があってもボクシングの試合を観るのも映画を観るのも抵抗がある。いくつもの経験を通して、それらの理由がすべて共通していることに気が付いた。

 

男は誰もが、この人生で命を使いきれるかどうかを念頭に置いている。私は8000の名言を内省したが、それで見えてきた男女の特徴に『男は階段を上ることに使命を覚え、女は踊り場でピクニックをすることに幸せを覚える』というものがある。それは脳科学を学んでみてもすべて合致した事実だ。男と女は『脳の形は同じ』でも『脳の使い方が違う』ことがわかっていて、それが男女の差異を生み出しているのである。

 

つまりこういうことだ。私がもしそれらを本当に軽視しているのであれば、流し見でも何でもして適当に構えればいい。だが、できないのだ。それは私が、男だからであり、男が命を賭けた戦いを観るのには、心構えがいるのである。

 

レース、音楽