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エース『愛してくれて……ありがとう!!』

『人は、枯渇したゲージを埋めようと躍起になる』

 

この概念は私が自分の人生で幾多の葛藤を乗り越え、たどり着いた一つの確固たる見解だ。『貧乏』は『金持ち』に憧れ、『軟弱』は『屈強』に憧れ、愛を知らない人間は、愛されたいと願う。『貧乏』でも、『屈強』であれば、『軟弱』の『金持ち』に、憧れられる。『隣の芝生は青く見える』とは、よく言ったものだ。

 

だが私にもそれがよく理解る。私はクリスチャンの家に生まれたが、私はクリスチャンにはなれなかった。自分の心を、誰かに(神)に委ねるとか、そういうことは私には無関係だった。それが人間として『傲慢』だとか、『感謝が足りない』とか、『甘え』だとよく言われた。しかし例えば、仏教徒の、身体が悪い祖母が洗濯物をしていても、手伝おうとしない母親に、何か人として崇高な気高さは感じられなかった。宗教の違いがそうさせているのか。そうじゃなかったとしても、どちらにせよこういうことに何も触れない、『排他的な人間』には憧れなかった。そういう時に手を差し伸べる、あるいはひと声でも声を掛ける。そういう人間が、立派なのではないだろうか。

 

私はその時まだ宗教が、この世の幾多の争いごとの根幹的原因となる、人間の弱さに付随する『慰め』だということを知らなかった。私が教会に行かないと、力づくで怒鳴り散らし、強要されたときも何度もある。私はいつも葛藤していた。最愛の家族と価値観が違う。クリスチャンにならなければこの家族の一員として認められない。私は刃物を握ったが、殺すほど憎むことはできなかった。

 

親を、愛していたからだ。愛していたからこそ、価値観が違う事に深く傷ついた。だがもちろん、親も、愛していたから私に信仰をすすめたのだ。18歳の時父が死に、あれから10年の月日が流れた。想像を絶するほどの葛藤を重ね、波乱万丈の人生を経験し、今ではお互い、適切な距離感を保とうと努力することが出来ている。関係も、この15年で一番良好だと言えるだろう。だが、いまだに母は、私が『やめてくれ』と15年以上言い続けているにも関わらず、私の前で深刻な声で、祈りを始めてしまう。

 

いや、アメリカに行けばこういう風景など日常茶飯事だろう。そして、外国の訪問先でそういうシーンがあれば、私は迷わず、祈りに付き合うだろう。それは、キリスト教だろうが、イスラム教だろうが、仏教だろうが、同じことだ。だが家族とのそれは、見て見ぬフリができない。それは私が、家族を愛しているからだ。10年以上前、母親と突き詰めて口論をした時、確信した。

 

『俺がどうなってもいいのか!俺の為に(クリスチャンを)やめろよ!』

 

『・・・私はやめることはできない』

 

(…そうか。母親は、ある種の病気なんだ。親って絶対じゃないんだ。可哀そうなんだ。だから、こっちが見守らなければいけないんだ。)

 

信仰があるおかげで、粗悪な生活態度を戒め、毎日の食事に感謝し、自堕落に走ることが無い。姉が死に、弟が死に、父が死に、夫が死に、それでも残された子供の為に気丈に生きていかなければならないために、信仰を必要とするのなら、どうして私がそれを、やめさせることができるだろうか。

 

皆、『(自分がしたいように)愛したいし、(自分がしてもらいたいように)愛されたい』のだ。無い物ねだりなのかもしれない。我がままなのかもしれない。しかし、とかく人間は、自分が一番欲しいと思ったモノを求めて、人生を旅する。これは我々人間の、どうせ無くなるこの”意志”で、儚い人生に”意義”を見出だすという、 “意地”なのかもしれない。

 

『愛してくれて……ありがとう!!』

 

Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV

※画像は以下の参考文献から引用しています。

 

一言

この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。