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ブッダ『多くの人は、真に強く、智慧ある人がどういう人か知らない。』(超訳)

仏教の開祖 釈迦画像

内省

本当に智慧のある人、本当に強い人とは、どういう人のことだと思うか。知識や自分の業績をひけらかして、人を支配しようとする人のことだろうか。腕力や権力を縦横無尽にふりかざして、人を支配しようとする人のことだろうか。

 

いや、違う。むしろ、その逆だ。そういう偉そうな人からの理不尽な弾圧に、平常心でもって対処できる人が、『知的』であり、『強者』なのだ。

 

普通、それはできない。そこまで精神が鍛えられている人は、ごく稀である。もしそれをやって見せる人がいたとしたら、それは彼、彼女が、凡人には到底想像できない試練の壁を、潜り抜けた賜物なのだ。つまりそういうことだ。

 

理不尽と混沌の闇という試練の壁を乗り越えるまさにそのとき、ひどい体験をしただろう。辛い思いをしただろう。もう少しで精神が崩壊したことだろう。だが、それをくぐり抜けた。これ以上の強者がいるだろうか。これ以上、生きる智慧、生き抜く智慧を身につけた者が他にいるだろうか。

 

まるで、トレーニングで崩壊した筋肉が、適切な栄養と休養によって超回復し、より一層の強い筋肉となって甦るように、あるいはある種の動物が、この圧倒的な大自然と壮大なスケールの宇宙、無限の時間軸の中で生きていくにあたって、その生態系を変え、身体あるいは脳を発達させ、今も力強くこの世をただ生きるために進化したように、真に強く智慧ある人とは、それだけの試練の壁を、乗り越えてきた人間のことをいうのだ。

 

多くの人は、真に強く、智慧ある人がどういう人か知らない。知ってる?それならあなたは、どんな試練にもめげず、弱音を吐かず、確信をもって自分の人生に立ち向かっていける、稀代の勇者だ。

 

孔子や、釈迦、ソクラテス、キリストといったいわゆる四聖は、聞人(ぶんじん。世間によく名の聞こえた人)や郷原(きょうげん。自分の意見を主張せず、世渡り上手に生きていこうとする人)を向こうに廻して自らの信ずるところに従って、堂々と主張し、行動したのだという。つまり、彼らは力には決して屈せず、その知性でもって、逆に人に教えを説いた。自分の人生にどれだけ逆風が吹いても関係ない。自分が確信した一本の道を、歩くその足を止めることはなかった。

 

自分が彼ら、人間の四聖と言われた頂点と同じ土俵にいると思うなら、それでもいい。だが、この記事を見ているくらいなら、まだ人生に十分時間はあるだろう。

 

(自分はまだ早い)

 

常にそういう気持ちで人生を生き貫くことが出来たら、彼らと同じ土俵に入ることは、十分に可能だ。自分の知恵と力を、見誤ってはならない。

 

 

注意

※これらの言葉は参考文献や史実に基づき、運営者が独自の見解で超訳し、自らの生きる糧、自らを戒めるため、内省の為に日々書き留めたものです。史実を正確に把握したい方は正当な書物をご覧ください。

参照文献

仏典

法句経399。

関連する『黄金律

『他と違うことは恥ではない。誇りだ。』
『どれだけ生きるかではなく、いかに生きるかが重要なのだ。』
『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』
『「生きる」ということの本当の意味とは。』

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