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ソクラテス『わたしがいなくなれば言葉の針で刺される心配もなくなって、みなさんは残りの人生をダラダラと滅びゆく国の富をあてに暮らすことになる。』

古代ギリシャ哲学者 ソクラテス画像

内省

ソクラテスのように、『アブ』を買って出て、人に『言い返しされること必至』の意見を言うことが出来る人は、そういう『損な役目』を買って出ることが出来る人は、どれぐらいいるだろうか。だがこのことが『損』だということについて、一度よく考えなければならない。これは私の話だが、まず、『偽善者め。』と通りすがりに耳元で言われる。それも、『偽善者』という言葉の意味を知らない人間に、である。

 

まあ冷静に考えれば当然だ。相手がそういう分別のわきまえた人間であれば、そもそも『針で刺す』、つまり『助言』などしなかったのだから。それに、『変人』扱いされる。そして『異常者』扱いもされる。『あいつさえいなければ平安だ』として、徒党を組んで追い出す、あるいは隠蔽するために真実を捏造し、あるいは歪曲し、自分たちの都合の良いものにすり替える。

 

私は、ソクラテスと全く同じ目に遭ったのだ。だが、ソクラテスほどの人物と『同じ行動を取り、同じ目に遭った』ことが、何か嬉しかった。そう。それを知るまでは(損かな)と思っていたのだ。だからこそ、『それまでの間』、意見を言わなかった。そして言った。すると、やはりそういう目に遭った。だがソクラテスが同じ目に遭っていたことを後で知った。すると、どうやら私がやったことは『正解』で、周囲の人間が『間違い』だったということがわかったのだ。

 

更にそこから10年遡る自分は、『偽善者』とか、『綺麗ごと』とか、『チクる』とか、そういうことは絶対にしないと決める、忠誠心の強い人間だった。しかしもちろんそれは、『忠誠心』の意味を『援用』していたのだ。意味を理解していなかった。それなのに、知ったつもりで、そして自分はその『忠誠心の強い男』を演じていた。

 

こんなにも恥ずかしいことは無い。私にはプライドがある。私にはあるのは、見栄ではない。 それを知った時から私は、(自分の心にあるこれは、単なる見栄か?それともプライドか?)そう自問して、そして答えはすぐに出た。

 

私にあるのは、プライド(誇り)である。私は『無知』で、愚かで、惨めで、醜く、卑怯者だった。プライドが本当に高い人間は、その事実を受け止められる人間のはずだ。そうして、ソクラテスら四聖や、偉人の言葉と向き合い、内省をしながら、今日までそれを続けているのだ。『偽善者め』と言った彼が、『偽善者』という言葉の意味を知らなった。それについて憤り、嘆き、悲しむ私は、『傲慢』である。

 

かつて、私のトラウマでもある幼少期の父親とのやりとりで、

 

死ね!

 

と叫んだ6歳やそこらの私に対し、

死ねとはなんだ!

父親

 

と怒鳴りつけ、そもそも私がそう言った理由が、『親の見栄のせいで、理不尽に投げ飛ばされて、何もしていないのに痛い目に遭った』ということではあったのだが、逆に『力でねじ伏せられた』ことを許すことが出来ず、心が歪曲していった、という自分の話はこれみよがしに、正当化しながら『悲劇のヒーロー』を演じるくせに、『偽善者め』と言った彼に対し、怒り狂うというのは、まるで『かつての父親』ではないか。

 

相手は言葉の意味を知らないのだ。それに対してムキになるなら、私は幼少期の話をこれ見よがしにしてはならない。死んだ父親に憎悪の感情を抱いているのではない。単純に、『その時の行動』だけだ。私が言っているのは。

 

私はあの事実を隠蔽しない。そして美化も正当化もしない。それは当然、自分自身に対しても、同じように厳正なる目を向けなければならない。父親も、自らの命が子孫の肥やしとなり、超えられることに喜びを見出すだろう。私も、父親どころか、祖父も、高祖父も全血筋を超えようと思うし、そして、子孫には更にそれを超えてもらいたいと思っている。

 

それは、『生命の矜持』である。『生命の宿命』なのだ。私の話はいい。ソクラテスの一生を見て、『知者(知っている者)』が『無知者(知らない者)』に対し、どういう行動を取る責任があるか、そういうことを今一度、学ぶべきである。

 

 

注意

※これらの言葉は参考文献『これならわかるソクラテスの言葉』や史実に基づき、自らの生きる糧、自らを戒めるため、内省の為に日々書き留めたものです。史実を正確に把握したい方は正当な書物をご覧ください。

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『人間が戦うべき相手は外にはいない。「内」にいるのだ。』

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