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本当の厳しさ、本当の優しさ

私はかつて社員から、『厳しい』と言われることがあった。無論今は、その考え方を改めさせたが、本当の厳しさ、そして本当の優しさとは一体何だろうか。

 

例えば、『やさしくしてほしい』などと、男のくせに女々しく弱音を吐く社員がいたが、彼は本当のやさしさを考えられていなかった。だから私の言うことを聞かずに遅刻をしたり、ガラスを割ったり、火を消し忘れたり、何度も何度も同じミスを繰り返す。失敗ではない。『ミス』だ。

 

例えば、一つの道があるとする。そして、指導者である私は、『一度その道を通っている』。だから、その道の指導者をやっている。だから、素人には煙がかってよく見えない崖がよく見えていて、初めてその道を歩く人に、その道の歩き方を教える。

 

 

崖だと思っていないその脇道にそれようとしたその人の腕を引っ張り、『そっちは崖だ!戻れ!』としかりつけることは、『厳しい』のか、それとも『やさしい』のか?

 

答えは簡単であるが、実は、『やさしすぎ』ても駄目なのだ。言い方がやさしければ、また何度でも崖の方へ行ってしまう。崖にたちこめる霧が浅はかな想像を掻き立て、表面的に『楽な道』に見せているのだ。しかし、実際は崖であり、それは取り返しのつかない失敗の道につながっていることもある。その崖に落ちないように、『やさしく』注意をしても、繰り返してしまう人間には効き目がない。

 

そこは、『厳しく』、『やさしさ』を表現しなければならない。胸倉をつかみ、背負い投げをすることも、時には必要だろう。それは、本当の『優しさ』なのだ。

 

つまり、『優しい』と、『易しい』では、雲泥の差がある。

 

言い返しを恐れたり、関係の不仲を恐れたり、誤解を恐れたりして、『厳しく』できず、傷を舐めるような言い回しをする。それは、『易しい』。その助言で、本人は何のリスクも負う気がない。

 

相手を想って言えば『思いやり』、自分を思って言えば『余計なお世話』、相手の為に損な役を買って出て、『厳しい』助言をするということは、『優しく』なければできないことなのでる。

 

 

これは余談だが、『ラットレース』という概念がある。

 

 

『金持ち父さん 貧乏父さん』でロバート・キヨサキが使う言葉である。彼に言わせれば、一流の大学を出て、安定していて身分の高い官僚になるというエリートコースを歩む父親も、『貧乏父さん』なのである。ゴールのない輪っかを、ただひたすらくるくると回り続けるネズミ(ラット)に例えているのだ。型にはまった、反応的な、マニュアル人間を。

 

給料をもらい、その金を娯楽に使い、人生を満たしながら、時間をかけて昇格し、また給料を貰う。『資産』という名の『負債』である、車や、住宅のローンを組み、家庭を築き、ますますラットレースから抜け出せなくなる。

 

この考え方は、確かに容易には受け入れられない。私も、そうだった。しかし、一部の『金持ち父さん』は、全員この考え方に納得できるのだ。この、『一見非常識な、成功するための常識』を受け入れ、そういう人間になるために育てる。それを知っている以上、そういう指導をするのは当然ではないだろうか。

 

それとも、その指導の方向性が、ますますラットレースを加速させるものだとわかっていても、その人の現在の能力に適した助言をするべきだろうか。私は、いかなる人間も、ラットレースから抜け出す可能性があると、信じて疑わない。本当の優しさの意味を、履き違えている人間は、多い。